アレクサンドル・チェルヌシェヴィチ
アレクサンドル・アニケーヴィチ・チェルヌシェヴィチ Александр Аникеевич Чернушевич Аляксандр Анікеевіч Чарнушэвіч | |
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生年月日 | 1889年 |
出生地 | ロシア帝国ミンスク県スルツク郡コプィリ |
没年月日 | 1937年10月29日 |
死没地 |
ソビエト連邦 白ロシア・ソビエト社会主義共和国、ミンスク |
所属政党 | ボリシェヴィキ |
在任期間 | 1933年3月 - 1936年 |
在任期間 | ? - 1930年 |
アレクサンドル・アニケーヴィチ・チェルヌシェヴィチ(ロシア語: Александр Аникеевич Чернушевич、1899年 - 1937年10月29日)、民族名アリャクサンドル(アリャクサンダル)・アニケーヴィチ・チャルヌシェヴィチ(ベラルーシ語: Аляксандр (Аляксандар) Анікеевіч Чарнушэвіч)は、白ロシア社会主義ソビエト共和国の政治家。
生涯
[編集]1899年、ロシア帝国ミンスク県コプィリの農家に生まれたベラルーシ人[1]。ロシア内戦中は地元でパルチザンに加わり[1]、1920年からボリシェヴィキとなる[2]。1922年から1930年まで白ロシア共産党グレスク地区委員会責任書記、ボブルイスク管区 (ru)・ヴィテプスク管区 (ru) 委煽動・宣伝部部長、モギリョフ管区 (ru) 委責任書記を歴任[2]。同年11月5日から1932年まで中央委 (be) 文化・宣伝部部長、1931年1月26日から1932年1月23日まで中央委書記 (be)、1931年1月26日から1934年3月1日まで中央委局員 (be) を務めた[2]。1932年から翌1933年3月までミンスク市委書記、同月から1936年まで白ロシア社会主義ソビエト共和国教育人民委員 (be) を務め、1932年1月29日から3月28日までと1935年4月7日から1936年1月17日までは白ロシア党中央委局員候補でもあった[2]。
1931年から1936年までは白ロシア共和国中央執行委 (be) とその幹部会のメンバーも務めたが[3]、1937年6月19日にミンスクで逮捕され、10月28日「民族主義・ファシズム的破壊組織」のメンバーとしてNKVDトロイカから有罪判決を下され、翌日にミンスクのNKVD刑務所で銃殺された[1]。妻もNKVDによって懲役8年の判決を受け、カラガンダ収容所に送られた[1]。その後、夫妻は1956年に名誉回復がなされた[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e Маракоў Л. У. (2004). "ЧАРНУШЭВІЧ Аляксандр Анікеевіч". Рэпрэсаваныя лiтаратары, навукоўцы, работнiкi асветы, грамадскiя i культурныя дзеячы Беларусi. 1794-1991. Энцыклапедычны даведнік. Vol. III. Кнiга II. Мн.: Абрамовіч—Кушаль.
- ^ a b c d “Чернушевич Александр Аникеевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月5日閲覧。
- ^ “Чарнушэвіч Аляксандар”. Электронная Энцыкляпэдыя. 2018年4月5日閲覧。
党職 | ||
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先代 A・K・ネイランド |
白ロシア共産党(ボ)モギリョフ管区委員会責任書記 ? - 1930年 |
次代 ダニイル・ヴォルコヴィチ |
公職 | ||
先代 アントン・プラトゥン |
教育人民委員 1933年3月 - 1936年 |
次代 アレクサンドル・ヴァロンチェンコ |