アウグスト・デ・ブラガンサ
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アウグスト・デ・サクセ=コブルゴ=ゴタ・イ・ブラガンサ Augusto de Saxe-Coburgo-Gotha e Bragança | |
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コインブラ公 | |
在位 | 1875年 - 1889年 |
出生 |
1847年11月4日 ポルトガル王国、リスボン |
死去 |
1889年9月26日(41歳没) ポルトガル王国、リスボン |
埋葬 | ポルトガル王国、ブラガンサ王室霊廟 |
家名 | ブラガンサ=コブルゴ家 |
父親 | フェルナンド2世 |
母親 | ポルトガル女王マリア2世 |
アウグスト・デ・サクセ=コブルゴ=ゴタ・イ・ブラガンサ(Augusto de Saxe-Coburgo-Gotha e Bragança, Duque de Coimbra, 1847年11月4日 - 1889年9月26日)は、ポルトガルの王族。ブラガンサ家(ブラガンサ=コブルゴ家)の成員[1]。女王マリア2世とその王配フェルナンド2世の間の第五王子。
生涯
[編集]正式な洗礼名はアウグスト・マリア・フェルナンド・カルルシュ・ミゲル・ガブリエル・ハファエル・アグリコラ・フランシスコ・デ・アシス・ゴンザーガ・ペドロ・デ・アルカンタラ・ロヨラ(Augusto Maria Fernando Carlos Miguel Gabriel Rafael Agrícola Francisco de Assis Gonzaga Pedro de Alcántara Loyola)。
王家の末子だったが、1861年冬に長兄ペドロ5世、三兄ベージャ公ジョアン、四兄フェルナンドがコレラに罹って相次いで早世すると、新王に即位した次兄ルイシュ1世の唯一の弟として王位の推定相続人に指名され[2]、1863年ルイシュ1世に長男カルロス王太子が誕生するまでその地位にあった。
1875年コインブラ公に叙爵された他、父方の血統からザクセン=コーブルク=ゴータ公子及びザクセン公爵の称号も有した[3]。ポルトガル陸軍に所属し、師団長を務めた。1889年独身のまま41歳で死去、遺体はブラガンサ王室霊廟に安置された。
引用・脚注
[編集]- ^ 1944年版『ゴータ年鑑』ではザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ公家の男系男子として記載されている。しかし、1838年ポルトガル憲法(1838 Portuguese constitution)第1章第1条第5項では「最も静穏なるブラガンサ家こそがポルトガルの統治者家門であり、同家は女王マリア2世陛下の人格[法人格・自然人格]を通じて継続される」と定められていた。そのため、マリア2世とフェルナンド2世の子孫は、公式にはブラガンサ家に属する形となった。
- ^ The Gentleman's Magazine. 1862. p. 223
- ^ Almanach de Gotha. (1888). p. 61