冊封体制
冊封(さくほう)とは、中国皇帝がその周辺諸国の君主と名目的な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。
概要
冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。
冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の称号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。ただし冊封国がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。冊封国の君主の臣下たちはあくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。また冊封国であることは属国であることの必要条件であるが十分条件ではない。朝鮮が冊封国離脱だけをもって独立国となったとする見解では、必然的に朝鮮が清の属国であったことになる。
冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもある。その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることが出来る。ただし中国との力関係や親密度によって遵守されたかは様々であり、朝貢に関しては三年に一回と言った風に免除されることもあり、正朔に関しては中国向けには遵守し、国内向けには独自の暦を使うと言った例も見られる。
冊封が行われる中国側の理由には華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は中国に住む者を文化の高い華とし、周辺部に住む者を礼を知らない夷狄と蔑み、峻別する思想である。これに対して王化思想はそれら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。
冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できること、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、当時朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことが出来ることなどがあった。また冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢は冊封を受けなくとも行うことが出来た。この場合は「蕃客」という扱いになる。
冊封の最も早い事例としては前漢初期に南越国・衛氏朝鮮がそれぞれ南越王、朝鮮王に冊封されたことが挙げられる。その後、時代によって推移し、清代にはインド以東の国ではムガル帝国と日本を除いて冊封を受けていた。
冊封体制
冊封体制と言う概念は西嶋定生が「六-八世紀の東アジア」(『岩波講座日本歴史2』(岩波書店、1962年)に初出。)にて提唱した。単独の冊封を指した言葉ではなく、冊封によって作られる中国を中心とした複数の国の国際関係秩序を表す言葉である。
当時、前田直典が唐滅亡後の東アジア諸国の大変動[1]に目をつけ、東アジア諸国の間に相互連関関係があると提唱していた。(「東アジヤに於ける古代の終末」(1948年)、『元朝史の研究』(1973年、東京大学出版会、ISBN 4130260138)に再録。
しかしこの前田論に於いては、そういった連関関係を作っている要因に付いては言及されないままであった。それに対して西嶋冊封体制論は冊封に着目することによってこれに一定の回答を与え、「東アジア世界」という「その中で完結した世界」の存在を提唱するに至った。
西嶋は「東アジア世界」を特徴付けるものは漢字・儒教・仏教・律令制の四者であるとし、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている。[2]「東アジア世界」の範囲は漢字文化圏にほぼ合致し、含まれる国は現在の区分で言えば、中国・朝鮮・日本・ベトナムであり、「東アジア世界」の中心にかけられる「網」が冊封体制であるとしている。
このように当初は「東アジア世界」を説明するためのものであった冊封体制はその後、唐滅亡後にも拡大され、清代のように明らかに東アジア世界と冊封体制の範囲とが異なる時代にまで一定の言及をしている。
以下、西嶋説に従い、冊封体制の時代における推移を追う。
歴史
冊封体制の始め
周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。
全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を初めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。
秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」[3]を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを領有する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。
冊封の事例の初めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「南越王」・「朝鮮王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである。[4]
両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡が、南越の土地には南海郡・交趾郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。
一方、武帝の治世時より儒教の勢力が拡大し始め、前漢末から後漢初期にかけて支配的地位を確立する。この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。この時期には倭が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の称号を授かった。
冊封体制の完成
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代を迎える。その一方で朝鮮に於いては百済・新羅などの新興国が誕生し、倭に於いても邪馬台国が魏に対して使者を送り「親魏倭王」の称号を受けるなど、周辺諸国側の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。
五胡十六国時代では高句麗が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受ける。
南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受け、倭もいわゆる倭の五王が南朝より冊封を受けた。この時期には百済・新羅は倭の影響下にあり、これを南朝の宋に追認してもらうために自ら冊封を受けたのだが、百済・新羅も冊封国であり、倭がこれら二国を支配するという承認は得られなかった。更に高句麗は北朝の北魏に対しても入朝して冊封を受け、百済に対する姿勢を見せ、百済も高句麗に対抗して北魏に朝貢した。
この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。
冊封体制の全盛
二元的な冊封体制は、589年に中国を統一した隋によって一元的なものへ纏められた。
高句麗・百済は隋成立の581年すぐに隋の冊封を受けたが、新羅はすぐには冊封を受けず、594年になって初めて隋の冊封を受ける。一方、高句麗は585年からは隋と対立する陳に対して朝貢するようになり、隋が陳を滅ぼした後も隋に対する朝貢を怠り、さらには隋領内を進入する事件まで起きる。
これに激怒した文帝は高句麗に対する遠征軍を起こす。この軍は苦戦し、撤退を余儀なくされるが、高句麗が謝罪したことで高句麗の罪を赦した。しかし高句麗はなお朝貢を怠り、文帝に代わって煬帝が立った後の607年には突厥と結んで、隋に対抗する振りを見せた。容態はこれに対して二百万と号する大遠征軍を起こすが、三度にわたり失敗に終わり、隋滅亡の主要因となった。
他方、倭の五王以来長きに渡り中国との接触を行っていなかった日本であるが、隋に対して遣隋使を送るようになる。この中で煬帝に対して「日出づる処の天子が・・・」で始まる国書を送ったことがつとに有名である。この時期、日本は中国の中華思想の小型版とも呼ぶべき、国家思想を持っており、冊封体制には参加しようとはしなかった。ただしこの時期の日本もまた東アジア世界の一員であり、「冊封体制の外」ではあっても冊封体制の影響外ではなかったと考えられる。
隋が滅び、唐が取って代わり、624年には朝鮮三国は唐の冊封を受けた。しかし高句麗で泉蓋蘇文による権力奪取が起きるとこれを理由として二代太宗は高句麗遠征を開始する。この遠征は再び失敗に終わる、
その中で唐と新羅との関係が密になり、660年の新羅による救援要請を機として、新羅との連合軍により同年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。更に百済遺民の要請を受けた倭との白村江の戦いにも勝利する。
しかし新羅は二国の旧領が唐の郡県支配に置かれることを不快に思い、これに攻撃を仕掛けて朝鮮半島を統一するに至った。唐は当然これに怒り、新羅の王号を剥奪し、討伐軍を送るが、失敗に終わり、最終的に新羅が謝罪して入朝することで和解し、再び新羅は冊封を受ける。以後、新羅と唐は冊封体制の中でも最も強固な関係となる。
