アレクサンドル・アルメトフ
獲得メダル | ||
---|---|---|
男子アイスホッケー | ||
ソビエト連邦 | ||
オリンピック | ||
銅 | 1960 | |
金 | 1964 | |
アイスホッケー世界選手権 | ||
銅 | 1961 | |
金 | 1963 | |
金 | 1965 | |
金 | 1966 | |
金 | 1967 |
アレクサンドル・アルメトフ(ロシア語: Александр Давлетович Альметов, ラテン文字転写: Aleksandr Almetov1940年1月18日 - 1992年1月18日)は、ソビエト連邦キーウ出身のアイスホッケー選手。ポジションはセンター。
経歴
[編集]キーウで生まれたが、独ソ戦の勃発に伴い、家族でモスクワ近郊に脱出し、そこで育った。フセヴォロド・ボブロフにあこがれ、アイスホッケー選手を目指すようになった[1]。14歳のときにアナトリ・タラソフに見出された[2]。
1958年にHC CSKAモスクワに入団し、リーグ優勝7回(1959年-1961年、1963年-1966年)、1964年には得点王にもなった[1]。
ソビエト連邦代表としても、1959年から1967年までプレーし、右ウィングのコンスタンティン・ロクテフ、左ウィングのベンヤミン・アレクサンドロフと共に第1ラインを構成、ソビエト連邦のアイスホッケー史上優れたトロイカの1つとなった[2][1][3][4][5]。1960年のスコーバレーオリンピックでは銅メダル、1964年インスブルックオリンピックでは全8試合に出場し5得点をあげて金メダル獲得に貢献した。アイスホッケー世界選手権でも1963年から1967年まで5連覇(1964年はオリンピックが世界選手権にもなっている。)を果たしたメンバーの1人である。労働赤旗勲章を受賞した。
1967年に飲酒問題やチームの規律を乱したことでCSKAモスクワを追放され、27歳で現役を引退した[1]。その後、CSKAモスクワのジュニアチームのコーチに就任したが飲酒問題により失職、その後20年ほど墓掘りを続けた[1]。1990年、妻と共にアメリカ合衆国に移住したが、1年も経たずにソ連に帰国した。
1992年にモスクワで肺炎のため死去した[1]。
人物
[編集]優れたディフェンシブフォワードであり、彼はキルプレー(味方選手が退場になり氷上の選手が少ない状態)における大黒柱であった[2]。冷静さを持った選手であった[3]。
詳細情報
[編集]表彰
[編集]記録
[編集]- オリンピック金メダル1回(1964年)、銅メダル1回(1960年)
- 世界選手権優勝4回、3位1回
代表歴
[編集]- 1960年スコーバレーオリンピックアイスホッケーソビエト連邦代表
- 1961年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
- 1963年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
- 1964年インスブルックオリンピックアイスホッケーソビエト連邦代表
- 1965年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
- 1966年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
- 1967年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “アレクサンドル・アルメトフ”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ a b c Joe Pelletier. “Alexander Almetov”. internationalhockeylegends.blogspot.com. 2011年8月27日閲覧。
- ^ a b “Konstantin Loktev”. chidlovski.com. 2011年8月27日閲覧。
- ^ “Top Lines Info”. chidlovski.net. 2011年8月27日閲覧。
- ^ “THE BEST HOCKEY LINES”. chidlovski.com. 2011年8月27日閲覧。
- ^ a b c d “Team CCCP Players Info”. chidlovski.net. 2011年8月27日閲覧。
- ^ “"Russina Hall of Fame":USSR Merited Sports Masters, All USSR ZMS (1948-2000)”. chidlovski.com. 2011年8月27日閲覧。
外部リンク
[編集]- アレクサンドル・アルメトフ - Olympedia
- TEAM CCCP Players Info