アマビコ
アマビコ(海彦、天彦、天日子、尼彦、あま彦、雨彦)、または天彦入道・尼彦入道(あまびこにゅうどう)は、肥後国熊本ほか各地に伝わる妖怪。海中などから出現をして吉凶にまつわる予言めいたことを言い残したとされる。
概要
[編集]アマビコは、江戸時代後期から明治中期にかけての資料や新聞記事などで確認されている妖怪で、絵と文がいっしょに書かれた形式で人々の間に広まった噂話・風説[1]として記録されたり、根拠不明あるいは時代遅れの迷信として報道[2][3][4]されている。その内容の多くは、異様な生物(3本足など)のような絵と、絵に示された存在が人間の言葉で「自分の名前」や「人間の大多数が死に絶えること」あるいは「豊作や疫病が発生すること」そして「自分の姿をかきしるした者は難をのがれることが出来ること」を告げて去ったということを記載している[5]。
主に海に出現したとされ[注 1][6]、アマビエを含め夜、光っていたという例もいくつかみえる[7]外見は、たいがいが体毛におおわれた(顔が無毛、坊主頭の例あり)三本足か四足動物のようで[8]、容貌は猿似か[9]等とされる[注 2]。また、猿の声を発して人を呼ぶとも言われる[11]。
アマビコ(アマビエ含む)の現存する文献資料は10点以上が知られており、肉筆画(画と書写)、摺物(木版画)、そして明治の新聞記事(当時出回った摺物を扱う)に分かれている[5]。
名称
[編集]名称は海彦、尼彦、天彦と、「アマ」の部分に異なる漢字が当てられるが、出現場所がほぼ海に関係することから、本来は「海」の字が正しいのではないか、との考察がある[12]。
名称については漢字表記も一定ではなく、「アマビコ」と称されてるものがどのような存在であるかを詳述した当時の資料も不足しているため明確にわかっていない[13]。アマビエやアリエなど内容がほとんど一致するが名称が若干異なっている例も確認されるが、名称の多くは「アマビコ」(あるいは「アマビコ入道」)で共通していること、語られている内容や形式がほとんど一致しており、(同一の情報を元としたもの)であると考えられる。アマビエは単なる誤記という湯本説があり[14]、アリエもその派生でないかとの考察がされている[15]。
単に「光物」「光り物」と称す例もある(越後国福島潟)[16]。
現存史料
[編集]原典史料は、画と文とがいっしょに肉筆で書かれているもの、木版印刷されたかたち(摺物)で残されていることがほとんどである。瓦版として販売されたものがもとになっていると考えられる[17]。その他、新聞報道(文や図が記載されたものもあり)が史料として確認される[12]。
書写年代を特定できる古例として『青窓紀聞』[18]や『長崎怪異書翰之写』(物集高見 『広文庫』引用)[1]などに書かれている天保14-15年(1843年-1844年)にかけてのあま彦の書写例があり、これらにはアマビコの共通点はほぼすべてが含まれている[13]。天保15年(1844)に書写された同様の例には、『雑書留』(福井県越前市武生公会堂記念館・寄託)に描かれたあま彦が2020年に確認された[19]。
以上の他、長野栄俊が2005年論文で発表した史料9例があり、そこでは天保15年(1844年)付で越後国(現・新潟県)に出たと語られる「海彦」の肉筆画一葉(『越前国主記』の写本、坪川本に綴じた一枚)を最古例[12]、アマビエの摺物の弘化3年(1846年)がそれに次ぐとしている[20][注 3]。
近代例では、例えば明治15年(1882年)、半紙に刷られたアマビコの摺物が本所(東京都)地域に出回ったと報道される(『郵便報知新聞』、7月10日)[注 4][2][23]。このたぐいの摺物("三本足の猿の像やまたハ老人の面(かお)に鳥の足の付いたえたいの分らぬ絵")は、"コレラ病除けの守り"とうたって販売されるも、かえって予防の妨げになるとして発売禁止をうけている(『読売新聞』8月31日)[24]。これに該当すると思われる、三本足の猿をあしらった「尼彦」の摺物の一例が、国立歴史民俗博物館に所蔵される[注 5][24]。
内容
[編集]予言獣
[編集]数年間(6年間[25])の豊年がつづくこと、しかしその後に疫病などで大多数の人が死に失せることを告げる予言獣である[26]。
そしてその難を逃れる除災手段として、その姿の絵を「写せ」と教示する[27][注 6]。
