アルダ・ムリッシ
アルダ・ムリッシ(Arda-Mulissiまたはアルダ・ムリッス(Arda-Mulissu))は、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王子。帝国黄金期の王、センナケリブの息子である。前684年に弟のエサルハドンに王位継承者としての地位を奪われる。これを不服として父を殺害、クーデターを試みるが、家臣の支持を集めることができず、弟との政争に敗れた。敵国のウラルトゥへ亡命し、その後の消息は知れない。
アルダ・ムリッシはアッカド語ではArda-Mulišši[1]であるが、ウルドゥ・ムッリッシ(Urdu-Mullissi)、ウラド・ムッリッス(Urad-Mullissu)、アラド・ニンリル(Arad-Ninlil[注釈 1])とも呼ばれ、旧約聖書ではアドラメレク(Adrammelech)、ベロッソスの記録ではアドラメロス(Adramelos)あるいはアルドゥムザン(Ardumuzan)と書かれる[注釈 2]。
来歴
[編集]センナケリブの息子
[編集]アルダ・ムリッシは新アッシリア時代の王センナケリブ(在位:前705年-前681年)の息子である[3]。センナケリブには2人以上の妻がおり、アルダ・ムリッシの母親がそのうちの誰なのかについては不明である。しかし彼の母親が弟エサルハドンの母ナキアではなかったことは確かである[4]。前700年、センナケリブは長男であるアッシュル・ナディン・シュミを王太子(相続人)に任命し、バビロニア(帝国の南部諸属州)の支配を任せていた[3]。この地位にアッシュル・ナディン・シュミを任じたすぐ後、センナケリブは反乱を起こして逃亡したカルデア人を追跡してエラム(現在の南部イラン)に遠征を行った。領内への侵入に対し、エラム人は前694年にアッシリア支配下のバビロニアへ侵攻し、アッシュル・ナディン・シュミをシッパル市で捕らえた。彼はエラムへと連れ去られ、恐らく処刑された[5]。
息子たちの中から新たな王太子を任命する必要に迫られ、センナケリブは存命中の王子の中で最年長であったアルダ・ムリッシを王太子とした[6]。一方、アッシリア学者シモ・パルポラとセオドア・クワズマンは別の仮説を立て、アッシュル・ナディン・シュミはセンナケリブからバビロニアのみを継承することを意図されており、アルダ・ムリッシは恐らく既に前698年という非常に早い時期に王太子に任命されていた可能性があるとしている。ただし、アッシュル・ナディン・シュミが捕らえられ恐らく殺害された前694年以前において、アルダ・ムリッシを王太子と表現する記録は見つかっていない[7]。
クワズマンとパルポラはまた、センナケリブが恐らく別の息子、ネルガル・シュム・イブニをアッシュル・ナディン・シュミの死後にバビロニアの王太子としたとも主張している。ネルガル・シュム・イブニは恐らくアルダ・ムリッシがアッシリアの王太子となった後もバビロニアの王太子を務めていた。これを証明するような現存史料はないが、クワズマンとパルポラはネルガル・シュム・イブニをmār šarri、Mār šarriと称する前694年と前693年の一連の約定(contracts)に基づいてこの説をたてた。この称号は文字通りには「王の息子」を意味する。これは彼が王子であることに合致するが、この称号は通常王太子のみに使用される称号として使われていた[8]。
アルダ・ムリッシは少なくとも10年にわたって王位継承者の地位にあったが、前684年に彼に代わって弟のエサルハドンが王位継承者に任じられた。アルダ・ムリッシが突如地位を追われた理由は不明であるが、彼が大きな失望を胸に抱いたことは同時代の文書から明らかである[6]。解任されたにもかかわらず、アルダ・ムリッシは人望を維持しており、幾人かの臣下たちが彼を王位継承者として密かに支持していた[2]。エサルハドン自身の文書には「私は歳若かったが、我が父、余を生み出せし彼は、神々の命により正しく余を選び、他の兄弟たちに「この者が我が後継者なり」と言った」とあり、年長の息子を王位継承者の地位から降ろし弟をその地位に置くことは異常な決定であったことが確認できる[9]。
クーデターの試み
[編集]アルダ・ムリッシはエサルハドンに忠誠を誓うことを父センナケリブから強要されたが、繰り返しセンナケリブに対して自分を再び王位継承者に戻すよう訴えようとした[6]。センナケリブはアルダ・ムリッシが人気を増していること、そしてエサルハドンの身に危険が迫っているに気付き、彼を遠く西方の属州に送った。このエサルハドンの亡命によってアルダ・ムリッシの人気は頂点に達したが、エサルハドンの脱出に際して行動を起こす力が無かったため、彼は難しい決断を迫られた。この機会を逸しないために、アルダ・ムリッシは速やかに行動し王位を奪取するべきであると決断した[2]。
アルダ・ムリッシは別の弟ナブー・シャル・ウツル(シャレゼル〈Sharezer〉とも呼ばれる)と「反乱の条約(treaty of rebellion)」を結び、前681年10月20日にニネヴェ(当時のアッシリアの首都)のある神殿でセンナケリブを襲撃し殺害した。計画が成功したにもかかわらず、アルダ・ムリッシは王位を奪うことができなかった。この王殺しはアルダ・ムリッシ自身の支持者たちの間に彼への怒りを引き起こし、戴冠式の挙行が遅れることとなった。この間にエサルハドンが軍を起こした[6]。アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルが立ち上げた軍は帝国西部のハニガルバトでエサルハドンと会敵した。ここで、アルダ・ムリッシらの兵士の大半が彼を見捨ててエサルハドンの下に走り、エサルハドンは抵抗を受けることなくニネヴェに進軍した[10]。
アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルは北方、恐らくはまず山岳地帯の王国シュプリアへと逃亡し[11]、さらに古くからのアッシリアの敵国であるウラルトゥ王国に移った[11]。エサルハドンはセンナケリブの死の6週間後に王位を得ることに成功した。彼はアルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルの家族を含む彼らの与党と手の届くところにいる政敵の全てを処刑した[3][6]。アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルは亡命先のウラルトゥで数年間生き残っていた。いくつかの文書によって彼らが前673年までウラルトゥで生きており自由な地位にあったことが示されている[12]。エサルハドンはこの年に北方遠征を実施しシュプリアを攻撃したが、恐らく遠征の主目的であった[13]アルダ・ムリッシたちを捕らえることはできなかった[11]。
