聚楽
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台三丁目4番 龍名館本店ビル9階 |
本店所在地 |
〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町二丁目9番2号 |
設立 | 1934年(昭和9年)10月10日[1] |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 9010001029120 |
事業内容 | 都市ホテル・リゾートホテル・各種レストランの運営 |
代表者 | 加藤治(取締役社長) |
資本金 | 1億円 |
従業員数 |
正社員570人 パートタイマー450人 |
主要子会社 | 弥彦観光索道株式会社 |
関係する人物 | 加藤清二郎(創業者) |
外部リンク | http://www.juraku.com/ |
株式会社聚楽(じゅらく)は、東京都千代田区に本社を置く、レストラン・ホテルの運営を行う会社。加藤清二郎が1924年に創業。東京都内、とくに上野・神田周辺を中心に、レストランや外食店舗を展開するほか、伊東温泉や飯坂温泉など東日本を中心とした観光地でホテルを運営している。
概要
[編集]加藤清二郎が1924年(大正13年)3月10日に東京・神田須田町の一角で「須田町食堂」を開店したのが始まりである[2]。 この店舗の開業当初は3銭・5銭・8銭の3プライス制を採用して「安くて早くてうまい」のキャッチフレーズを掲げた大衆食堂で[3]、「簡易洋食」を標榜して気軽に洋食が楽しめる店として人気を集めた[4]。 同年11月20日に東京・京橋に初の支店を出店したのを皮切りにチェーン展開を始め、1925年(大正14年)には日本橋・銀座・上野・浅草・神田駿河台にも出店し、1926年(大正15年)に神田淡路町に「神田須田町食堂総本部」を開設すると共に6店舗の出店を行った[5]。
1931年(昭和6年)に東京帝国大学第一食堂を開店し、同年には伊豆の伊東・辰太に温泉旅館を開業した[6]。
1934年(昭和9年)10月10日に東京市神田区淡路町2-9-2に資本金100万円で株式会社聚楽を設立し[1]、同月に新宿駅前に地下2階・地上5階建て・延べ約800席の食堂デパート聚楽として日本初の食堂デパートを開業した[6]。 同年には熱海の名門だった「樋口旅館」を買収し[7]、後の富士屋ホテルの場所に熱海聚楽として[8]温泉旅館を開業した[6]。
1936年(昭和11年)3月10日に上野駅前に延べ約1,000席の食堂デパート京成聚楽を開業し[6]、浅草公園にあった観光劇場を買収して[9]1937年(昭和12年)秋には桃山風の絢爛豪華で大広間を持つ'延べ約1,000席の食堂デパート浅草聚楽を開業した[10]。
この様な出店攻勢により、1938年(昭和13年)には須田町食堂28店・食堂デパート3店・家庭寮2店・専用食堂15店のレストラン48店舗と温泉旅館2軒の合計50店舗を構え[11]、当時の日本では最大の食堂事業者となった[12]。 同年5月1日に東京市神田区淡路町2-9-2に資本金45万円で大日本食堂株式会社を設立した[13]。
1939年(昭和14年)に「花やしき」を買収し[14][15]、 同年2月21日に「合資会社花やしき」から「合資会社浅草楽天地」に商号を変更して[16]、「食堂遊園地浅草楽天地」として営業するようになった[17]。 しかし、入場料に加えて飲食料を支払う営業形態が受け入れられず短期間で再び閉鎖となり、1941年(昭和16年)6月に松竹が出資する「合資会社花屋敷」の運営による劇場遊園地として再開した[17]。
その後も出店を続けて1942年(昭和17年)には一般食堂35店舗と専用食堂54店舗の合計89店舗となり[12]、第2次世界大戦中は軍需工場の食堂運営を主力として活動するようになり[18]、1944年(昭和19年)1月11日に臨時資金調整法による認可を得て株式会社聚楽が大日本食堂株式会社を吸収合併し[19]、大日本食堂株式会社に社名を変更した[20]。 同年3月に熱海聚楽が類焼により全焼した[21]。
しかし、空襲により大きな被害を受け、終戦時には、専用食堂は全店舗が被災して消滅し、一般食堂も5店舗を残すのみとなった[20]。
だが、終戦直後から食堂・旅館の再建に取り組むと共に、食品製造や酒造、建築や木材加工などに進出するなど、急速な事業の復興・拡大を進めた[22]。
ところが、ドッジラインの影響で新たに進出した事業が全て業績悪化に陥り、ドッジライン後も利益を上げていた食堂・観光部門も食糧管理法の影響で業績が悪化してしまった[23]。 その結果、当時のグループ10社すべてが赤字となり、高利貸しからも借り入れるほどの経営難に陥り[24]、大日本食堂株式会社が手形を不渡りとすることで元利などの支払いを停止した上で銀行などを訪問して支払猶予の了承を求めた[25]。 そして、再建策として保有する不動産の売却を行う不動産部を設置し[9]、浅草の不動産や[9]熱海聚楽の焼け跡の富士屋ホテルへの売却を進めるなどし[8]、1948年(昭和23年)と1949年(昭和24年)の2年間で約1億6000万円の資金を調達して高利貸しからの借金を管財して再建のめどをつけた[26]。
