アフマド・シャー1世 (グジャラート・スルターン朝)
ナーシルッディーン・アフマド・シャー1世(Nasir-ud-Din Ahmad Shah I, 生年不詳 - 1443年)は、西インド、グジャラート・スルターン朝の君主(在位:1411年 - 1443年)。
グジャラート州の主要都市アフマダーバードの名は、彼の名「アフマド」にちなむものである[1][2]。
生涯
[編集]1411年、祖父であるムザッファル・シャー1世が死亡し、その孫であるアフマド・シャー1世が王位を継承した[2]。
1413年、アフマド・シャー1世は王朝の首都をパータンから、サバルマティー河畔の自身の名を冠した都市アフマダーバードへ遷都した(建設は1411年以降)[3][4][2]。アフマダーバードはその治世に基礎が築かれ[2]、以後グジャラートの重要都市であり続けた。
また、アフマド・シャー1世は行政を改革し、グジャラートにイスラーム教を広めた[2]。彼は長い治世の間に貴族らを支配下に置き、統治を安定させることに成功した[4]。アフマド・シャー1世の治世、グジャラート・スルターン朝の基礎は固まり、王朝はその名をとって「アフマド・シャーヒー朝」とも呼ばれるようになった。
アフマド・シャー1世は王国の領土を拡大させるため、バフマニー朝やマールワー・スルターン朝と争い、後者と特に争った[5]。また、グジャラートやラージャスターンの境界にある国々や、サウラーシュトラにあったラージプート諸国にも支配を広げた[6]。 ラージャスターンではイーダルの強力な城をおさえ、ジャーラーワル、ドゥーンガルプル、ブーンディーの諸国を支配下に入れた[5]。
アフマド・シャー1世はグジャラートのヒンドゥー教徒らにジズヤを課した[6]。また、北部グジャラートのヒンドゥーの巡礼地シドプルを攻撃した際には、その地の寺院を破壊した[6]。そのため、中世の歴史家の多くはアフマド・シャー1世を「異教徒たちの大いなる敵」と呼んだ[6]。
アフマド・シャーはヒンドゥーの寺院を破壊し、かたくなにイスラームの信仰を守っていたが、統治においてはヒンドゥー教徒を多く登用したことで知られる[6]。バニヤー(商人ギルド)に属していたマーニク・チャンドやモーティー・チャンドが大臣となったのも、彼の治世である[6]。
1443年、アフマド・シャー1世は死亡し、ムハンマド・シャー2世が王位を継承した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。