アパラチアン (揚陸指揮艦)
基本情報 | |
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建造所 | フェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック |
運用者 | アメリカ海軍 |
艦歴 | |
起工 | 1942年11月4日 |
進水 | 1943年1月29日 |
就役 | 1943年10月2日 |
退役 | 1947年5月21日 |
最期 | スクラップ |
要目 | |
全長 | 459 ft 3 in (139.98 m) |
最大幅 | 63 ft (19 m) |
吃水 | 24 ft (7.3 m) |
推進 | ゼネラル・エレクトリック社製ギヤード・蒸気タービン ×1 |
速力 | 16.4ノット |
燃料 |
NSFO(海軍特殊燃料油)23,499バレル ディーゼル用燃料 665バレル |
航続距離 |
3000カイリ (5560km) 16ノット時 |
乗員 | 士官36名 下士官442名 |
兵装 |
連装40mm対空機関砲 ×4 38口径5インチ単装両用砲 ×2 単装20mm対空機関砲 ×18 |
アパラチアン(USS Appalachian, AGC-1)は、アメリカ海軍の揚陸指揮艦。アパラチアン級揚陸指揮艦の1番艦でありる。
艦歴
[編集]1942年11月4日にニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック社で建造され、翌年1月29日にジョン・フランク・マクルニス夫人に命名され進水。同年2月27日に海軍に引き渡され、ニューヨーク州ブルックリンのトッド・パシフィック造船所で揚陸指揮艦に転換された。10月2日にジェームズ・M・ファーナンド大佐指揮下で就役した。
太平洋戦争
[編集]チェサピーク湾での慣熟航海の後、南へ向かってパナマ運河を通過、11月26日にカリフォルニア州サン・ディエゴに到着した。第4海兵師団の一部を乗せ、年が明けた1944年1月13日にハワイに向け出航した。
真珠湾に1日だけ寄り、クェゼリン環礁攻略作戦に参戦するため西へ出撃。本艦を含む北方攻撃部隊(Northern Attack Force)の攻撃目標は、ロイ=ナムル島であった。1月31日に攻撃が開始され、翌日、礁湖内に入り第4海兵師団の司令部大隊の設備と兵員を揚陸し始めた。島の確保後、リチャード・L・コノリー(en)海軍少将は将旗を戦艦メリーランドに移し、アパラチアンは翌日エリス諸島に向けて出航。乗組員はフナフティで1週間の休暇を過ごし、休暇後は3月29日にハワイに向け出航するまでソロモン諸島に展開。4月8日に真珠湾に到着してからは補給を受ける。
その後4月下旬にガダルカナルに戻り、6週間をマリアナ諸島侵攻の準備に明け暮れた。6月上旬に最後の作戦集結地たるクェゼリンに向かう。6月10日に第3海兵水陸両用部隊の海兵隊員を乗せた船団に加わり、部隊司令官のロイ・ガイガー海兵隊大将が本艦に乗艦した。船団が目標グアムまであと50マイルまで迫ったとき、マリアナ諸島へ進撃する有力な日本艦隊との接触を避けるため、航路を反転するよう命じられた。アメリカ第5艦隊がマリアナ沖海戦で日本艦隊を蹴散らし、上陸部隊がサイパン島で戦闘している間は、船団は長方形の航路を待機状態で航行していた。そしてグアム攻撃は延期され、船団は再補給のため6月28日にエニウェトク環礁に入港。7月11日に再びグアムに向け出航し、14日に到着。その日の朝には上陸前の露払いとして艦砲射撃に加わり、上陸の最中は火力支援を行った。30日にはアプラ港に錨を下ろし、島の確保までは港内にとどまった。グアムを制圧した8月10日、真珠湾に向けて出航した。
8月21日から9月2日にかけて、ヤップ島侵攻に備えてマウイ島沖で演習を実施したが、侵攻作戦は中止された。9月15日にハワイを発ち、追加演習のためアドミラルティ諸島のマヌス島に向かう。10月3日にゼーアドラー湾に錨を下ろし、第7艦隊に配属された。14日に侵攻部隊と共にフィリピンのレイテ島に向けて出撃。本艦には第7歩兵師団司令官のA・V・アーノルド少将が乗艦した。10月20日に上陸作戦は開始されたが、米軍は殆ど抵抗らしい抵抗に遭遇しなかった。岸に兵員を揚陸してからは、アパラチアンは食糧や真水の補給のため23日までレイテ島沖に留まった。23日にニューギニアへ出発し、5日後にフンボルト湾に到着。
そして11月20日、ニューカレドニアのヌーメアへと出航。乗組員はそこで休暇を楽しんだ。12月17日にはソロモン諸島へ向かい、ガダルカナルで行われた侵攻作戦の短期リハーサルに参加したのち、クリスマスの日に再びマヌス島へ移動した。
終戦の年はルソン島侵攻と共に始まった。1月11日にリンガエン湾に着き、兵員を揚陸させる。翌日には出発し、南シナ海航行中に日本軍航空機から攻撃を受けたが、巧みに回避して15日にはレイテ湾に無事到着した。
18日にレイテ湾を発ち、ウルシー環礁、真珠湾を経由して2月13日にサンフランシスコに入港。カリフォルニア州ヴァレーホのメア・アイランド海軍造船所に入り、2月14日からオーバーホールが行われた。4月10日再びハワイへ向かい、16日真珠湾に到着。マウイ沖で演習を実施。
5月16日にマリアナ諸島へ向け出発、11日後にサイパンに到着。7月9日まで留まったあと、フィリピンへ出発。13日にマニラに入港し、終戦までフィリピン周辺の多島海で作戦に従事した。
アパラチアンは大戦中の戦功により4つの従軍星章を受章した。
戦後
[編集]1945年9月18日、アパラチアンは日本に向け出航、25日に青森市に到着し占領任務に当たる兵員をおろした。本艦が運んだ兵員は、他にも大湊、函館、小樽、横浜、横須賀、松山、広島といった都市の占領にも参加した。
アパラチアンは11月12日に日本を離れてアメリカ西海岸へ向かい、4月12日までサンフランシスコに停泊していた。4月12日にクロスロード作戦のために創設された第1統合任務部隊に割り当てられ、作戦に参加。5月から7月までは報道陣の本部として機能し、8月16日にサンフランシスコに戻った。
9月16日に第5艦隊旗艦となり、10月28日から翌年1月30日まで太平洋艦隊の旗艦を務める。同年5月21日に予備役に編入、処分のために連邦海事局に移管され、1960年にスクラップにされた。1959年3月1日に海軍のリストから名前が削除された。
受勲
[編集]脚注
[編集]- Jackson, Robert "Fighting Ships of The World." London: Amber Books Ltd, 2004 Pg.31 ISBN 9781840136470
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。