アルビン・スピアマン
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基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | イリノイ州シカゴ |
生年月日 | 1926年8月27日[1] |
没年月日 | 2016年1月14日(89歳没)[2] |
身長 体重 |
182[1] cm 73[1] kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右[1]投右[1]打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1953年 |
初出場 | NPB / 1955年 |
最終出場 | NPB / 1955年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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アルビン・L・スピアマン(Alvin L. Spearman、1926年8月27日〈1931年8月26日説もある〉 - 2016年1月14日)は、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]シカゴ高等学校(同校の後輩には、既に同じ阪急ブレーブスでプレーしたラリー・レインズがいる。)卒業後、ゴールデングローブのボクサーを経験した後、1950年~1954年にかけてニグロリーグでプレーした。
1955年に、レインズと入れ替わる形で阪急ブレーブスに入団。速球派としての触れ込みで入団したが、変化球主体の技巧派投手として先発・中継ぎ・抑えとフル回転した。5月26日の東映戦(西宮球場)でプロ初先発を踏み、勝利している[3]。最終的に9勝8敗の成績を挙げ、梶本隆夫(18勝14敗)、柴田英治(17勝8敗)、阿部八郎(15勝11敗)に次ぐチーム4番目の勝ち頭となった[4]。しかし同年限りで、阪急を退団。
1956年~1959年にマイナーリーグに所属し、メジャーリーグを目指したが、遂に昇格する事は叶わなかった。1959年に引退後は、セブンアップのセールスマンとして生活した。
2016年1月14日、イリノイ州カルメットパークで死去。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1955 | 阪急 | 31 | 17 | 2 | 1 | 0 | 9 | 8 | -- | -- | .529 | 567 | 138.0 | 115 | 3 | 54 | 3 | 2 | 79 | 4 | 2 | 46 | 39 | 2.54 | 1.23 |
通算:1年 | 31 | 17 | 2 | 1 | 0 | 9 | 8 | -- | -- | .529 | 567 | 138.0 | 115 | 3 | 54 | 3 | 2 | 79 | 4 | 2 | 46 | 39 | 2.54 | 1.23 |
年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955 | 阪急 | 31 | 49 | 44 | 4 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 12 | 0 | .182 | .217 | .182 | .399 |
通算:1年 | 31 | 49 | 44 | 4 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 12 | 0 | .182 | .217 | .182 | .399 |
背番号
[編集]- 9 (1955年)[5]
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 アルビン・スピアマン - NPB.jp 日本野球機構
- Alvin Spearman(Baseball-Reference.com)