アリー・ムハンマド・ムジャッワル
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アリー・ムハンマド・ムジャッワル علي محمد مجور | |
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第6代 イエメン共和国首相 | |
任期 2007年3月31日 – 2011年12月10日 | |
大統領 | アリー・アブドッラー・サーレハ アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー(代行) |
前任者 | アブドルカーデル・バージャンマール |
後任者 | ムハンマド・サーレム・バーシンドワ |
個人情報 | |
生誕 | 1953年 シャブワ県[1] |
国籍 | イエメン |
政党 | 国民全体会議(GPC) |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
アリー・ムハンマド・ムジャッワル(アラビア語: علي محمد مجور、英: Ali Mohammed Mujawar、1953年 - )は、イエメンの政治家、学者。元首相[2]。
来歴
[編集]1981年にアルジェ大学を卒業し、1991年にフランスのグルノーブル大学で生産管理学博士号を取得、アデン大学で石油資源学部長、経営学部長、経済学部経営管理学科長などを歴任した[3]。
電力相を経て、2007年3月31日から首相。
アメリカ同時多発テロ(9.11)、2009年11月5日のフォートフッド基地発砲事件、デルタ航空機爆破テロ未遂事件らの実行犯を手配したアルカーイダの上級勧誘員、アンワル・アウラキとは親戚関係にあたる[4]。
2011年に発生したアラブの春の中、イエメンでも2011年イエメン騒乱が発生し、6月3日に大統領宮殿の敷地内にあるモスクが反政府勢力により砲撃されたことによりサーレハと共にムジャッワルも負傷。サウジアラビアに搬送され、8月6日にサーレハと同時に退院[5]。8月23日にムジャッワルのみ帰国を果たした[6]。11月23日にサーレハが大統領権限をアブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領らに委譲し、同時に野党との挙国一致政権を樹立することで合意したことを受け、12月10日に首相を退任することが決まった[7]。
脚注
[編集]- ^ “New Cabinet members announced”. Yemen Times. 2009年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。10 September 2008閲覧。
- ^ “Search – Global Edition – The New York Times”. International Herald Tribune (2009年3月29日). 2010年11月12日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “شخصية : على محمد مجور”. وكالة الأخبار الإسلامية- نب. 2012年12月6日閲覧。
- ^ Newton, Paula, (February 2, 2010). “Al-Awlaki's father asks Obama to end manhunt”. CNN. February 2, 2010閲覧。
- ^ “イエメン大統領2か月ぶり退院…当面帰国せず”. YOMIURI ONLINE (2011年8月7日). 2011年8月7日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “負傷のイエメン首相帰国 治療受けたサウジから 大統領宮殿爆発”. MSN産経ニュース (2011年8月24日). 2011年8月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月17日閲覧。
- ^ “イエメンが挙国一致内閣を発表、首都でなお衝突も”. ロイター (2011年12月8日). 2011年12月8日閲覧。
公職 | ||
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先代 アブドルカーデル・バージャンマール |
イエメン共和国首相 第6代:2007 - 2011 |
次代 ムハンマド・サーレム・バーシンドワ |