アフリコ
アフリコ Africo | |
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行政 | |
国 | イタリア |
州 | カラブリア |
県/大都市 | レッジョ・カラブリア |
CAP(郵便番号) | 89030 |
市外局番 | 0964 |
ISTATコード | 080001 |
識別コード | A065 |
分離集落 | |
隣接コムーネ | #隣接コムーネ参照 |
気候分類 | zona B, 664 GG |
公式サイト | リンク |
人口 | |
人口 | 2,951 [1] 人 (2019-01-01) |
人口密度 | 57.8 人/km2 |
文化 | |
住民の呼称 | africesi |
守護聖人 | san Leo di Africo |
祝祭日 | 5月12日 |
地理 | |
座標 | 北緯38度03分02.41秒 東経16度07分59.52秒 / 北緯38.0506694度 東経16.1332000度座標: 北緯38度03分02.41秒 東経16度07分59.52秒 / 北緯38.0506694度 東経16.1332000度 |
標高 | 15 (13 - 1854) [2] m |
面積 | 51.02 [3] km2 |
レッジョ・カラブリア県におけるコムーネの領域 | |
ポータル イタリア |
アフリコ(イタリア語: Africo)は、イタリア共和国カラブリア州レッジョ・カラブリア県にある、人口約3,000人の基礎自治体(コムーネ)。
地理
[編集]位置・広がり
[編集]アフリコの市街(アフリコ・ヌオーヴォ)は、レッジョ・ディ・カラブリアの東約43kmに位置する。[4]。
アフリコの町域は、イオニア海にほど近い平野部(アフリコ・ヌオーヴォ、「新アフリコ」)と、アスプロモンテ山中の大きな飛び地(アフリコ・ヴェッキオ、「旧アフリコ」)の2つに分かれている。この村は本来アスプロモンテ山中の「旧アフリコ」に所在していたが、20世紀半ばの洪水被害により、平野部に新市街を建設して移転したものである。
隣接コムーネ
[編集]隣接するコムーネは以下の通り。
主要な集落
[編集]アスプロモンテの山麓に位置するアフリコ・ヴェッキオ(Africo Vecchio)は、1951年10月の洪水による被害を受け、廃村となった。無人となった旧集落の廃墟は、アスプロモンテ国立公園 (Aspromonte National Park) の中にある[5]。
アフリコ・ヌオーヴォ(Africo Nuovo)は、アフリコ・ヴェッキオの北東約15km、イオニア海沿岸の平野部に位置するビアンコ近郊に建設された。
歴史
[編集]アフリコ・ヴェッキオ
[編集]アフリコ (Africo) という地名の由来ははっきりしない。ある説によれば、「開けた」「日当たりがよい」といった意味を持つラテン語 apricus から来ているという(この語はさらにギリシャ語の aprokos にさかのぼる)。また別の説では、ラテン語で「アフリカから吹く風」を意味する africus ventus に由来すると信じられている[5]。
本来のアフリコの集落(アフリコ・ヴェッキオ)は、9世紀ごろにデリア(現在のボーヴァ)から移り住んだ人々によって建設された。1195年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によって、この地はレッジョ・カラブリア大司教に封土として与えられた。以後、1806年にカラブリアの封建領主制度が解体されるまで、その状態であった[5]。
1783年のカラブリア地震 (1783 Calabrian earthquakes) では町の一部が損壊し、6名の死者が出た。地震による被害は1905年、1908年(メッシーナ地震)にも出ている[5]。
20世紀前半、アフリコはカラブリア内陸部住民が置かれた悲惨な状況(飢餓・水害・放浪・離散)の象徴として語られるようになる。1931年、カラブリアの著述家コラード・アルバロは、アフリコを苦しめた飢餓を描いている。1946年、Umberto Zanotti Bianco はアフリコの人々についての著書 Tra la perduta gente を出版し、切迫した状況と飢餓を描いている[6]。これらの本が出版された当時、アフリコの街への交通も整備されてはおらず、ラバに6 - 7時間ゆられるほかに手段はなかった[7]。
1948年、ジャーナリストの Tommaso Besozzi と写真家の Tino Petrelli は、雑誌『L’Europeo』に Africo, symbol of disparity と題するドキュメンタリー記事を掲載し、アフリコの人々の悲惨な状況と飢餓を描いた[7]。一連の記録写真が伝えた状況は国民世論に強い衝撃を与え、「南部問題」の再認識に結びつくこととなった。
アフリコ・ヌオーヴォ
[編集]旧市街から15kmほど離れた、イオニア海沿岸のビアンコの近郊に、新市街(アフリコ・ヌオーヴォ)が建設された。1949年以降、アフリコの住民が移住が進められるようになった[6][5]。
1951年10月15日から18日にかけて、洪水と地滑りが発生し、アフリコ・ヴェッキオの町とその近隣の Casalinuovo の集落を破壊した。住民たちは、ボーヴァ・マリーナや、レッジョ・ディ・カラブリア、フィウマーラ・ディ・ムーロなどに避難した。
人口動態
[編集]脚注
[編集]「※」印を付したものは翻訳元に挙げられていた出典であり、訳出に際し直接参照してはおりません。
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Total Resident Population on 1st January 2019 by sex and marital status” (英語). 2019年7月29日閲覧。
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Reggio di Calabria (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2014年3月12日閲覧。
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Reggio di Calabria (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2014年3月12日閲覧。
- ^ “地図上で2地点の方角・方位、距離を調べる”. 2019年7月29日閲覧。
- ^ a b c d e Ricerche Storiche, Africo.net (Retrieved January 17, 2010) ※
- ^ a b Food and Fatness in Calabria, by Vito Teti, in Social Aspects of Obesity, edited by I. de Garine and Nancy J. Pollock, Routledge, 1995, ISBN 2-88449-186-4 ※
- ^ a b Africo, emblema della disperazione, by Tommaso Besozzi, L’Europeo Nr. 12, March 1948 ※
関連項目
[編集]- ログーディ - 同様の水害により、アスプロモンテ山中から平野部に移転した自治体。