王粲
王粲 | |
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後漢 侍中 | |
出生 |
熹平6年(177年) 兗州山陽郡高平県 |
死去 | 建安22年(217年) |
拼音 | Wáng Càn |
字 | 仲宣 |
主君 | 蔡邕→劉表→劉琮→曹操 |
王 粲(おう さん、熹平6年(177年) - 建安22年(217年))は、中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。兗州山陽郡高平県(現山東省微山県)の人。曾祖父は王龔(後漢の三公)。祖父は王暢(後漢の三公)。父は王謙。従兄弟は王凱。子は王昭・王耽。文人としても名を残したため、建安の七子の一人に数えられる。
略歴
父は何進に仕えていたが、出自の卑しい何進からの縁組申し入れを拒絶したため免職にされ、まもなく病没した。
その後、王粲は長安に移住した。幼くて容姿も貧弱だったが、大学者として有名だった蔡邕から非常に目をかけられ、彼の蔵書を預かることとなった。17歳で司徒に招かれ、黄門侍郎にも任命されたが、どちらにも就任せず、戦乱打ち続く長安を離れ、流浪の末に荊州の劉表を頼った。しかし劉表は風采の上がらない王粲を尊重しなかった。建安13年(208年)、劉表が亡くなると後継者の劉琮を説得し、曹操に帰服させた。以後は曹操に仕えた。
建安18年(213年)、曹操が魏公になると侍中に任命された。王粲は博学多識であり、曹操が儀礼制度を制定するときは、必ず王粲がその責任を任されたと言われている。
王粲は優れた記憶力を持つ人物で、碁盤の石が散らばっても、全て元通りに戻すことができたと言われている。また、計算が得意で算法を作った。
建安22年(217年)、41歳の若さで病死した。葬儀のとき、曹丕は王粲が驢馬の鳴き声を好んでいたことから、その鳴き真似をして送ろうと提案した。このため弔問客たちは、皆一声ずつ驢馬の鳴き声の真似をしたと伝えられている。王粲の2人の子が、魏諷の乱に組し誅殺されたため、直系子孫は絶えた。一族で王粲の1世代下に当たる王業(王凱の子)が、王粲の1万巻にも及ぶ蔵書を受け継いだ。
文学作品
王粲は文才に優れており、筆を取ればすぐに文章を作り上げ、手直しすることがなかった。人々は彼のそれらの文を、前々から考えていたものを書いているだけだと思ったという。六十編に近い詩・賦・論・議を著した。代表作として「登楼賦」「七哀詩」などがある。また歴史書『英雄記』も編纂している。
曹植とも親交が深く、「王仲宣誄」は曹植の誄銘の中でも特に心情が溢れた名作と評される。
王粲を題材とした作品
資料
『三国志』巻21魏書「王衛二劉傅伝」