遺産
[編集]当時地上で最も強力な帝国の君主であったセンナケリブの殺害は同時代人に大きな衝撃を与え、メソポタミアと古代オリエントのその他の地域全体に強い感情と複雑な感覚を持って受け止められた。レヴァントとバビロニアではこの報せは喜びをもって迎えられ、これらの地域へのセンナケリブの残虐な遠征に対する神罰であると宣言された。しかしアッシリアでの反応は恐らく憤激と憎悪だったであろう。この事件は数多くの史料に記録されており、『旧約聖書』にも言及がある(欽定訳聖書、列王記下19:37; イザヤ書37:38)。聖書ではアルダ・ムリッシはアドラメレクと呼ばれている[2]。
注釈
[編集]出典
[編集]- ^ van der Spek 2014, p. 249.
- ^ a b c d e Parpola 1980.
- ^ a b c Mark 2014.
- ^ Šašková 2010, p. 154.
- ^ Bertman 2005, p. 79.
- ^ a b c d e Radner 2003, p. 166.
- ^ Šašková 2010, p. 151.
- ^ Šašková 2010, p. 152.
- ^ Šašková 2010, p. 153.
- ^ Encyclopaedia Britannica.
- ^ a b c Dezső 2006, p. 35.
- ^ Barcina Pérez 2016, p. 9–10.
- ^ Dezső 2006, p. 36.
参考文献
[編集]- Barcina Pérez, Cristina (2012). “Display Practices in the Neo-Assyrian Period”. Universiteit Leiden - Research Master in Assyriology .
(『新アッシリア期における展示の手法』(著:クリスティーナ・バルシーナ・ペレス、2012年、ライデン大学、修士論文)) - Bertman, Stephen (2005). Handbook to Life in Ancient Mesopotamia. OUP USA. ISBN 978-0195183641
(『古代メソポタミアにおける生活の入門書』(ステファン・バートマン、オックスフォード大学出版、2005年)) - Dezső, Tamás (2006). “Šubria and the Assyrian Empire”. Acta Antiqua Academiae Scientiarum Hungaricae 46: 33–38. doi:10.1556/aant.46.2006.1-2.5 .
(学術誌『古代科学史』(ハンガリー)第46号(2006年)p.33-38に収録されている『シュプリアとアッシリア帝国』(著:タマーシュ・デジェー)) - Radner, Karen (2003). “The Trials of Esarhaddon: The Conspiracy of 670 BC”. ISIMU: Revista sobre Oriente Próximo y Egipto en la antigüedad (Universidad Autónoma de Madrid) 6: 165–183 .
(ISIMU(マドリード自治大学の古代中東・エジプト専門誌)第6号(2003年)p.165-183に収録されている『エサルハドンの試練:前670年の陰謀』(著:カレン・ラドナー)) - Šašková, Kateřina (2010). “Esarhaddon’s accession to the Assyrian throne”. In Šašková, Kateřina. Shepherds of the Black-headed People: The Royal Office vis-à-vis godhead in ancient Mesopotamia. Západočeská univerzita v Plzni. ISBN 978-8070439692
(『頭の黒い人々の羊飼い:古代メソポタミアにおける神格に対する王権』(編:カテジナ・シャシュコヴァー、2010年、西ボヘミア大学出版)に収録されている『エサルハドンのアッシリア王位継承』(著:カテジナ・シャシュコヴァー)) - van der Spek, Robartus Johannes (2014). “Cyrus the Great, Exiles, and Foreign Gods. A Comparison of Assyrian and Persian Policies on Subject Nations”. In Kozuh, M.. Extraction and Control: Studies in Honor of Matthew W. Stolper.. Chicago: The Oriental Institute of the University of Chicago. ISBN 978-1614910015
(『血統と支配:マシュー・W・ストルパーに敬意を表しての研究』(編:ミカエル・コズー、2014年、シカゴ大学東洋研究所)に収録されている『キュロス大王、流刑、外国の神。アッシリアとペルシアの属国政策の比較』(著:ロバルタス・ヨハネス・ファン・デル・スペック))
参考文献(Web)
[編集]- “Esarhaddon”. Encyclopaedia Britannica. 22 November 2019閲覧。
(『エサルハドン』ブリタニカ百科事典) - Mark, Joshua J. (2014年). “Esarhaddon”. Ancient History Encyclopedia. 23 November 2019閲覧。
(『エサルハドン』(「古代史百科事典」に収録。記事はジョシュア・J・マークによる)) - Parpola, Simo (1980年). “The Murderer of Sennacherib”. Gateways to Babylon. 14 December 2019閲覧。
(『センナケリブの殺害者』(シモ・パラポラ))