1958年(昭和33年)の台風22号で伊東聚楽が被災して1階の客室と大風呂などが流出する大きな被害を受けた[27]。
1959年(昭和34年)10月に上野公園の西郷隆盛像の下に延べ約600席の「じゅらくティーサロン」を開店し、同店は当時の日本最大の純喫茶と呼ばれた[28]。
有限会社福島興産から[29]飯坂温泉の名門旅館「角屋」を買収して[30]1962年(昭和37年)4月8日に「飯坂ホテル聚楽」を開業した[31]。 同月に[32]資本金400万円で[29]有限会社ホテル聚楽を設立した[32]。
同年5月20日に[33]水上温泉に「水上ホテル聚楽」を開業[34]、同年6月に上越線での食堂車営業開始と同時に同線でビュッフェ営業と車内販売の営業を開始した[28]。
1964年(昭和39年)10月に大日本食堂株式会社から再び株式会社聚楽社名を変更した[35]。
1965年(昭和40年)8月に有限会社ホテル聚楽を株式会社ホテル聚楽に改組した[29]。
1967年(昭和42年)8月に「飯坂ホテル聚楽」を大幅に増改築して新装開業した[30]。
1968年(昭和43年)9月に株式会社ホテル聚楽が株式会社伊東ホテル聚楽を合併した[32]。
1974年(昭和49年)10月1日に新宿聚楽を改装してじゅらくエイトとして新装開店した[4]。
1981年(昭和56年)12月2日に[36]旧本社の[18]東京都千代田区神田淡路町2-9に「お茶の水ホテル聚楽」を開業した[36]。
沿革
[編集]- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年) - 日本橋・銀座・上野・浅草・神田駿河台にも出店[5]。
- 1926年(大正15年) - 神田淡路町に「神田須田町食堂総本部」を開設[5]。
- 1931年(昭和6年) - 東京帝国大学第一食堂を開店し、伊豆の伊東・辰太に温泉旅館を開業[6]。
- 1934年(昭和9年)
- 1936年(昭和11年)3月10日 - 上野駅前に食堂デパート京成聚楽を開業[6]。
- 1937年(昭和12年)秋 - 食堂デパート浅草聚楽を開業[10]。
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1941年(昭和16年)6月 - 浅草の「花やしき」が松竹が出資する「合資会社花屋敷」の運営による劇場遊園地として再開[17]。
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年) - 空襲により専用食堂全店舗が被災して消滅し、一般食堂も5店舗のみとなる[20]。
- 1956年(昭和31年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)10月 - 上野公園の西郷隆盛像の下に「じゅらくティーサロン」を開店[28]。
- 1962年(昭和37年)
- 1964年(昭和39年)10月 - (2代目)大日本食堂株式会社が(2代目)株式会社聚楽に社名を変更[35]。
- 1965年(昭和40年)8月 - 有限会社ホテル聚楽を(2代目)株式会社ホテル聚楽に改組[29]。
- 1967年(昭和42年)8月 - 「飯坂ホテル聚楽」を大幅に増改築して新装開業[30]。
- 1968年(昭和43年)9月 - 株式会社ホテル聚楽が株式会社伊東ホテル聚楽を合併[32]。
- 1969年(昭和44年)8月 - 銀水荘を買収し、「水上ホテル聚楽別館」を開業[38]。
- 1974年(昭和49年)10月1日 - 新宿聚楽を改装してじゅらくエイトとして新装開店[4]。
- 1977年(昭和52年)- 弥彦観光索道が万座温泉の白根ホテル・白根荘を買収[43]。
- 1981年(昭和56年)12月2日 - 東京都千代田区神田淡路町2-9に「お茶の水ホテル聚楽」を開業[36]。
- 1986年(昭和61年)10月 - 仙台駅前の荘内銀行ビルに和風居酒屋「御酒印船 仙台店」を開店[44]。
- 1994年(平成6年)7月 - 世田谷区三軒茶屋にスペイン小皿料理店「エル·チャテオ」1号店を開店[45]。
- 2003年(平成15年)
- (2代目)株式会社聚楽と(2代目)株式会社ホテル聚楽が合併、新会社「(3代目)株式会社聚楽」設立[広報 1]。
- 2010年(平成22年) - 「株式会社ワールドダイニング」を買収[広報 1]。
- 2015年(平成27年)
- 「ジュラクステイ新潟」オープン[広報 1]。
- 2021年(令和3年)4月3日[46] - サンテレビジョンとの共同ビル神戸駅前JUSTスクエアに[47]「神戸ホテルジュラク」を開業[46]。
事業展開
[編集]飲食(直営)
[編集]- 須田町食堂 - 創業時からの大衆食堂[3]
- レストラン じゅらく - ファミリーレストラン[4]。