出現場所・発見者
[編集]海や海に関する場所での出現ほぼすべてだが[注 7]、例外として越後の田んぼに現れた
海の多くは肥後国(現・熊本県)の海であったとされるが[30]、それにつづく郡名(真字郡[1][2]、真寺郡[31]、
また、柴田(芝田)云々という武士が探索してアマビコ発見者となる記述が多い[33][注 9]
また、隣国の日向国(宮崎県)には
天日子尊(『東京日々新聞』、明治8年/1875年)は、越後国の湯沢近辺の田んぼから現われたと語られており、七年間の凶作を予言した[37]。
描写
[編集]原文には、夜光性質、猿似の声質などについて書かれるが(光とともに、猿のような鳴き声が聴こえた、等[1])、外見については乏しく、毛の生えようなど画の細かいところは、その形態を新聞記事や研究者が解説している[40]。
主として3本足・か四足動物のように描かれているが、足の本数以外にも、体毛の有無の点でばらつきがある[43]。
「海彦」をはじめ幾つかのアマビコ図像で猿との近似性がみられ、そういった猿似系とされるグループがある一方[11]、鳥類・魚類系とされるのがアマビエ(嘴、鱗、ヒレ)[20]や「尼彦入道(摺物)」(鳥類の九本足、羽毛か鱗、翼か手)である[44]。
具体例
[編集]海彦
[編集]- (胴体の無い、三本足の猿似のアマビコ)
「海彦」の表記の史料は一点のみで[12]、半紙を半分に裁断したほどの大きさの紙に肉筆で画が書かれている[49]。1844年(天保15年)とあり、現存最古史料である[12]。
いっぽう、その出現については「海中から出て来た」としか描写されておらず、光を海中から発したことについて捜査に出向く武士の存在や、豊作についての予言は話のなかに含まれておらず[23]、書写系統は異なるものではないかと考えられる[13]。
猿似で猿声
[編集]猿の声で人を呼ぶという描写が2例に見られる[11]。
猿似と解説される尼彦が(肥後)が湯本豪一蔵の予言獣画に見られる[注 11][51]。1871年(明治4年)以降の作の画だが[注 12][21]、「柴田彦左衛門」なる人物が、猿の声を聴いて探索すると尼彦に遭遇したという文が添えられている[52]。
類獣・比較論
[編集]各「予言獣」の比較論もみられる。
湯本豪一は『明治妖怪新聞』(1999年)にて、明治時代の新聞報道に採り上げられ「予言を告げた」とされる妖怪(アマビコ)の描かれた摺物についての話題を、登場する妖怪の名称や内容の共通性から、それまで「予言をした妖怪」として知られていたアマビエはアマビコの類型のひとつ、名称の誤記例だったのではないか[2]と指摘しており、以降アマビコについての各種資料は一定のまとまりを持って考察されるようになった[53]。
また、アリエやアマビエの類例である山童はアマビコと"直接的な接点を持つ"と湯本は指摘する[54]。
近年においては(コロナ禍以前でも)アマビエのほうがアマビコより一般知名度があり[50]、湯本豪一による言及以前にはアマビコについての資料の紹介はほとんどされておらず、アマビエのみが知られていた[13][要ページ番号]。
「海で光を発する」などの特徴は、同様の伝播形式や予言要素をもつ他の妖怪(海出人など)の文中にもほぼ同様のものを見ることも出来る点から、名称や絵姿が異なる妖怪との比較も行われている[55]。猿のようなかたちでありながら海中に住んでいる妖怪であるという不自然さは、魚や竜蛇のすがたで描写される神社姫・姫魚などの要素を引いたものである可能性があるとも指摘されている[56]。
注釈
[編集]- ^ 「田んぼ」が例外 (長野, p. 7)。
- ^ 魚類・鳥類や老人の姿に似ると捉えられる例もある(以下詳述)[10]
- ^ 多くの例では、年次が表記されていても、それは史料成立年(摺られた・書写されたとき)であるかもわからず、当のアマビコ目撃年かは不詳である、しかし「海彦」に限っては干支が出現したのが「当辰年」と原文にあるので、日付の「天保十五年辰年」が出現年と確定できる[21]。この「海彦」の場合は書写の成立年ではありえないので(『国主記』筆写者であるならば、天保にまだ生まれていない)、大元の現本の成立年次である[22]。
