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アンソニー・ブルック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンソニー・ブルック
Anthony Brooke
サラワクのラージャ・ムダ(王太子)

出生 (1912-12-10) 1912年12月10日
死亡 2011年3月2日(2011-03-02)(98歳没)
ニュージーランドの旗 ニュージーランド ワンガヌイ
埋葬 マレーシアの旗 マレーシア サラワク州クチン ブルック家墓地
父親 バートラム・ブルック
母親 グラディス・ミルトン・パーマー英語版
配偶者
    Kathleen Mary Hudden(離婚 1965年)
    Brigitte Keller(結婚 1982年)
子女
    • James Brooke
    • Angela Brooke
    • Celia Brooke
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アンソニー・ウォルター・デイレル・ブルック(Anthony Walter Dayrell Brooke、1912年12月10日 - 2011年3月2日)は、サラワク王国のラージャ・ムダ(王太子)である。

生涯

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アンソニーは、サラワク王国の第3代ラージャ(藩王)ヴァイナー・ブルックの弟バートラム・ブルックと、イギリスのビスケットメーカーであるハントレー・アンド・パーマーズ英語版の経営者初代準男爵ウォルター・パーマー英語版の唯一の子供で、その財産を相続したグラディス・ミルトン・パーマー英語版との間の息子である[1]。アンソニーはイギリスで育ち、イートン・カレッジケンブリッジ大学トリニティ・カレッジロンドン大学東洋アフリカ研究学院で学んだ。その後、父も統治に参加するサラワク王国に渡り、公務員や判事として働いた。

1937年8月25日、ラージャである伯父のヴァイナーから、ラージャ・ムダ(王太子)の称号を持つ後継者に指名され、"His Highness"(殿下)の敬称を授けられた。1939年から1940年にかけて、ラージャが不在中の代行を務めた。1941年1月17日、ラージャ・ムダの称号と殿下の敬称を剥奪された。1941年、ヴァイナーと政府高官の妹との結婚をめぐる争いに巻き込まれ、サラワクから追放された[1][2]

第二次世界大戦中の1941年11月、イギリス陸軍に入隊し、1941年から1944年にかけて、中尉としてイギリス領セイロンキャンディにある東南アジア司令部英語版情報部隊英語版に務めた。1944年から1945年まで、日本の軍政から解放されたサラワクの特別総監を務めた。

1944年、ヴァイナーとバートラムの協議により、アンソニーのラージャ・ムダの称号が復活した。しかし、1945年10月12日には再び剥奪された。

1946年、ヴァイナーはラージャを退任してサラワクをイギリス植民地省に割譲し、それと引き換えに自分と3人の娘のための多額の年金を引き出した。王位の継承者に指定されていたアンソニーは、ネグリ・センビラン(サラワク議会)の多数派である先住民の議員らとともに割譲に反対した。彼らは約5年間に渡り反割譲運動を継続し、シンガポールに住むアンソニーがその指揮を執った[1][3]。1948年、イギリスから派遣されたサラワク総督のダンカン・スチュワートが、若い民族主義者のロスリ・ドビ英語版により暗殺された。アンソニーはこの事件への関与が疑われ、イギリス保安局(MI5)の監視を受けたが、アンソニーの関与を示す証拠は見つからなかった[1]。アンソニーは1951年に反割譲運動から撤退したが、彼の支持者たちはそれ以降もアンソニーを王位請求者とみなし続けた[4]

その後アンソニーはイギリスに戻り、ロンドンサセックススコットランドフィンドホーン英語版に住んだ。1982年に平和活動家のブリジッド・ケラー(Brigitte Keller)と結婚し、1987年にニュージーランドワンガヌイに移り住んだ。

2011年3月2日、アンソニーはワンガヌイの自宅において98歳で死去した[5]

死後

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2012年にイギリス公文書館から機密解除された文書により、アンソニーは総督暗殺事件とは一切無関係であり、そのことをイギリス政府も当時から知っていたことが判明した[6][3]。実行犯のドビらは、独立したばかりのインドネシアとサラワクとの連合を主張する政治グループ「ルクン13英語版」のメンバーだったが、インドネシアを刺激したくなかったことと、当時のイギリスがサラワクの北西のマラヤ危機に対応していたことから、この事実は公表されなかった[6][3]

2013年、ブルック家の一族により設立されたブルック・トラストは、アンソニーの遺志に基づき遺灰をサラワクのブルック家墓地に改葬すると発表した[7]。同年9月21日、アンソニーの遺灰がブルック家墓地に埋葬された。この式典には、アンソニーの未亡人のブリジッド、孫のジェイソンのほか、イギリス政府の関係者も参列した[8]。駐マレーシア英国高等弁務官代理は、アンソニーの事件への関与はなかったと正式に声明し、イギリス政府を代表して謝罪した[9]

