アブド・アル=ハック2世
アブド・アル=ハック2世 عبد الحق الثاني المريني | |
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マリーン朝第28代君主 | |
在位 | 1420/1年 - 1465年5月19日 |
死去 |
1465年5月19日 フェズ |
王朝 | マリーン朝 |
父親 | アブー・サイード・ウトマーン3世 |
アブド・アル=ハック2世(Abd al-Haqq ibn Uthman Abu Muhammad、? - 1465年5月19日)は、モロッコに存在していたマリーン朝のスルターン(君主、在位:1420年[1]/21年[2] - 1465年5月19日)。アブー・サイード・ウトマーン3世の子。1420年にワッタース家出身の宰相の下で即位し、1465年まで名目上のスルターンとして王位を保持した[3]。
生涯
[編集]1420年に父のアブー・サイード・ウトマーン3世が暗殺された後、1歳のアブド・アル=ハック2世が王位に就けられた[1]。アブド・アル=ハック2世が即位して間もなく、他の王族が王位を要求して後継者争いが勃発する[4][5]。
ワッタース家のアブー・ザカリヤーはマリーン朝内の政敵に対抗するためにアブド・アル=ハック2世を支持し、王室と婚姻関係を築いた[1]。アブド・アル=ハック2世統治下のモロッコは間も無く混乱に陥り[4]、ワッタース家の影響力はマリーン朝のほぼ全域に及ぶようになる[1]。
成長したアブド・アル=ハック2世は、1437年にアブー・ザカリヤーを宰相職から罷免する[6]。同年にマリーン朝はタンジールをポルトガルの攻撃から守り抜く。防衛の成功は国民の士気を上げ、守備隊を指揮していたアブー・ザカリヤーの威信を高めた[2]。1438年に首都フェズでイドリース朝の君主イドリース2世の墓がほんの偶然から「発見」され、墓廟は巡礼者にとって重要な目的地とされる[7]
1458年にアル=ハック2世はワッタース家の人間を虐殺し、代わりにユダヤ教徒を要職に就けた[2]。アル=ハック2世が起用したユダヤ教徒たちはイスラム教徒を圧迫し、ユダヤ教徒にとって有利な裁定を下したため、マリーン朝内のイスラム教徒の不満は高まった[2]。ユダヤ教徒の警察長官フサイン・アル=ヤフーディーがシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)の女性を尋問し、侮辱したことが引き金となってフェズ市民の不満が爆発した[8]。1465年5月19日にアル=ハック2世は新フェズで市民に襲撃され、殺害された[9]。
アル=ハック2世の死によってマリーン朝は滅亡し、シャリーフの政権が一時的にモロッコを統治した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 私市正年「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』収録(岩波講座 世界歴史10, 岩波書店, 1999年10月)
- 那谷敏郎『紀行 モロッコ史』(新潮選書, 新潮社, 1984年3月)
翻訳元記事参考文献
[編集]- Abun Nasr, J.M. (1987). A History of the Maghrib in the Islamic period. Cambridge University Press
- Bosworth, Clifford E. (1996). The New Islamic dynasties. Edinburgh University Press. ISBN 978-0-231-10714-3 2013年5月14日閲覧。
- Julien, Charles-André (1931). Histoire de l'Afrique du Nord, des origines à 1830. Paris: Payot
- Powers, David S. (2002-09-30). Law, Society and Culture in the Maghrib, 1300-1500. Cambridge University Press. p. 14. ISBN 978-0-521-81691-5 2013年5月14日閲覧。
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