- ^ 加えて、その近代摺物には「あま彦」という猿のような3本足の怪獣の絵があり、「これから六年間は豊作だが、病気で人間は六分が死ぬ、しかし我等の姿をかきしるす者は病気に遭わない」と告げたと言う内容の文面が印刷されていたとしていて、安政5年(1858年)に江戸の市中で路上販売されていた摺物をそのまま用いたものだったと報じられている。(長野によれば天保14-15年の例に近い[13])。
- ^ この例は「尼彦」と表記されるが、内容は同じで「御届明治一五年七月」と印刷される[24]。詞書は "肥後之国熊本之元領分真字郡と申所にて夜な〳〵光り物出猿のかたちにて人を呼び同家中柴田五郎左衛門と申もの見届け候処我は海中絵尼彦と申者当年より六ヶ年の間豊作候得共諸国病人多し人間六分通り死すされども我姿を書して張置は病気にあたらず此事諸国へ相触れ申べしと申置何ともなく亡せられけり"と読める。
- ^ 細かく言えば"「見る」「写す」「張り置く」「祭る」「他人に見せる、知らせる」の五つに分けることができる"[28]。
- ^ 長野の2005年論文では9例中7例。
- ^ 『東京日々新聞』。越後国の湯沢近辺。天彦入道の例は詳述に欠ける。
- ^ 熊本の家中武士「しばた」の例では柴田五郎左衛門[1][34]、柴田五郎右衛門[35][36]。明治9年(1876年)に『長野新聞』で報じられた尼彦入道の図(肥後国の海に出たと記されていたとされる)についての話では、芝田忠太郎[4]。名称の異なる同様の例・アリエの場合(柴田某[3]と記されている)でも共通している。
- ^ 「磯野」の誤記かもしれないと考察(長野 2005, p. 8)。
- ^ 長野論文も湯本氏によるアマビコ・アマビエ研究・業績に負うところが大きいとしているので[50]、権威と言えよう。
- ^ 「熊本県」に言及するため。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 昔日叢書『長崎怪異書翰之冩』35からの引用:"肥後国熊本の御領分、眞字といふ所..同家中柴田五郎左衛門..見届けし.. 我れ.. アマビコといふ.. 天保十四年八月"(物集高見「予言獣アマビコ・再考」『広文庫』第1冊、広文庫刊行会、1151頁 。。
- ^ a b c d 湯本豪一『地方発 明治妖怪新聞』柏書房、1999年、196–198頁。ISBN 4-7601-1785-7。
- ^ a b 湯本豪一『地方発 明治妖怪新聞』国書刊行会、2009年、19–20頁。ISBN 978-4-336-05041-0。
- ^ a b c 『長野新聞』明治9年[1876年]6月21日号。=史料6 「尼彦(新聞)」 (長野 2005, p. 25)だが、原文に尼彦、尼彦入道(あまひこにゅうどう)の表記がありルビが振られている。長野 & 2005, pp. 5–6(考察)。湯本豪一『地方発 明治妖怪新聞』柏書房、2001年、174頁。ISBN 4-7601-2089-0。
- ^ a b c d 長野 2005, p. 5および長野 2005, p. 22 表1。また、9点をアマビコの表記で大別した列挙が7頁にある。
- ^ a b 長野, p. 7.
- ^ 長野 2005, pp. 5–6で解説されるアマビエと海彦の例。長野 2005, p. 25に掲載の「あま彦」
- ^ 長野 2005, pp. 5, 6.
- ^ 長野 2005, pp. 6, 7.
- ^ 長野 2005, pp. 5, 6, 10.
- ^ a b c d 長野 2005, p. 13.
- ^ a b c d e f g h 長野 2005, p. 7.
- ^ a b c d e 長野 2009.
- ^ a b c d 長野 2005, p. 3.
- ^ 長野 2005, p. 12.
- ^ a b 長野 2005, p. 8.
- ^ 長野 2009, p. 155: "文章と図像とで構成される予言獣資料.. 転写者(かわら版の板行者も含む)の絵の技量"
- ^ 長野 2009, pp. 136–137.
- ^ こっちが元祖? 病よけ妖怪「アマビコ」 福井で江戸期の資料発見 『デジタル毎日』 毎日新聞社 2020年6月3日。 2020年6月3日閲覧。
- ^ a b 長野 2005, p. 5.
- ^ a b 長野 2005, p. 9.
- ^ 長野 2005, pp. 2–3.
- ^ a b 長野 2005.
