アブ・サイード・チョードリー
アブ・サイード・チョードリー | |
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আবু সাঈদ চৌধুরী | |
第41代国際連合人権委員会委員長 | |
前任者 | Pieter Kooijmans |
後任者 | Héctor Charry-Samper |
バングラデシュ外務大臣 | |
任期 1975年8月 – 1975年11月[1] | |
大統領 | シェイク・ムジブル・ラフマン |
前任者 | カマル・ホサイン |
後任者 | ムハンマド・シャムスル・ハク |
バングラデシュの大統領 | |
任期 1972年1月12日 – 1973年12月24日[2] | |
首相 | シェイク・ムジブル・ラフマン |
前任者 | シェイク・ムジブル・ラフマン |
後任者 | ムハマド・ムハマドゥラー |
初代イギリス駐在高等弁務官 | |
任期 1971年8月1日 – 1972年1月8日 | |
大統領 | シェイク・ムジブル・ラフマン |
後任者 | S.A. Sultan |
ダッカ大学副学長 | |
任期 1969年12月2日 – 1972年1月20日 | |
前任者 | M・オスマン・ガニ |
後任者 | ムザファー・アーメド・チョードリー |
個人情報 | |
生誕 | 1921年1月31日 イギリス領インド帝国 ベンガル地方タンガイル地区カリハティ・ウパジラ |
死没 | 1987年8月2日 (66歳没) イングランド ロンドン |
政党 | アワミ連盟 |
親 | アブドゥル・ハミード・チョードリー |
教育 | プレジデンシー大学 カルカッタ大学 |
アブ・サイード・チョードリー(Abu Sayeed Chowdhury、ベンガル語: আবু সাঈদ চৌধুরী、1921年1月31日 – 1987年8月2日)は、バングラデシュの法律家、大統領[3]。また、国際連合人権委員会委員長、ダッカ大学副学長、外務大臣、バングラデシュにとって初代となるイギリス駐在の高等弁務官(イギリス連邦加盟国間で特命全権大使の代わりに交換する外交使節長)なども歴任した[4]。
生い立ちと教育
[編集]チョードリーは、1921年1月31日にタンガイル地区のナグバリ (Nagbari) で、ザミーンダール(ザミーンダーリー制度のもとで徴税請負人でもあった封建地主)の家に生まれた[4]。父アブドゥル・ハミード・チョードリー (Abdul Hamid Chowdhury) は、ザミーンダールであり、後には東パキスタン州議会の議長も務めた人物であった。父チョードリーは、イギリス領インド帝国から「カーン・バハドゥール」の称号を与えられていたが、後には、イギリスの残虐行為や帝国に反対する運動に加わる中で、この称号を捨てた。
チョードリーは、1940年にカルカッタのプレジデンシー・カレッジを卒業した。1942年には、カルカッタ大学から修士号と法律学位を取得し、第二次世界大戦後にはロンドンで法曹資格を得た[4]。
経歴
[編集]チョードリーは、1947年にカルカッタ高等裁判所に弁護士登録し、インド・パキスタン分離独立後はダッカに赴き、1948年にダッカ高等裁判所に弁護士登録した[4]。1960年、彼は東パキスタン法務官に任命された。1961年7月7日には、さらに、ダッカ高等裁判所の追加判事 (Additional Judge) に昇任した。この前後には、1960年から1961年にかけて憲法委員会 (Constitution Commission) 委員、1963年から1968年にかけてベンガル開発委員会 (Bengali Development Board) 委員長も務めた。
1969年、チョードリーはダッカ大学の副学長に任命された[4]。1971年、ジュネーブに滞在していた彼は、パキスタン軍による東パキスタンにおけるジェノサイド行為に抗議して、この職を辞した[3]。ジュネーブからイギリスに赴いた彼は、バングラデシュ暫定政府の特使となった。1971年4月24日には、亡命ベンガル人たちによって、暫定政府傘下の組織「在英バングラデシュ人民共和国評議会 (The Council for the People's Republic of Bangladesh in UK) がイギリスのコヴェントリーで結成され、評議会の運営委員会5人が選出された。チョードリーは、1971年8月1日から1972年1月8日まで、ロンドン駐在のバングラデシュ人民共和国高等弁務官 (High Commissioner for the People's Republic of Bangladesh, London) となった[5]。
バングラデシュ大統領
[編集]解放後、チョードリーはダッカに戻り、1972年1月12日にバングラデシュの大統領に選出された。1973年4月10日[4]、再び大統領に選ばれたが、大統領職は同年12月に辞職し、外交特使となった。1975年4月8日、シェイク・ムジブル・ラフマン大統領の下の内閣に港湾担当大臣として入閣した。ラフマンが暗殺された後、8月にはカンデカル・モシュタク・アハメド大統領の下で外務大臣となり、11月7日までその職にあった[4]
国際連合
[編集]1978年、チョードリーは国際連合の差別防止・少数者保護のための小委員会 (the United Nations Sub-committee on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities) の委員の一人に選ばれた[4]。1985年には、国際連合人権委員会の委員長に選出された[3]。ヴィシュヴァ・バラティ大学(通称・タゴール国際大学)は、最高記章である「Deshikottam」を彼に贈った。カルカッタ大学は名誉学位として法学博士を贈った。
チョードリーは、1987年8月2日に、ロンドンで心臓発作のため死去し、生まれ故郷の村であるタンガイル地区のナグバリに埋葬された[6]。享年66。
著書
[編集]- Probashe Muktijuddher Dinguli
- Manobadhikar
- Human Rights in the Twentieth Century
- Muslim Family Law in the English Courts[7]
外部リンク
[編集]- “Justice Abu Sayeed Chowdhury”. Bangabhaban. 30 December 2014時点のオリジナルよりアーカイブ。1 November 2017閲覧。
- “The Diaspora engagement in the war”. 2018年11月15日閲覧。
脚注
[編集]- ^ “List of Former Ministers/ Advisers”. Ministry of Foreign Affairs. 2015年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月1日閲覧。
- ^ “Leaders of Bangladesh”. 2012年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月15日閲覧。
- ^ a b c “Death anniversary of Abu Sayeed Chowdhury today” (英語). The Daily Star. (2010年8月2日) 2017年11月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Islam, Sirajul (2012). “Choudhury, Justice Abu Sayeed”. In Islam, Sirajul; Haq, Enamul. Banglapedia: National Encyclopedia of Bangladesh (Second ed.). Asiatic Society of Bangladesh
- ^ “Archived copy”. 2012年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月3日閲覧。
- ^ Ap (1987年8月3日). “Abu Sayeed Chowdhury, 66; Was President of Bangladesh”. The New York Times. ISSN 0362-4331 2016年3月21日閲覧。
- ^ “Abu Sayeed's birthday today” (英語). The Daily Star. (2011年1月31日) 2017年11月2日閲覧。