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アラン3世 (ブルターニュ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アラン3世
Alain III
ブルターニュ公
在位 1008年 - 1040年

出生 997年ごろ
死去 1040年10月1日
配偶者 ベルト・ド・ブロワ
子女 コナン2世
アヴォワーズ
家名 レンヌ家
父親 ブルターニュ公ジョフロワ1世
母親 アヴォワーズ・ド・ノルマンディー
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アラン3世(Alain III, 997年ごろ - 1040年10月1日)は、レンヌ伯およびブルターニュ公(在位:1008年 - 1040年)。

生涯

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アラン3世はブルターニュ公ジョフロワ1世アヴォワーズ・ド・ノルマンディーの息子である[1]

1008年に父の跡を継いでブルターニュ公となった[2]。公位を継承した時は未成年であったため、母アヴォワーズが摂政となり[3]、母の兄ノルマンディー公リシャール2世がブルターニュの後見をつとめたとみられる[4]

1018年、アラン3世はブロワ伯ウード2世とその2番目の妃エルマンガルド・ドーヴェルニュの娘ベルトと結婚した[1]

1026年8月にノルマンディー公リシャール3世が死去し、弟ロベール1世が公位を継承した[5]。アランはこの時生じた混乱に乗じてノルマンディーの宗主権から解放された[4]

1130年代初め、ロベール1世はドルの攻撃に成功し、アヴランシュに対するアランの報復攻撃は撃退され、両者の間で継続的な攻撃が続いた[6]。ノルマンディーの陸路およびロベール1世の艦隊からの侵攻に直面したルーアン大司教ロベール2世(母アヴォワーズとリシャール2世の叔父)は、アランが従兄弟ロベール1世に忠誠を誓ったル・モン=サン=ミシェルにおいて、2人の大甥の間の休戦を調停した[7]

ロベール1世が聖地に向かいノルマンディーを去った時、従兄弟アラン3世を自身の息子ギヨームの後見人に指名した[a][8]

アラン3世は、ル・マン司教アヴェスゴーと対立するメーヌ伯エルベール1世を支援し、ラ・フェルテ=ベルナールにあるアヴェスゴーの城をエルベール1世とともに破壊し、アヴェスゴーは逃亡した[9]

1037年にルーアン大司教ロベール2世が死去し、若年のギヨームの後見はアラン3世と従兄弟ブリオンヌ伯ジルベールに託され、両者は一時期共にノルマンディーを統治した[10] 。また、2人はギヨームに対する支持を得るため、従兄弟モージェ(リシャール2世の息子、ロベール1世の異母弟)をルーアン大司教に任じ、その弟ギヨームをアルク伯とした[10]

1040年10月1日、ノルマンディーのヴィムティエ近くにあった反乱軍の城を包囲していた時、アラン3世は突然死去した[10]。『Orderic Vitalis』によると、アラン3世はあるノルマン人に毒殺されたという[b][11]

子女

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アラン3世とベルト・ド・ブロワの間に以下の子女が生まれた。

1046年5月14日以降に、ベルトはメーヌ伯ユーグ4世と再婚した[1]

注釈

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  1. ^ ロベール1世が選んだ後見人の中には少なくとも3人の親族がいた。アラン3世は恐らく親族であることと若年のギヨームと対立しないであろうという両方の理由から選ばれたとみられる。ブリオンヌ伯ジルベールもリシャール1世の孫であり、ギヨームに対し軍事的支援ができると考えられたとみられる。同じく親族で年長のルーアン大司教ロベール2世もまた、ギヨームを強く支持した。以下を参照:Crouch, The Normans (2007). p. 60.
  2. ^ ギヨームの3人の有力な後見人の一人ブリオンヌ伯ジルベールが友人と乗馬中に殺害されてから間もなくのことであった。以下を参照:Crouch, The Normans (2007), p. 61; and Cokayne, The Complete Peerage IV, pp. 308–9.

参考文献

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  1. ^ a b c d e Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band II (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany, 1984) Tafel 75
  2. ^ Gwenno Piette, A concise History of Brittany (University of Wales Press, Cardiff, 2008), p. 38
  3. ^ The Gesta Normannorum Ducum of William of Jumieges, Orderic Vitalis, and Robert of Torigni, Vol. II, Ed. & Trans. Elisabeth M. C. Van Houts (The Clarendon Press, Oxford, New York, UK, 1995), pp. 14–5
  4. ^ a b Francois Neveux, A Brief History of the Normans, Trans. Howard Curtis (Constable & Robinson, Ltd., London, 2006), p. 108
  5. ^ David C. Douglas, William the Conqueror (University of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1964), pp. 32–3
  6. ^ David Crouch, The Normans (Hambledon Continuum, New York, 2007), p. 50
  7. ^ The Gesta Normannorum Ducum of William of Jumieges, Orderic Vitalis, and Robert of Torigni, Vol. II, Ed. & Trans. Elisabeth M. C. Van Houts (The Clarendon Press, Oxford, New York, UK, 1995), pp. 78–9
  8. ^ Ordericus Vitalis, The Ecclesiastical History of England and Normandy, Trans. Thomas Forester, Volume II (Henry G. Bohn, London, 1854), p. 161
  9. ^ Richard E. Barton, Lordship in the County of Maine, c. 890–1160 (The Boydell Press, Woodbridge, 2004). pp. 47, 87
  10. ^ a b c David Crouch, The Normans (Hambledon Continuum, New York, 2007), p. 61
  11. ^ Ordericus Vitalis, The Ecclesiastical History of England and Normandy, Trans. Thomas Forester, Volume II (Henry G. Bohn, London, 1854), p. 74
先代
ジョフロワ1世
ブルターニュ
1008年 - 1040年
次代
コナン2世