アドルフ・フリードリヒ1世 (メクレンブルク公)
アドルフ・フリードリヒ1世 Adolf Friedrich I. | |
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メクレンブルク=シュヴェリーン公 | |
在位 |
1592年 - 1628年 1631年 - 1658年 |
出生 |
1588年12月15日 神聖ローマ帝国 メクレンブルク=シュヴェリーン公領、シュヴェリーン |
死去 |
1658年2月27日(69歳没) 神聖ローマ帝国 メクレンブルク=シュヴェリーン公領、シュヴェリーン |
配偶者 | アンナ・マリア・フォン・オストフリースラント |
マリア・カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク | |
子女 | 本文参照 |
家名 | メクレンブルク家 |
父親 | メクレンブルク=シュヴェリーン公ヨハン7世 |
母親 | ゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ |
アドルフ・フリードリヒ1世(Adolf Friedrich I., 1588年12月15日 - 1658年2月27日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン公(在位:1592年 - 1628年、1631年 - 1658年)。1634年から1648年にかけて、シュヴェリーン大司教区も管理者として統治した。
生涯
[編集]アドルフ・フリードリヒはメクレンブルク=シュヴェリーン公ヨハン7世とゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプの息子である。
1592年3月22日に父ヨハン7世が死去したため、叔父ウルリヒ3世およびカール1世の後見のもとシュヴェリーン公領を継承した。アドルフ・フリードリヒは宮廷長であり腹心でもあったザムエル・フォン・ベーアに伴われ、1606年から1607年にかけてスイスとフランスを巡るグランド・ツアーに出かけ、これに関してはアドルフ・フリードリヒ自身の手による旅行日記に記されている[1]。アドルフ・フリードリヒは1608年4月16日に皇帝より成人を宣言され、弟のヨハン・アルブレヒト2世と共同でシュヴェリーン公領を統治し、1610年7月22日にカール1世が死去してからはギュストロー地方も統治した。1621年に公領を分割した際に、アドルフ・フリードリヒはシュヴェリーンを手に入れた。
アドルフ・フリードリヒとヨハン・アルブレヒト2世は1623年にニーダーザクセンの防衛同盟に参加し、戦争では中立を保とうと努めたが、密かにデンマーク王クリスチャン4世を支援したため、ルッターの戦いにおける勝利後はティリー指揮下の帝国軍から敵とみなされた。
1628年1月19日、皇帝フェルディナント2世はボヘミアのブランダイス城で文書を発行し、アドルフ・フリードリヒを公位から退位させ、最初は担保としてヴァレンシュタインをメクレンブルク公とし、1629年6月16日には世襲の地位とした。1628年5月、ヴァレンシュタインに促されてアドルフ・フリードリヒらは領地を離れ、1631年5月にヴァレンシュタインが打倒された後にスウェーデン軍の援助を得て帰国した。このために、アドルフ・フリードリヒらは暫定的にヴィスマールとペール島、およびノイクロスターとヴァーネミュンデをスウェーデンに割譲しなければならなかったが、ヴァーネミュンデを除く領地の一部は1648年のヴェストファーレン条約により最終的に割譲されたのに対し、アドルフ・フリードリヒはシュヴェリーンおよびラッツェブルクの司教区と聖ヨハネ騎士団のミロー領を手に入れた。
メクレンブルクはアドルフ・フリードリヒの治世の間、三十年戦争に大いに苦しめられた。スウェーデン軍と帝国軍の両方が領地を荒廃させ、人口は約30万人から約5万人に減少した[2]。
アドルフ・フリードリヒは、「der Herrliche」という名で実りを結ぶ会の会員をつとめた。
1631年以降、吐酒石の発見者アドリアン・フォン・マインジヒトは主治医としてアドルフ・フリードリヒに仕えた[3]。
結婚と子女
[編集]アドルフ・フリードリヒ1世には2度の結婚で19人の子供がおり、そのうち12人が成人した。
1622年、オストフリースラント伯エンノ3世(1563年 - 1625年)の娘アンナ・マリア(1601年 - 1634年)と結婚し、以下の子女をもうけた。
- クリスティアン・ルートヴィヒ1世(1623年 - 1692年) - メクレンブルク=シュヴェリーン公
- ゾフィー・アグネス(1625年 - 1694年) - 1654年にリューン女子修道院長
- カール(1626年 - 1670年) - メクレンブルク=ミロー公
- アンナ・マリア(1627年 - 1669年) - 1647年にザクセン=ヴァイセンフェルス公アウグストと結婚
- ヨハン・ゲオルク(1629年 - 1675年) - メクレンブルク=ミロー公
- グスタフ・ルドルフ(1632年 - 1670年) - メクレンブルク=シュヴェリーン公
1635年にブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク公ユリウス・エルンスト(1571年 - 1636年)の娘マリア・カタリーナ(1616年 - 1665年)と結婚し、さらに子供をもうけた。
- ユリアネ・ジビッレ(1636年 - 1701年) - 1695年3月9日にリューン女子修道院長
- フリードリヒ1世(1638年 - 1688年) - メクレンブルク=グラーボウ公
- クリスティーネ(1639年 - 1693年) - 1681年にガンダースハイム女子修道院長
- マリー・エリーザベト(1646年 - 1713年) - 1705年にリューン女子修道院長、1712年にガンダースハイム女子修道院長
- アンナ・ゾフィー(1647年 - 1726年) - 1677年にヴュルテンベルク=ユリウスブルク公ユリウス・ジークムント(1653年 - 1684年)と結婚
- アドルフ・フリードリヒ2世(1658年 - 1708年) - メクレンブルク=シュトレーリッツ公
脚注
[編集]- ^ Andrea Voß: Ein Reisebericht als Schreibübung: Das Reiseverzeichnis des Adolf Friedrich I. von Mecklenburg (1606–1607), in: dies.: Reisen erzählen. Erzählrhetorik, Intertextualität und Gebrauchsfunktionen des adligen Bildungsreiseberichts in der Frühen Neuzeit, Heidelberg: Winter 2016 (= Neue Bremer Beiträge, 20), ISBN 978-3-8253-6591-2, pp. 198–213.
- ^ Ludwig Fromm (1875). "Adolf Friedrich I., Herzog von Mecklenburg-Schwerin". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 1. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 119–120.
- ^ August Hirsch (1886). "Mynsicht, Adrian von". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 23. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 145–146.
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