一方、高句麗の遺民たちは北に逃れ、震国を建国した。唐は初めこれに対して討伐軍を送ったものの713年には王の大祚栄を渤海郡王に冊封する。震国はこれにより渤海と呼ばれるようになり、唐の冊封体制に入った。
また白村江の戦いに敗れた日本では唐との関係を修復するために遣唐使を送り、以後はこれを通じて朝貢を続けるが、冊封体制には入らないままであった。
唐の全盛期とともに冊封体制も安定期を迎え、冊封体制を通じて各国に唐文化が伝えられる。各国では唐制を模した律令制が行われた。
冊封体制の崩壊と再生
冊封体制の安定も唐の衰退と共に揺らぎを見せ、唐滅亡と共に冊封体制のみならず東アジア世界が崩壊することになる(脚注の1を参照)
五代十国時代のあと、中国を統一した宋(北宋・南宋)では遼や金などに対して弟・臣下としての礼を取らなければならなくなり、冊封体制の中心とは到底なりえなかった。
その一方で宋代・元代を通じて中国を中心とした交易網が飛躍的に発展しており、これが以後の冊封体制の再生に大きな役割を果たす。
洪武帝が元を北い、明が成立すると冊封体制と東アジア世界が再生される。朝鮮に於いては高麗に代わって李氏朝鮮が興り、明の冊封を受けて朝鮮王とされた。日本は南北朝時代の時代であるが、南朝の懐良親王が日本国王とされ、後に北朝室町幕府の足利義満が日本国王とされた。
洪武帝は義満を冊封するにあたり、倭寇の鎮圧を求めており、また明では海禁策が採られる。このように再生した冊封体制は交易圏の秩序を守るためのものであった。義満は洪武帝の要請に応えて倭寇を鎮圧し、勘合貿易によって莫大な利益を上げた。
明滅亡後、清代には冊封体制の範囲は北アジア・東南アジアなどに大きく広がり、インド以東ではムガル帝国と日本のみが冊封体制に入らなかった。
冊封体制の終焉
空前の域まで広がった冊封体制が終焉を迎えるのは19世紀、西欧列強の進出によってである。
それまで対等の外交と言うものを認めなかった清朝廷がアヘン戦争の敗北により、これを認めざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝も清仏戦争の結果によりフランスの植民地となり、日清戦争の敗北により李氏朝鮮も冊封体制から離脱し、この時点をもって冊封体制は完全に崩壊したと考えられる。
冊封体制と日本
日本列島の勢力は弥生時代・古墳時代から朝貢を行っており、467年には倭の五王である「倭王武」が安東大将軍を、479年には征夷大将軍の称号を受かるなど冊封国家であった。しかしながら607年、遣隋使(小野妹子)が持参した国書にある記述「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」は、この体制からの自立を意図したものだとされている。その後、冊封国家以外とは国交を持たなかった中国との交易を続けたいなどの思惑から、その後も関係を維持するため冊封を受けて朝貢も続いた。
隆盛を誇った唐が滅びた鎌倉時代になってから、冊封や朝貢を意識することはなく日本は独自に軍事力を増強し始め、次第に日本は独自の道を進んだが、南北朝時代、自勢力の正統性を証明する為に懐良親王などか「日本国王」として冊封を受けた。室町時代になると、倭寇撲滅など明との貿易を意識した3代将軍足利義満が朝貢して「日本国王」に冊封され、室町幕府が滅びるまで朝貢形式の勘合貿易が続く。従属的な朝貢形式の貿易は日本のメンツを傷つけるものとして4代将軍義持の時に一時中断されるが、莫大な利益をもたらした明との貿易と幕府の財政状況の悪化を考慮し、6代将軍義教の時に再開。国内の商人や倭寇に中国人も多数いたためか明側の要望もあり、その後、室町幕府が滅びるまで続いた。
江戸時代になると冊封体制下にあった琉球を介して、明と貿易をするようになる。満州族に制圧され掛かった明は徳川家光に援軍を求めたが、家光は断った。柳川一件、大君一件などを通じ、江戸幕府及び天皇の日本の冊封体制における立場は曖昧なものであり続けたが、名実共に冊封体制から離脱したのは明治維新以降と考えられる。
批判
脚注
- ^ 907年、唐滅亡。918年、高麗成立、936年、新羅滅亡。926年、渤海滅亡。契丹の勃興、946年、遼成立。935年、承平天慶の乱。938年、ベトナムの独立。
- ^ そのため冊封体制論は基本的に政治構造論であるが、文化論の趣きを得ることにもなる
- ^ これを藩国と言う
- ^ 内部の藩国を内藩国、南越・朝鮮のような外部の藩国を外藩国と呼び、朝廷に直接仕えるものを内臣、冊封を受けた君主を外臣と呼ぶ。
参考文献
「六-八世紀の東アジア」(改題して「東アジア世界と冊封体制 - 六-八世紀の東アジア」)が収録されているのは上述を除いて以下の三冊。
- 『中国古代国家と東アジア世界』(東京大学出版会、1983年 ISBN 4130210440)
- 『古代東アジア世界と日本』(岩波現代文庫、2000年 ISBN 4006000251)
- 『西嶋定生東アジア史論集』(岩波書店、2002年 ISBN 400092513X)