アブドゥラ・アズワル・アナス
アブドゥラ・アズワル・アナス Abdullah Azwar Anas | |
---|---|
| |
生年月日 | 1973年8月6日(51歳) |
出生地 | インドネシア、東ジャワ州、バニュワンギ県 |
出身校 |
インドネシア大学 ジャカルタ州立大学 |
現職 | 政治家 |
所属政党 | 闘争民主党 |
配偶者 | イプック・フィスティアンダニ |
在任期間 | 2022年9月7日 - 2024年10月20日 |
大統領 | ジョコ・ウィドド |
バニュワンギ県摂政 | |
在任期間 |
2010年10月21日 - 2015年10月21日 2016年2月17日 - 2021年2月17日 |
アブドゥラ・アズワル・アナス(インドネシア語: Abdullah Azwar Anas, 1973年8月6日 - )は、インドネシアの政治家。同国第20代国家機関強化・官僚改革大臣、バニュワンギ県摂政を務めた。
経歴
[編集]1973年8月6日にインドネシア、東ジャワ州、バニュワンギ県にて、10人兄弟の2番目として誕生する。
初等教育はマドラサで受け、出身村のマドラサとマドゥラ島スメネプ県にあるマドラサで学んだ。その後、国費で運営される普通学校に移り、2つの中学校で学んだ後、高校はジェンベル県に移った。
高校卒業後はジャカルタに移り、インドネシア大学で文学を学び、1999年に学士号を取得、さらに2005年には社会・政治科学の修士号を取得した。また、ジャカルタ州立大学では教育技術を学び、1998年に学士号を取得した。在学中、ナフダトゥル・ウラマー学生協会の中央委員長を務めた。また、高校時代にはジェンベル県を拠点とするプロサリナのラジオ放送局に所属していた。
大学卒業後、1997年に24歳で国民協議会の特使に任命され、その年の最年少特使となった。スハルト政権崩壊後、1999年の議会選挙に出馬するも落選。民族覚醒党に入党し、2004年の選挙では東ジャワ州第3選挙区で同選挙区第3位となる135,667票を獲得して議席を確保した。しかし、2009年の選挙では再選されず、党によって東ジャワ州第7選挙区に配置転換された。アナスのインタビューによると、アナスは「本気ではなかった」ため、選挙期間中選挙区にいなかったという。
任期中、アナスは複数の特別委員会で活動し、インドネシア銀行への流動性支援、2008年の燃料価格高騰、2008年のハッジ期間、選挙投票事件に関する調査チームの一員であり、第8回委員会の一員でもあった[1]。2010年、アナスはバニュワンギ県摂政選挙にユスフ・ウィディアトモコを伴走者として出馬。民族覚醒党、闘争民主党、ゴルカル、福祉正義党、ウラマー民族覚醒党の支持を受け、二人は三つ巴の争いで得票率49.23%の372,149票を確保した[2]。
2015年には、前党の民族覚醒党は支持しなかったものの、闘争民主党と他の6政党の支持を得て88.96%の得票率を獲得し、地滑り的に再選された。2016年、バニュワンギ県は世界観光機関から表彰を受け、「観光における政府の再発明」部門でインドネシア初のパートとして受賞した。アナスが就任した2010年当時、バニュワンギ県には年間48万7000人の観光客が訪れており、その数は2017年までに460万人まで増加した。
アナスはまた、地元文化に焦点を当てた7,600平方メートルの観光リゾートを県所有で設立した[3]。バニュワンギ県で実施された2つのプログラムは、国家機関強化・官僚改革省によって、全国で最も革新的な99のプログラムのリストに選ばれた。アナスは、農業生産を保護する目的で、県内に55,000ヘクタールの恒久農地を設立した[4]。経済的には、バニュワンギ県は2010年から2014年の間に一人当たり国内総生産が62%増加し、地方政府予算は2010年から2015年の間に150%増加した。
県は2016年、経済成長に対して中央政府から表彰を受けた。アナスの政権下での汚職疑惑の報告は、2012年と2017年に汚職撲滅委員会に提出された。2018年の東ジャワ州知事選挙では、闘争民主党からサイフラ・ユスフの伴走者に指名された。しかし、本人と噂される卑猥な画像が出回り、結果的に出馬を辞退した。後任は妻のイプック・フィスティアンダニが務めた[5]。2022年9月7日、チャヨ・クモロの後任として、第20代国家機関強化・官僚改革大臣に就任した。
2024年10月20日、プラボウォ・スビアントが大統領に就任し新内閣発足、リニ・ウィディアンティニがアナスの後任として行政・官僚改革大臣に就任した。
脚注
[編集]- ^ “Sayonara DPR... Vokalis DPR Yang Lengser Dari Senayan” (インドネシア語). Parlementaria: 86. (September 2009). ISSN 1979-5912. オリジナルの2015-04-28時点におけるアーカイブ。 9 September 2018閲覧。.
- ^ “Pilkada Banyuwangi Hanya Satu Putaran” (インドネシア語). Tempo. (22 July 2010). オリジナルの2018年9月10日時点におけるアーカイブ。 9 September 2018閲覧。
- ^ “New resort opens in Banyuwangi” (英語). The Jakarta Post. (13 November 2017). オリジナルの2018年2月19日時点におけるアーカイブ。 10 September 2018閲覧。
- ^ Afirianto, Hermawan (17 January 2018). “Banyuwangi Siapkan 55 Ribu Hektare Lahan Sawah Abadi” (インドネシア語). kbr.id. オリジナルの2018年1月22日時点におけるアーカイブ。 10 September 2018閲覧。
- ^ Baihaqi, Amir (26 February 2021). “100 Hari Usai Dilantik, Bupati Banyuwangi Ipuk Fokus Desa Terdampak Pandemi” (インドネシア語). detiknews 17 October 2021閲覧。