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毛利就頼

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毛利就頼もうりなりより慶長7年(1607年) - 延宝4年(1676年))は、吉川元春3男の初代岩国領吉川広家の次男で、長州藩一門家老である大野毛利家の祖。母は品川信重の娘。正室は吉見広頼の娘。子に毛利就詮。正式な名のりは大江就頼(おおえ・の・なりより)。幼名・彦二郎。通称は彦次郎、出雲、阿波、右京進、隠岐。

毛利氏家臣である吉見氏の当主吉見広長が毛利氏に反抗し出奔したため、先代当主で隠居していた吉見広頼の婿養子となり、吉見政春と名乗る。長州藩主毛利秀就より周防熊毛郡(現在の山口県熊毛郡平生町)を与えられ、のちに毛利姓に復姓し、毛利就頼と名乗った(なお、吉川広家の子孫で毛利姓を名乗ることを許されたのは就頼だけである。)。

子孫は大野毛利家となり、長州藩一門家老として、幕末まで存続している。

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