アントニオ・マンチーニ
アントニオ・マンチーニ Antonio Mancini | |
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ジョン・シンガー・サージェントによる肖像画 | |
生誕 |
1852年11月14日 イタリア,アルバーノ・ラツィアーレかローマ |
死没 |
1930年12月28日 イタリア,ローマ |
運動・動向 | ヴェリズモ |
アントニオ・マンチーニ(Antonio Mancini、1852年11月14日 - 1930年12月28日)はイタリアの画家である。
略歴
[編集]ローマで仕立て屋の息子に生まれた。幼い頃から美術の才能が認められ、12歳でナポリ美術アカデミー(Accademia di belle arti di Napoli) に入学し、ドメニコ・モレリやフィリッポ・パリッチらに学んだ。同じように貧しい境遇の彫刻家のヴィンチェンツォ・ジェミート(Vincenzo Gemito:1852-1929)と親友になった。
1870年までには画家として成功し、サロン・ド・パリに2点の絵画が出展された。1872年にヴェネツィアを旅した。美術学校を卒業し、ローマに戻り、ローマでスタジオを開いた。イタリアでは「ヴェリズモ」(verismo)と呼ばれる「写実主義」のスタイルの絵画を描いた。
1875年にパリに数か月滞在し、パリの画商、アドルフ・グーピル(Adolphe Goupil)や画家でコレクターのヘンドリック・ウィレム・メスダフのためにに作品を製作した。
1877年に再びパリを訪れ、有名な画家のエドガー・ドガやエドゥアール・マネと会い、人気のあった肖像画家、ジョン・シンガー・サージェントと友人になった。エルネスト・メソニエやジャン=レオン・ジェロームといった画家とも知り合い[1]、サージェントに招かれて1880年にロンドンも訪れ、ロンドンでもマンチーニの作品は好評であった。
1881年から鬱病に苦しむことになり、入院し、1883年にはローマに戻り、20年にわたってローマで過ごし、メスダフらからの援助を受けながら苦しい生活を送った。1903年から1913年まではフラスカーティに住んだ。ローマで没した。
作品
[編集]-
『少年』
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"Il Malatino" (1878)
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収穫祭の旗手 (1884)
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小さな神学生(1872)
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John Lowell Gardner II-美術収集家(1895)
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曲芸師(1879)
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幼いゴルファー
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(1888/1890)
脚注
[編集]- ^ ^ Matteo Lafranconi, MANCINI, Antonio, in Dizionario biografico degli italiani, vol. 68, Roma, Istituto dell'Enciclopedia Italiana, 2007
参考文献
[編集]- Anna Caputi, Raffaello Causa, Raffaele Mormone (a cura di), La Galleria dell'Accademia di Belle Arti in Napoli, Napoli, Banco di Napoli, 1971, SBN IT\ICCU\NAP\0178087.
- Antonio Mancini, catalogo della mostra, Milano, Fondazione Europa, 1973
- B. Mantura, E. di Majo, Antonio Mancini: 1852-1930, catalogo della mostra tenuta a Milano, Roma, Leonardo-De Luca, 1991
- Manuel Carrera, Antonio Mancini in Inghilterra. Il rapporto con John Singer Sargent, in Storia dell'arte, nº 133, 2012, pp. 152–180. URL consultato il 5 novembre 2015.
- D. Di Giacomo, Antonio Mancini (1852-1930): la luce, il colore, Pescara, Ianieri, 2015
- U. Hiesinger: Antonio Mancini. Nineteenth-Century Italian Master, Yale University Press, 2007, ISBN 978-0-300-12220-6