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アリシア・アロンソ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1955年頃のアリシア・アロンソ

アリシア・アロンソAlicia Alonso、本名:Alicia Ernestina de la Caridad del Cobre Martínez y del Hoyo, 1920年12月21日 - 2019年10月17日[1]) は、キューババレエダンサー振付家。夫のフェルナンド・アロンソもバレエダンサーだが、後に離婚している[2][3]

経歴

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キューバの首都、ハバナの裕福な軍人の家庭に生まれる。幼少時にスペインでダンスを習ったのち、9歳でバレエを始めた。1937年ニューヨークへ移り、アメリカ・バレエ学校で学んだのち、渡英してロンドンヴェラ・ヴォルコワに師事。

18歳でリンカーン・カースティンが率いるバレエ・キャラバンに参加し、その後1940年から1959年にかけてABTで活躍した。柔らかな動きと完璧なテクニックで古典もコンテンポラリーも自在に踊りこなし、ジョージ・バランシン 『テーマとバリエーション』、B・ニジンスカ 『シューマン協奏曲』 などの初演を踊ったほか、ジゼルカルメン役では最高の評価を得る。19歳の頃から網膜剥離を患い、手術を繰り返しながら失明に近い状態で踊り続けてきたことは知られている。

一時休業中の1948年、帰国してA・アロンソ・バレエ団を設立。これは現在のキューバ国立バレエ団英語版となる。キューバ内戦中の1957年、西側のダンサーとして初めてソ連に招かれて客演し、1960年には自らのバレエ団を率いて訪ソ公演を行った[4]

1950年代からは振付も手掛け、『交響曲の試み』(Ensayo sinfónico, 1950年)、『サーカス』(El circo, 1967年)、『コラドの任務』(Misión Korad, 1980年) などの作品があるほか、1972年にはパリオペラ座で自らの新演出 『ジゼル』の初演を踊っている。

2002年からユネスコ親善大使となり、有形無形文化財の保護に尽力しながら、ほぼ盲目となった晩年もキューバ国立バレエの芸術監督を務め続けた[5]。スタジオでは鮮やかな色のスカーフを頭に巻き、化粧を欠かさず、常に優雅な装いであったという[6]

2019年10月17日、ハバナの病院で循環器疾患のため死去。98歳没[1]

脚注

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  1. ^ a b アリシア・アロンソさんが死去 キューバのバレリーナ”. 日本経済新聞 (2019年10月18日). 2024年12月21日閲覧。
  2. ^ Octavio Roca, Alicia Alonso, Mikhail Baryshnikov (2010). Cuban Ballet. Gibbs Smith. p. 48. ISBN 1-4236-0758-9 
  3. ^ Ms.Laura Alonso ラウラ・アロンソに聞く”. SHOW-CASE. SESSION-2 (2011年1月22日). 2015年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月21日閲覧。
  4. ^ キューバ・米国間の関係悪化により米国内での出演は1960年で途切れてしまい、ABTに再び出演したのは1975年になった。
  5. ^ キューバ・バレエ伝説のプリマ、アリシア・アロンソさん 96歳” (2017年1月10日). 2024年12月21日閲覧。
  6. ^ 動画:キューバの伝説的バレリーナ、アリシア・アロンソさん死去 98歳”. AFP🔵BB News (2019年10月18日). 2019年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月21日閲覧。

文献

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  • Marilyn Hunt, "Alicia Alonso", International Encyclopedia of Dance, Vol.1, ISBN 0-19-517585-9, pp.48-50.

外部リンク

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