もんてびでお丸
もんてびでお丸 | |
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基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | さんとす丸級貨客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 大阪商船 |
運用者 |
大阪商船 大日本帝国海軍 |
建造所 | 三菱造船長崎造船所 |
母港 | 大阪港/大阪府 |
姉妹船 |
さんとす丸(満珠丸) らぷらた丸(干珠丸) |
信号符字 | TDCB→JIAB |
IMO番号 | 31553(※船舶番号) |
建造期間 | 340日 |
就航期間 | 5,801日 |
経歴 | |
起工 | 1925年9月9日 |
進水 | 1926年4月15日 |
竣工 | 1926年8月14日 |
除籍 | 1942年7月20日 |
最後 | 1942年7月1日被雷沈没 |
要目 | |
総トン数 | 7,267トン |
純トン数 |
4,386トン(1925年) 4,377トン(1933年) 4,371トン(1941年) |
載貨重量 | 7,299トン |
垂線間長 | 131.06m |
型幅 | 17.07m |
型深さ | 10.97m |
高さ |
24.68m(水面からマスト最上端まで) 16.15m(水面から煙突最上端まで) |
主機関 | 三菱製ズルツァー 6ST60 ディーゼル機関 2基 |
推進器 | 2軸 |
出力 | 4,600BHP |
最大速力 | 16.191ノット |
航海速力 | 12.0ノット |
航続距離 | 不明 |
旅客定員 |
一等:40名 三等:790名 |
1941年9月25日徴用。 高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記)。 |
もんてびでお丸 | |
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基本情報 | |
艦種 | 特設運送船 |
艦歴 | |
就役 |
1941年12月31日(海軍籍に編入時) 呉鎮守府所管 |
要目 | |
兵装 | 不明 |
装甲 | なし |
徴用に際し変更された要目のみ表記。 |
もんてびでお丸(もんてびでおまる)は、かつて大阪商船が所有し運航していた貨客船である。第二次世界大戦中、特設運送船として活動中に潜水艦からの攻撃を受けて沈没した。
なお、太平洋戦争後に大阪商船のもんてびでお丸級貨物船のネームシップとして同名の二代目船が建造された。1956年(昭和31年)に竣工後、南米航路・欧州航路で活躍。1976年(昭和51年)にパナマ企業に売却後、1981年(昭和56年)に解体された[2]。
概要
[編集]初代「もんてびでお丸」は、さんとす丸級貨客船の3番船として三菱長崎造船所で1925年(大正14年)9月9日に起工し、1926年(大正15年)4月15日に進水、同年8月14日に竣工した。船名はウルグアイの首都、モンテビデオから命名された。
竣工したもんてびでお丸は早速南米線に投入された[3]。1940年(昭和15年)2月、南米航路は西航線と東航線に分割され、もんてびでお丸は東航南米線に転配された[3]。翌1941年(昭和16年)7月、国際情勢悪化に伴い東航南米線は休航となり、もんてびでお丸は同年8月に大阪大連線に転配されたが[3]、同年9月25日に日本海軍に徴用され[4]、呉鎮守府所管の海軍一般徴用船となって太平洋戦争の開戦を迎えた。
同年12月31日、呉鎮守府所管の特設運送船として入籍[4]。以降はマカッサル攻略作戦に参加した後、南方方面での物資・人員輸送に従事した。
1942年(昭和17年)7月1日、現パプアニューギニアのラバウルから中国・海南島の三亜に向けて航行中、午前2時29分頃にアメリカ海軍の潜水艦スタージョンの発射した魚雷が右舷4番船倉、5番船倉に命中。船尾から沈み始めたもんてびでお丸では総員退去が発令され、2時40分に沈没した[5]。船員9名、便乗者・警戒隊計11名が戦死した他、当時もんてびでお丸は連合国の捕虜1,053人(うち979人は豪州人)を輸送しており、捕虜全員が死亡した[5][6][注 1]。捕虜を輸送しているもんてびでお丸の情報が、連合国軍の末端にまで連絡されていなかったことが攻撃された理由とされている。
沈没前に脱出した船員たちはルソン島に上陸したが、抗日ゲリラの攻撃で多数の犠牲者を出し、船員18名が7月25日にようやく日本陸軍の前哨地点に到着した。沈没地点はルソン島ボヘアドール岬西北西60浬地点付近、北緯18度40分 東経119度31分 / 北緯18.667度 東経119.517度[5]。
沈没箇所の特定
[編集]2023年、海洋考古学グループ「サイレントワールド財団(Silentworld Foundation)」は、もんてびでお丸の残骸がルソン島の沖合、水深4,000メートル以上の海底で発見されたことを明らかにした[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 野間(2004年)によれば、捕虜らは海に放り出された後、浮遊物につかまって「オールド・ラング・サイン」を歌いながら救助を待ち、生き残った捕虜は駆逐艦に救助されて日本に送られたとする[7]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。
- 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。
外部リンク
[編集]- “もんてびでお丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年10月31日閲覧。
- “南米航路-大阪商船-昭和初期”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年10月31日閲覧。
- “もんてびでお丸”. 大日本帝国海軍特設艦船データベース. 2023年10月31日閲覧。
- “もんてびでお丸”. 戦没した船と海員の資料館. 2023年10月31日閲覧。