アルタモン・マトヴェーエフ
アルタモン・セルゲーエヴィチ・マトヴェーエフ(ロシア語: Артамо́н Серге́евич Матве́ев、1625年 - 1682年5月25日)は、ロシア・ツァーリ国の政治家、外交官。
生涯
[編集]セルゲイ・マトヴェーエフの息子として生まれ、早くから宮廷に入った。1671年までにツァーリのアレクセイと親しい間柄になり、アファナシー・オルディン=ナシチョーキンが引退するとアレクセイの主任顧問官になった[1]。アレクセイは先妻マリヤ・ミロスラフスカヤが死去した後、ナタリヤ・ナルイシキナと出会ったのがマトヴェーエフの家であり、アレクセイは1671年1月21日にナタリヤと再婚した[1]。同年末にオコーリニチー(側用人)に昇進、1674年9月1日にはボヤールに昇進した[1]。以降アレクセイの死去までマトヴェーエフは影響力を保ち、西洋の演劇などをロシアに導入した[1]。
1676年にアレクセイが死去すると、その息子フョードル3世が病弱だったためマトヴェーエフはアレクセイのもう1人の息子ピョートル(4歳)をツァーリを据えようと着想した[1]。彼は賄賂でストレリツィの忠誠を買うと、ボヤールの会議でフョードル3世の病気で統治が不可能と述べ、ピョートルをツァーリにするよう求めた[1]。しかし反動的なボヤールはそのままフョードル3世の即位を認め、マトヴェーエフはプストジェルスクに追放された[1]。
1682年4月27日にフョードル3世が死去すると、ピョートルがピョートル1世として即位した[1]。ピョートル1世の名前で発された最初のウカス(勅令)はマトヴェーエフにモスクワに戻ってナタリヤ・ナルイシキナの顧問になる命令であり、マトヴェーエフは勅令に従い、5月15日にモスクワに到着した[1]。しかし、反ピョートル派がストレリツィの反乱を煽ったため、マトヴェーエフはストレリツィの説得に向かい、一時は成功するように見えたが結局殺害された[1]。
評価
[編集]ブリタニカ百科事典第11版はマトヴェーエフを「ピョートル1世以前で最も偉大」としている[1]。卑しい出自だったが、同時代の多くのロシア人と比べて多くの新しい事物に触れ、作者としても一定の名声があったという[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l Bain, Robert Nisbet (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 903.