- びいどろ - パブ・スナック[48]。
- el Chateo エルチャテオ - スペイン小皿料理店[45]
- 酒亭じゅらく[48]
- 御酒印船 - 和風居酒屋[44]
かつて存在した店舗
[編集]第二次世界大戦前に存在した店舗
[編集]須田町食堂
[編集]- 京橋交差点から鍛冶橋方向へ向かって左手に出店していた[51]。
- 銀座家庭寮[75]
- 雷門店[75]
聚楽
[編集]- 開業時には、地下1階は京成上野駅出入り口で、1階が公共通路と案内所、2階が一般食堂、3階は回遊式即席料理店、4階が和食店、5階がフランス料理店となっていた[78]。
- 聚楽銀座営業所(京橋区銀座5[79])
専用食堂
[編集]- 東京府庁舎の地階に出店していた[81]。
- 東洋精機構内食堂[75]
- 岩城硝子構内食堂[75]
- 東京電気無線内食堂[75]
- 鶴見造船製鉄構内食堂[75]
- 川崎マツダ食堂[84]
- 小向工場食堂[84]
- 田無工場食堂[84]
- 東京堂食堂[84]
- マツダ合金食堂[84]
- 東京合金食堂[84]
- 保谷専用食堂[84]
旅館
[編集]
第二次世界大戦後に開業した店舗
[編集]飲食
[編集]- 聚楽台(東京都台東区上野公園1-57[57]) - 1959年(昭和34年)開店した約400席の平安朝風の大食堂[28]。
- メトロ聚楽(東京都台東区上野公園2[87]) - 上野駅の地下連絡通路内に[88]1957年(昭和32年)に開店したが[28]、1972年(昭和47年)9月に駅改良工事に伴う立ち退きにより閉店した[89]。
- 大日本食堂江東楽天地営業所(本所区江東橋4[80])
- 酒場聚楽(東京都台東区下谷町2-5[87]) - 上野駅内ef name="japan-staff-record-1964-1093"/>。
- 池袋聚楽(東京都豊島区池袋1-15-2東武ホープセンター[57])
- スナックヴィラ(東京都新宿区新宿3-38-1新宿ステーションビルディング[90]地下1階[91])
- 聚楽飯店 - 中華料理店[48]
- 新潟駅聚楽(新潟市花園町1-1新潟駅名店デパート内[57]) - 1958年(昭和33年)開店[92]。
- 列車食堂新潟営業所(新潟市花園町1-3-2[57])
- 福島駅聚楽 - 福島ステーションデパート2階[93]に1962年(昭和37年)に開店した[28]。
- コーヒー・スナックじゅらく - 福島駅前・トヨタビル地階[93]。
旅館・その他
[編集]- 常盤楼 - 長岡市にあった割烹旅館[94]。
- 旅館聚楽 - 伊東温泉にあった旅館で[94]、1958年(昭和33年)の台風22号で被災して1階の客室と大風呂などが流出する大きな被害を受けた[27]。
- 渋谷聚楽(東京都渋谷区円山町3[95]) - 渋谷駅から徒歩5分の和室15室の旅館だった[95]。
- 聚楽エコーボウル(福島市飯坂町滝町27[96])
かつて存在した関連会社
[編集]- 合資会社浅草楽天地(1919年(大正8年)11月設立[97]、浅草区浅草公園第5区1[97])
- 東京木工株式会社[98]
- 加藤水産株式会社[98]
- 加藤貿易株式会社[98]
- 千代田食品工業株式会社[98]
- 東京酒造株式会社[98]
- 1962年(昭和37年)4月に資本金400万円で[29]有限会社ホテル聚楽を設立[32]。1965年(昭和40年)8月に株式会社ホテル聚楽に改組して[29]、1967年(昭和42年)8月に「飯坂ホテル聚楽」を大幅に増改築して新装開業し[30]、1968年(昭和43年)9月に株式会社伊東ホテル聚楽を合併[32]。
- 飯坂ホテル聚楽(福島県福島市飯坂町西滝ノ町27)と伊東ホテル聚楽(静岡県伊東市岡281)を運営していたが[32]、白根ホテル・白根荘(群馬県吾妻郡嬬恋村大字干俣)も運営するようになった[99]。
- 1956年(昭和31年)6月に株式会社湯原荘を買収して水上温泉旅館湯原荘を継承し、同年10月に湯原荘を「水上聚楽」へ改称した後、1962年(昭和37年)3月に株式会社ホテル聚楽に商号を変更した[38]。
関連会社
[編集]CM
[編集]1970年代から1980年代にかけてCM放送を行っていて、各地のホテル紹介と「遊びきれないホテルは聚楽」というCMソングの最後に、マリリン・モンローのそっくりさんスーザン・グリフィス(声は本家と同じく向井真理子が吹き替え)が出演して「じゅらくよ〜ん」というセリフがあり、話題を集めていた[102]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c “商業登記”. 官報 第2409号 (大蔵省印刷局) (1935年1月16日).pp286
- ^ a b 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp196
- ^ a b 毎日新聞社社会部 『明治百年 日本文化のあゆみ』 筑摩書房、1965年3月20日。pp61
