さがみ三太・良太
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さがみ三太・良太(さがみさんた・りょうた)は昭和期に活躍した浪曲漫才コンビ。
共に初代相模太郎の門下。1974年コンビ結成。2003年コンビ解消。
解消後はさがみ三太は一人で漫談、さがみ良太は実の娘のいずみと「さがみ良太・いずみ」で活動していた。
メンバー
[編集]- 静岡県浜松市鴨江町の生まれ。1955年16歳の時に初代相模太郎に入門。芸名を相模金時で秩父劇場で初舞台。1960年より相模五郎と改名し、司会、漫談に転向しその後、1974年良太とコンビを組む。現在は漫談家として活動。日本浪曲協会、漫才協会に所属していたが、2022年時点では両協会を離れている。「相模太郎」の名跡を預かる。芸名の由来は灰神楽三太郎から。2006年、静岡市駿河区にオープンした温浴施設「すんぷ夢ひろば」(その後2010年頃に閉鎖、のちに「大江戸温泉物語 天下泰平の湯すんぷ夢ひろば」→2020年現在「リバティリゾート久能山」) に併設された「すんぷ演芸場」のプロデュースにも携わっていた[1]。そのため一時静岡県に居住していた。漫才研究家の神保喜利彦によると2023年12月に亡くなったとのことである[2]。
- 群馬県館林市の生まれ、両親とも浪曲師で自身は浪曲の曲師をしていた。浅草東洋劇場に入り「みなみ良雄」の名でコメディアンとなり、1963年2月に「じん弘とスリーポインツ」(元々はじん弘、萩本欽一とのトリオだったが、萩本が4ヶ月で脱退。)を結成。その後「コント・コンビネーション」等のメンバーで活躍、1972年に「スリー・アンバランス」(斎藤正道、清水粒太とのトリオ)を結成も1年ほどで解散。妻は東家三楽嬢の名で浪曲師をしていた。解散後は実の娘のいずみと「さがみ良太・いずみ」で2014年頃まで活動。
芸風・ギャグ
[編集]三太は概ね和装。対する良太は洋装。この洋装の良太が三味線を抱えて曲を奏でながら、三太が朗々と歌う。いよいよ盛り上がってきたところで突如「丁度時間となりました」と三太が締めに入ってしまう。
良太が「まだ早いよ」と突っ込んでいなし、話を進行させる。暫く進んでまた三太が「丁度時間と…」と締めに掛かる。良太が「だからまだだって!」と突っ込み話を進行させる。
両名が登場して三太が自己紹介をした後「丁度時間と…」と持って行くパターンもあった。
弟子
[編集]脚注
[編集]- ^ まち娘 (2006年11月16日). “すんぷ夢ひろば オープン!”. 静岡ジモティーズ. TOKAIネットワーククラブ. 2020年10月8日閲覧。 “記事写真内の看板に「さがみ三太と仲間たち」の記載あり。”
- ^ 喜利彦山人 (2022年4月1日). “さがみ三太・良太”. 東京漫才のすべて The tokyo manzai collections. 2024年3月11日閲覧。
- ^ 松竹芸能 アラ還ブログ 2015年7月15日より
出典
[編集]- 「東京漫才列伝」(東京新聞出版局)