私生活

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アンソニーはウィリアム・エドワード・セシル・ハッデンの娘キャサリン・メアリー・ハッデン(Kathleen Mary Hudden)と結婚した。キャサリンとの間には3人の子供が生まれたが、2人は1965年に離婚した。以下に、アンソニーとキャサリンの間の子供、およびその子孫を示す。

  • ジェームズ・バートラム・ライオネル・ブルック(James Bertram Lionel Brooke、1940年8月16日 - 2017年5月27日[10]) - サラワク協会の終身会員、ブルック・トラスト議長、王立アジア協会フェロー。最初にヴィクトリア・ホールズワース英語版と結婚し[注釈 1]、その後カレン・メアリー・ラッピンと結婚した。2人目の妻との間に以下の2人の子供をもうけ、エディンバラに住んでいた。
  • アンジェラ・キャロル・ブルック(Angela Carole Brooke、1942年 - 1986年)
  • セリア・マーガレット・ブルック(Celia Margaret Brooke、1944年11月3日 - 2011年12月17日) - 最初にデイヴィッド・レイ・ハーパー・イナヤート・ハーン(イナヤート・ハーン英語版の孫[12])と結婚し、その後レンヌ・ル・シャトー英語版のマルセル・カプティエと結婚した。最初の夫との間に以下の1人の娘がいる。
    • スーラ・ブルック・ハーパー(Sura Brooke Harper) - 以下の2人の息子がいる。
      • Leandro Kubilay
      • James Ray

1982年、アンソニーはスウェーデン出身の平和活動家ブリジッド・“ジータ”・ケラー(Brigitte "Gita" Keller)と結婚した。ブリジッドは、1975年にスウェーデンでオペレーション・ピース・スルー・ユニティ(OPTU)を設立した[13]

脚注

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注釈

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  1. ^ ジェームズとの離婚後、ジョン・ポール・ゲティ・ジュニアと再婚した。

出典

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  1. ^ a b c d Obituary: Anthony Brooke”. The Daily Telegraph (6 March 2011). 9 March 2011時点のオリジナルよりアーカイブ7 March 2011閲覧。
  2. ^ "End of Absolutism". Time. 6 October 1941.
  3. ^ a b c Mike Thomson (12 March 2012). “Radio 4's investigative history – The stabbed governor of Sarawak”. BBC News. 4 November 2016閲覧。
  4. ^ Former Rajah Muda recalls days in Sarawak Angelfire Retrieved 26 March 2023
  5. ^ "Wanganui home gifted to peace group", Merania Karauria, 31 May 2011
  6. ^ a b Mike Thomson (14 March 2012). “The stabbed governor of Sarawak”. BBC News. 4 November 2016閲覧。
  7. ^ "Last Rajah Muda to be buried in Sarawak", Borneo Post, 31 August 2013.
  8. ^ "Farewell to the Crown Prince", Borneo Post, 22 September 2013.
  9. ^ Farewell to the Crown Prince – BorneoPost Online | Largest English Daily in Borneo”. Borneo Post (22 September 2013). 4 February 2014閲覧。
  10. ^ James 'Lionel' Brooke, scion of the 'White Rajahs' of Sarawak – obituary”. The Daily Telegraph (3 June 2017). 7 August 2017閲覧。
  11. ^ jbrookesarawakの投稿(pfbid02kNQn7agm8tsLdq1Q446mRFJ5AcucmBA9obtDtWvGiWqCkZfezzDffs2YEz94S63Nl) - Facebook
  12. ^ David Ray Harper Inayat Khan is the son of Claire Inayat Khan (a.k.a. Claire Ray Harper), youngest child of Inayat Khan. (Khair-un-nisa "Claire" Inayat Khan, The Sufi Remembrance Project.) Claire Ray Harper and David Ray Harper authored We Rubies Four, about the four children of Inayat Khan We Rubies Four; the Memoirs of Claire Ray Harper (Khairunisa Inayat Khan)”. 2 November 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。11 June 2013閲覧。
  13. ^ Operation Peace Through Unity

外部リンク

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アンソニー・ブルック
ブルック家

1912年12月10日 - 2011年3月2日

先代
バートラム・ブルック
サラワク王国の後継者
1937年8月25日 - 1945年10月12日
次代
王政廃止
請求称号
先代
ヴァイナー・ブルック
— 名目上 —
サラワクのラージャ英語版
1963年5月9日 - 2011年3月2日
継承失敗の理由
1946年の王国廃止
次代
ジェームズ・ブルック