- ^ a b c 常光徹「連載〈歴史の証人-写真による収蔵品紹介-〉風説と怪異・妖怪-流行病と予言獣」『歴史系総合誌「歴博」』第170号、187–192頁、2012a年1月30日 。 図4「猿のかたちの光物(熊本)、明治15年 本館蔵」、および本文参照。
- ^ 6年間が多いが、天日子尊(『東京日々新聞』)では7年[5]。
- ^ 長野 2005, p. 9;
- ^ 長野 2005, p. 9; 長野 2005, p. 154
- ^ 長野 2005, p. 10.
- ^ 湯本 1999, pp. 178-180頁.
- ^ 少なくとも5例。長野 2005の9例のうち4例だが[5]、長野が触れていない上掲の『広文庫』引用例もある[1]。
- ^ 長野 2009, pp. 138, 148–149.
- ^ 長野 2009, p. 148: "資料二・三には真寺郡という郡名が記載される。しかし、実際には肥後国に真寺郡という郡は存在しておらず、話に信憑性を持たせるためにそれらしい郡名を捏造したか、あるいは転写の際に誤記したか"
- ^ 長野 2005, p. 20.
- ^ 長野 2009, pp. 136, 142.
- ^ 『郵便報知新聞」明治15年[1882年]7月10日号=史料 3「あま彦」長野 2005, p. 24
- ^ 長野 2009, p. 138.
- ^ a b 『東京日日新聞」明治8年[1875年]8月14日号=史料 5「天日子尊」長野 2005, pp. 24–25; 湯本『#明治妖怪新聞|明治妖怪新聞』、1999年、178–180頁
- ^ 『東京曙新聞」明治14年[1881年]10月20日号=史料 7「天彦(新聞)」長野 2005, p. 25。解説 p. 8
- ^ 「尼彦入道(摺物)」、長野 2005, p. 25に文を掲載。
- ^ 長野 2005, pp. 5–6, 12–13等;新聞記事の再掲 pp. 24–25。
- ^ 長野 2005, p. 21.
- ^ a b 長野 2005, pp. 5–6.
- ^ 長野(2005年)は、アマビコ/アマビエ9例のうち、図像が視認できるのが5例とするが、直後の分類の説明ではアマビエも含めおり、アマビエも込みだと6例になる[41]。三本足は3例で「海彦」、「アマビエ」と「尼彦・尼彦入道(長野新聞)」(ヒレ状の三本)。四本足が2例で「天日子尊」と「尼彦(肉筆)」。九本足が「「尼彦入道(摺物)」の1点[42]。体毛や、顔や頭頂が有毛かについても解析する[42]。
- ^ 長野 2005, p. 6.
- ^ 原文の振り仮名は「あまひこ」であるが、これは「あまびこ」ともとらえることができるとする[14]。江戸時代の読物のカナ表記は濁点が省略される場合が多い。長野栄俊は文中では一貫して「アマビコ」の読みを取っている[12]。
- ^ 長野 2005, pp. 3–8、p.21の図2.
- ^ “アマビエに続け 疫病封じる「予言獣」SNSで話題 鳥や鬼…姿や形さまざま”. 毎日新聞. (2020年6月7日)(長野栄俊に取材している)
- ^ 「越後国浦辺」だが、長野 2005「浦辺」は"特定地名"でないとしており (p. 8)、「浦辺」を普通名詞に使っている(p.7)
- ^ 長野 2005, p. 1.
- ^ a b 長野 2005, p. 4.
- ^ 長野 2005, pp. 4–8, 24.
- ^ 長野 2005, p. 24.
- ^ 川崎市市民ミュージアム 『日本の幻獣 未確認生物出現録』図録 川崎市市民ミュージアム 2004年 46頁。「予言と除災の幻獣」のひとつとしてアマビコたちがまとめられている。
- ^ 湯本豪一 著、小松和彦 編「予言する幻獣—アマビコを中心に—」『日本妖怪学大全』、小学館、112頁、2003 。ISBN 4-09-626208-0 。。
- ^ 湯本 2003「予言する幻獣—アマビコを中心に—」、103–126頁。
- ^ 常光 2012b, p. 184.
- 参考文献
- 長野栄俊「予言獣アマビコ考--「海彦」をてがかりに」『若越郷土研究』第49巻第2号、福井県郷土誌懇談会、1–30頁、ISSN 2185-453X、NAID 120005739812、NCID AN00407708。
- 長野栄俊 著、小松和彦 編「予言獣アマビコ・再考」『妖怪文化研究の最前線』、〈妖怪文化叢書〉、せりか書房、131–162頁、2009年。ISBN 978-4-7967-0291-1 。