- ^ a b c d 『酒のセールスプロモーション ホテルレストランにおける"酒の販売マニュアル" 1975年版』 オータパブリケイションズ、1975年8月31日。pp28-29
- ^ a b c d e f 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp197
- ^ a b c d e f g 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp198
- ^ “名商雄社物語(15)飯坂温泉 ホテル聚楽”. 財界ふくしま 1983年1月号 (財界21) (1983年1月).pp275
- ^ a b 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp214
- ^ a b c 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp213
- ^ a b 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp199
- ^ a b 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp200
- ^ a b c 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp201
- ^ a b “商業登記”. 官報 第3550号 (大蔵省印刷局) (1938年11月2日).pp9
- ^ a b 『新東亜建設を誘導する人々』 日本教育資料刊行会、1939年12月8日。pp342
- ^ 『永井荷風日記 第5巻』 銀河出版、1959年3月25日。pp210
- ^ a b c “商業登記”. 官報 第3756号 (大蔵省印刷局) (1939年7月14日).pp3
- ^ a b c d “Ⅱ、 生まれ変わった浅草花やしき”. アミューズメント産業 1989年11月号 (アミューズメント産業出版) (1989年11月1日).pp67
- ^ a b 『食堂業便覧 有力企業190社の組織と経営』 柴田書店、1980年6月1日。pp118
- ^ a b “商業登記”. 官報 第5100号 (大蔵省印刷局) (1944年1月17日).pp265
- ^ a b c d 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp202
- ^ a b 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp222
- ^ 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp203
- ^ 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp205
- ^ 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp206
- ^ 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp212
- ^ 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp216
- ^ a b c 『現代人物伝シリーズ 第1集』 銀河出版、1963年3月1日。pp223
- ^ a b c d e f g 『実例から見るこの店の繁栄要素 第1』 誠文堂新光社、1963年6月5日。pp105
- ^ a b c d e f g 『会社総鑑 1971年版』 日本経済新聞社、1971年5月25日。 pp1821
- ^ a b c d “ホテル・ブライダル 全国屈指の施設、飯坂ホテル聚楽”. 財界ふくしま 1989年12月号 (財界21) (1989年12月).pp81
- ^ a b c “名商雄社物語(15)飯坂温泉 ホテル聚楽”. 財界ふくしま 1983年1月号 (財界21) (1983年1月).pp277
- ^ a b c d e f g h i j 『会社総鑑 未上場会社版 1983年版』 日本経済新聞社、1983年4月25日。 pp3601
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- ^ a b 『日本国有鉄道百年史 第13巻』 日本国有鉄道、1974年2月28日。 pp308
- ^ a b c 『日本ホテル年鑑 1983年版 東日本編』 オータパブリケイションズ、1983年1月5日。 pp615
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- ^ “マリリンモンロー出演!?『じゅらくよ~ん』CMが懐かしいホテル聚楽の現在”. ミドルエッジ (20219-06-25). 2024年7月9日閲覧。