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アントニ・ズドラヴコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アントニ・ズドラヴコフ
名前
本名 アントニ・イヴァノフ・ズドラヴコフ
ラテン文字 Antoi Zdravkov
ブルガリア語 Антони Здравков
基本情報
国籍  ブルガリア
生年月日 (1964-08-20) 1964年8月20日(60歳)
出身地 ソフィア
身長 186cm
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1984-1987 ブルガリアの旗 レフスキ・ソフィア 43 (0)
1987-1990 ブルガリアの旗 ロコモティフ・ソフィア 70 (4)
1990 ブルガリアの旗 ヤントラ 6 (0)
1991 ポルトガルの旗 マリティモ 19 (0)
1991-1992 ポルトガルの旗 CDナシオナル 22 (0)
1992-1993 ポルトガルの旗 カステロ・ブランコ 19 (1)
1993-1994 ブルガリアの旗 ロコモティフ・ソフィア 25 (1)
1994-1996 ブルガリアの旗 ヴェルブジド 55 (3)
1996-2000 ブルガリアの旗 セプテムヴリ・ソフィア 120 (8)
代表歴
1986-1989  ブルガリア 3 (0)
監督歴
2005-2006 ブルガリアの旗 チャヴダル
2006-2008 ブルガリアの旗 カリアグラ・カヴァルナ(アシスタント)
2008 ブルガリアの旗 カリアグラ・カヴァルナ
2008-2009 ブルガリアの旗 レフスキ・ソフィア(アシスタント)
2010-2011 ブルガリアの旗 カリアグラ・カヴァルナ
2011 ブルガリアの旗 レフスキ・ソフィア(アシスタント)
2011-2012 ブルガリアの旗 ボテフ・ヴラツァ
2012-2013 ブルガリアの旗 ボテフ・ヴラツァ
2013-2014 ブルガリアの旗 レフスキ・ソフィア
2014-2018  ブルガリア U-21
2018 ブルガリアの旗 ルドゴレツ・ラズグラド(アシスタント)
2018-2019 ブルガリアの旗 ルドゴレツ・ラズグラド
2019-2021 ブルガリアの旗 ボテフ・ヴラツァ
2021- ブルガリアの旗 ツァルスコ・セロ・ソフィア
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アントニ・イヴァノフ・ズドラヴコフブルガリア語: Антони Иванов Здравков1964年8月20日 - )は、ブルガリアの元サッカー選手、現サッカー指導者。元ブルガリア代表

クラブ歴

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1984年にレフスキ・ソフィアに加入すると1984-85シーズンに早速ブルガリアプロサッカーリーグを制覇、1986-87シーズンにはブルガリア・カップを制覇した。その後、PFCロコモティフ・ソフィアに移籍したがあまり揮わず、FCヤントラ・ガブロヴォに移籍した。

ブルガリア人民共和国が崩壊すると、海外に活路を求めてポルトガルに渡った。CSマリティモに加入したものの上手く行かず、CDナシオナルスポルト・ベンフィカ・エ・カステロ・ブランコとクラブを変えて行ったが、やはり活躍は出来なかった。

1993年にブルガリアに帰国し、ロコモティフ・ソフィアに再加入。その後も2部以下のクラブを転々とし、2000年末に36歳で引退した。

代表歴

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キャリアの初期である1986年から1989年にかけてブルガリア代表として3試合に出場した。

監督歴

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選手引退から数年して指導者となった。PFCチャヴダル・ビャラ・スラティナで監督としてのキャリアを始めた。

翌2006年にFCカリアグラ・カヴァルナに移籍、ヴェリスラフ・ヴツォフの下でアシスタントコーチとなり、2007-08シーズンのブルガリア・カップ準決勝進出という快挙を成し遂げた。リーグでも2位にまで押し上げる好成績を残した。その後一時期監督も務めたが、レフスキ・ソフィアからゲオルギ・イヴァノフの下でアシスタントコーチの仕事を依頼され移籍。と言ってもイヴァノフは当時UEFAのライセンスを保有していなかったため、名義上はズドラヴコフが監督を務めた時期もあった。この二人のタッグでクラブはリーグを3位で終え、UEFAヨーロッパリーグへの出場権を獲得した。その後、ヤーセン・ペトロフが監督に就任したため退任となった。

その後、カリアグラに復帰したが、この時には既に1部に昇格していた。2010-11シーズンを12位で終えて1部に残留したが、この結果に不満を抱かれ解任、後任はアダルベルト・ザフィロフとなった。

そして再びレフスキ・ソフィアでイヴァノフのアシスタントを務め、2011年12月にPOFCボテフ・ヴラツァの監督に就任。2013年4月7日のPFC CSKAソフィア戦では審判の判定に抗議、審判に対してレッドカードを提示したため退場及び1試合の謹慎処分となった[1][2]

2013年にレフスキ・ソフィアで監督に就任するが、翌2014年3月19日のブルガリア・カップ準決勝で敗北し辞任[3]。同年10月にブルガリアU-21代表監督に就任した[4]

タイトル

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選手

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レフスキ・ソフィア

脚注

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外部リンク

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