アリスティード・デュプティ=トゥアール
アリスティード・オーベール・デュプティ=トゥアール Aristide Aubert Du Petit Thouars | |
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1760年8月31日 - 1798年8月2日(37歳) | |
18世紀の版画 | |
生誕 | フランス王国、シャトー・ド・ブーメー |
死没 | オスマン帝国、アブキール湾(軍艦トナン艦上) |
軍歴 | 1778年 - 1798年 |
最終階級 | 艦長(Chef de division) |
戦闘 | ナイルの海戦 |
アリスティード・オーベール・デュプティ=トゥアール(Aristide Aubert Du Petit Thouars(Dupetit-Thouarsとも表記する), 1760年8月31日 - 1798年8月2日)は、フランス海軍士官。ナイルの海戦の英雄であり、そこで死んだ。
経歴
[編集]1760年8月31日にソミュール近郊のブーメーの城で生まれた。幼年学校(Prytanée National Militaire)で学んだ後、1778年にフランス海軍に入隊した。その年にウェサン島の海戦に参加し、1780年にはセネガルのサンルイ攻略に加わった。
その後、アンティル諸島で、イギリスのロドニーと対抗したド・グッシェン伯の指揮の下、80門艦クーローヌに勤務し、1782年のセインツの海戦に参加した。
1792年に海尉(Lieutenant de Vaisseau)に昇進すると、その年は12門ブリッグ「ディリジャン」でジャン=フランソワ・ド・ラ・ペルーズの捜索に費やした。ポルトガルによってブラジルに収監されたが、1793年に解放された。その後、アメリカ合衆国で3年を過ごした。
フランスに戻ると再び海軍に呼び戻されて(それまで彼は貴族として収入の道を断たれていた)艦長に昇進し、1798年8月2日、戦列艦トナンを指揮してナイルの海戦で戦死した。海戦ではイギリス艦マジェスティックと戦い、相手にウェストコット艦長を含む50名の戦死者と143名の負傷者という損害を与えた[1][2]。デュプティ=トゥアールは両脚と片方の腕を失ったが、小麦の入った桶の中から死ぬまで命令を出し続けた。
彼の最後の命令として伝えられているのは、トナンの旗をそのミズンマストに釘づけにし、決して船を渡すな、というものだった。しかし結局トナンはイギリスに捕獲された。
係累
[編集]- ルイ=マリー・オーベール・デュプティ=トゥアール - 兄。有名な植物学者。
- アベル・オーベール・デュプティ=トゥアール - 甥。海軍艦長としてタヒチ島を占領し、フランス領とした。
- アベル・ニコラ・ベルガッセ・デュプティ=トゥアール - 子孫。日本で戊辰戦争に参加した。「堺事件」参照。
顕彰
[編集]- フランス海軍は歴代6隻の軍艦に「デュプティ=トゥアール」と命名している。
- アメリカ合衆国ペンシルベニア州のデュショア(Dushore)自治区は彼の名から命名された。同地区は初めデュトゥアールズ(DuThouars)と呼ばれていた。
脚注
[編集]- ^ The Line Upon A Wind, Noel Mostert Pg. 274
- ^ トナンはベレロフォンと舷側砲火を交わしたが、ベレロフォンはついにトナンを降伏させることはできなかった。Mostert, Pg. 269 as well as Billy Ruffian, David Cordingly Pg. 149