くずは国際トーナメント
くずは国際トーナメント(くずはこくさいトーナメント)は、1965年から1990年まで行われていた日本プロゴルフ協会(JPGA)公認の男子プロゴルフトーナメントの一つである。
別名は「くずはトーナメント」[1]。
概要・歴史
[編集]1965年に大阪府枚方市にある樟葉パブリック・ゴルフ・コース初代社長の今田英作の発案によりスタートした[2]。第1回は「関西有名プロゴルフ競技」の名称で9月1日に開催され、パブリック・プレーヤーにトップ選手の技術を見てもらう趣旨があり、1966年の第2回までは観戦料が無料となっていた[3]。
1968年の第3回より「全日本トッププロ招待トーナメント」に名称を変更し、1日に36ホールを回る方式とした[3]。この時から産経新聞系の各紙(サンケイスポーツ、大阪新聞)も主催者に加わっており[4]、1971年の第7回は初めて外国人選手が4人参加[5]。1972年の第8回大会「くずは国際トーナメント」に名称を変更し、同年の第8回と1973年の第9回は1日27ホールで実施された[6]。
1974年の第10回より2日間・36ホール制となり[6]、同年から1978年の第14回までは関西テレビ[7]で中継され、1977年と1978年の放送では杉本清が実況を担当していた。1979年は中継が無かったが、1980年と1981年はKBS京都で放送され[8]、1982年の第18回からはテレビ大阪で中継されていた[9]。
1985年には入江勉が11アンダーの「59」を記録し、日本ツアーで初めて50台のスコアを出して、デビッド・イシイ(アメリカ)を抑えて優勝[10] [11]。2日間の内容は、1日目が9バーディ、1イーグルの11アンダーで回り、2日目もパープレーにまとめてのものであった[12]。快晴で風速1.1mという絶好のコンディションで、初日の2番パー5で決めた5mのイーグルパットが59への始まりとなり、3番で3m、6番で6m、7番1.5m、9番では4mのバーディーパットを沈めてアウトは6アンダーの29であった[13]。インでは10番から12、14、16番とひとホールおきにバーディーを奪って迎えた18番パー5は4mに3オンし、このパットをきっちり沈めて日本のプロトーナメント史上初めての59が達成された[13]。記者に囲まれた入江はタバコを持つ手が小刻みに震え、観戦していた宮本留吉も「初めてや、50台のゴルフをはじめて見た。入江、カードはちゃんと保存しておけ」と興奮で声を震わせた[13]。4打のリードで翌日の最終日に臨んだ入江はパープレーの70にまとめて逃げ切った[13]。アメリカツアーでは1977年のダニー・トーマスメンフィスクラシックで2日目にアル・ガイバーガーがコロニアルCCで59をマークしており、入江が世界で2人目であった[12]。廣野GCにあるJGAゴルフミュージアムには、当時のスコアカードと英字新聞の切り抜きが展示されている[12]。
日本ゴルフ界の成長・発展と共に、当初の目的は達成したとして、1990年の第26回をもって大会を終了した[6]。
歴代優勝者
[編集]※太字は日本プロゴルフ協会公認男子ゴルフツアートーナメント
- 1965年:杉原輝雄・戸田藤一郎(同スコア)
- 1966年:橘田規
- 1967年:杉原輝雄
- 1968年:宮本省三
- 1969年:橘田規
- 1970年:杉本英世
- 1971年:G.ウォルス・テンフォルム( イングランド)
- 1972年:呂良煥( 中華民国)
- 1973年:韓長相( 韓国)
- 1974年:鷹巣南雄
- 1975年:鈴木規夫
- 1976年:小林富士夫
- 1977年:グレッグ・ノーマン( オーストラリア)[1]
- 1978年:矢部昭
- 1979年:謝敏男(中華民国)
- 1980年:横島由一
- 1981年:島田幸作
- 1982年:鷹巣南雄
- 1983年:新井規矩雄
- 1984年:鈴木規夫
- 1985年:入江勉
- 1986年:山本善隆
- 1987年:高橋勝成
- 1988年:W.スミス(オーストラリア)
- 1989年:中村通
- 1990年:新関善美
脚注
[編集]- ^ a b #51 野球とゴルフの実況へ (YouTube配信). メディアあどりぶ倶楽部. 1 September 2020. 該当時間: 13m50s. 2021年8月28日閲覧。
元関西テレビアナウンサー杉本清さんにお話をうかがいました。
- ^ 京阪電気鉄道株式会社/編集 『京阪70年のあゆみ』、1980年、307頁。
- ^ a b 京阪電気鉄道株式会社経営統括室経営政策担当/編 『京阪百年のあゆみ』、2011年、750頁。
- ^ 樟葉パブリック・ゴルフ・コース/編集 『樟葉パブリック・ゴルフ・コース25年の歩み』、1983年、52、76頁。
- ^ 京阪電気鉄道株式会社/編集 『京阪70年のあゆみ』、1980年、308頁。
- ^ a b c 京阪電気鉄道株式会社経営統括室経営政策担当/編 『京阪百年のあゆみ』、2011年、751頁。
- ^ 関西テレビ放送(編)『関西テレビ放送50年史 資料編』2009年、64頁。
- ^ 出典:1980年4月12日・13日、1981年4月18日・19日付讀賣新聞大阪本社発行岡山版朝刊スポーツ面
- ^ テレビ大阪株式会社社史編纂委員会 編纂『テレビ大阪10年の歩み』1992年、106頁。
- ^ “石川遼1R58の超ど級スコアほかにもいた! 50台を出したプロ - GDO Back9”. www.golfdigest.co.jp. 2023年5月14日閲覧。
- ^ “Irie fires lowest score in Japan's pro history”. Singapore Monitor. Reuter. (7 April 1985)
- ^ a b c “【ゴルフ初物語】Vol.52「パパ、59位なの?」日本ツアー初の50台は1985年に入江勉がマークした「59」”. my-golfdigest.jp. 2023年5月14日閲覧。
- ^ a b c d “【今日は何の日 4月6日】入江勉が日本初の59をマーク”. 2023年5月14日閲覧。