名誉毀損
名誉毀損(めいよきそん、英:Defamation)とは、他人の名誉を傷つける行為。損害賠償責任等を根拠づける不法行為となったり、犯罪として刑事罰の対象となったりする。「名誉棄損」と表記されることもある[1]。
名誉毀損には刑事名誉毀損と民事名誉毀損がある[2]。
名誉の概念
人の「名誉」は多義的な概念である。
- 内部的名誉
- 自己や他人が下す評価からは離れて独立かつ客観的に存在しているその人の真価をいう[3][4]
- 外部的名誉(社会的名誉・事実的名誉)
- ある人に対して社会が与えている評判や世評などの評価をいう[3][4]
- 名誉感情(主観的名誉)
- 本人の自己に対して有している価値意識や感情をいう[3][4]
これらのうち内部的名誉は客観的にその人に備わっている真価そのものであり、他から侵害される性質のものではなく法的保護の問題とはならない[3]。法的保護のあり方が問題となるのは外部的名誉と名誉感情である。
刑法上の名誉毀損罪は外部的名誉を保護法益とする[3]。また、民事上、名誉毀損として保護される「名誉」も外部的名誉である[5]。
刑事名誉毀損
刑法上、名誉毀損罪と侮辱罪の関係が問題となり、名誉毀損罪は外部的名誉を保護し侮辱罪は主観的名誉を保護しているとする二元説などもあるが、ともに外部的名誉を保護するとみる外部的名誉説が通説である[3]。通説は具体的事実の摘示によって区分し、具体的事実を摘示した場合には名誉毀損罪の成否が問題となり、そうでない場合には侮辱罪の成否が問題となるとする。
ドイツ
ドイツでは刑法185条以下において、名誉毀損の罪が定められている。
日本
日本では刑法230条以下に定められている。
民事名誉毀損
序説
大陸法系の国々において、名誉毀損は、不法行為を構成するとされている。またコモンローの法体系において、名誉毀損は、不法行為とされている。アメリカ合衆国連邦裁判所によれば、他人の評判について虚偽の名声を公表することにより、その評価を低下させる行為が、名誉毀損であるとされる[6]。
不法行為としての名誉毀損は、人が、品性、徳行、名声、信用その他の人格的価値について社会から受ける客観的評価(社会的評価)を低下させる行為をいう[7]。
名誉毀損の客体
法人
法人も社会的存在として一定の評価を受ける存在であるから法人に対しても名誉毀損は成立しうる[8][9]。
「産経新聞意見広告事件」の日本の最高裁の判決では「言論、出版等の表現行為により名誉が侵害された場合には、人格権としての個人の名誉の保護(憲法13条)と表現の自由の保障(同21条)とが衝突し、その調整を要することとなるのであり、この点については被害者が個人である場合と法人ないし権利能力のない社団、財団である場合とによって特に差異を設けるべきではないと考えられる(後略)」と判示された[10]。ただし法学者の和田真一によれば信用が問題になるほどの法人や団体であれば「相応の社会的関心の下にあり、社会的評価や批判につねにさらされるべき立場にあると言えるから、法人や団体の名誉保護の範囲は一般私人よりはより限定されたものになる」[11]。
イングランドのコモン・ローのもとでは個人のほか会社など法人も名誉毀損の訴えを起こすことができる[12]。
ロシアでは名誉、尊厳、事業の名声を保護するために起こされた裁判の原告のうち25%が私企業、22%が公共団体・地方公共団体だった[13]。
死者
死者に対する名誉毀損が成立するか問題となる。
韓国には死者に対する名誉毀損があり、名誉を損ねる発言を行えば直系子孫などの関係者から訴訟を起こされることがあり民事裁判においても名誉毀損が認定されることとなっている[14]。
日本では、まず死者の社会的評価を低下させる事実摘示が遺族自身の社会的評価をも低下させるようなものとなっているときは遺族に対する名誉毀損が成立する[15][16]。また死者の名誉毀損にとどまる場合には遺族の名誉毀損とは構成できないが、数多くの裁判例は「故人に対する敬愛追慕の情」を被侵害利益として不法行為が成立するとする[17][18][19]。
なお、日本の刑法230条2項は「死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。」としていることから、民法上の死者に対する名誉毀損でも問題となる。まず「故人に対する敬愛追慕の情」の侵害と構成される場合について裁判例は虚偽の事実であることを要するとしている[20]。しかし真実であっても故人のことはそっとしておいてほしいという遺族感情は保護されるべきであるから一般の名誉毀損と同様に公共性と公益目的がある場合に限って名誉毀損は成立しないとみるべきとする反対説がある[21]。一方、死者の社会的評価を低下させる事実摘示が遺族自身の名誉毀損として構成される場合には、真実の摘示であっても名誉毀損にあたり公共性と公益目的がある場合に限って免責されると考えられている[22]。
事実の摘示
虚名の保護
名誉毀損の成否については虚名の保護が問題となる。
日本法の場合、現実に社会がその人に与える評価を保護しており[23]、名誉毀損の成否は社会的評価の低下の有無のみが問題となるのであり事実の真偽は問題とはならない[24]。ただし、公的言論の自由を保障するために一定の免責事由が必要となる[25]。
意見の表明
意見の表明によって、名誉毀損として、不法行為責任が生じうることもある[26]。ただし、ある問題に対して反対意見を主張することと人格非難とは区別される[27]。言論に対しては言論で対抗することが民主主義社会の鉄則だからである[28]。意見には意見をもって対抗すべきであるとの関係から、意見の前提となる事実が言明されている場合に、その部分についてのみ名誉毀損による不法行為責任を問うべきとの見解もある[29]。
対象の特定可能性
名誉毀損が成立するには特定人に対してなされたものであることを要し、「東京人」や「関西人」のように単に漠然と集団を対象としても名誉毀損は成立しない[30]。
人格価値と無関係な事項の摘示
精神障害者であることなどの事項は本来的には人格価値とは無関係であるが、社会には偏見や差別がなお存在しており、これらの事実の摘示によって社会的評価が低下した場合には名誉毀損にあたるというのが伝統的な見解である[24]。これらの問題については名誉毀損ではなくプライバシー侵害の問題として法的保護を与える見解も出てきている[24]。
ある者に対する言及が他者の名誉毀損となる場合
会社の社長に対する名誉毀損が当該会社に対する名誉毀損にもなることがあるように、ある者に対する言及が他者に対する名誉毀損に認定される場合がある[31][32]。
公然性の要件
名誉毀損は社会的評価を低下させる行為であり、名誉毀損が成立するためには当該言論がある程度他人に伝播する態様のものであることが必要である[33]。日本の刑法上ではこのことが明文で示されている。
故意・過失
この節の加筆が望まれています。 |
損害
名誉毀損における損害は社会的評価の低下であるが、それに尽きるとする見解と被害者の主観的心痛を含むとする見解[34]がある。
民事上の損害の回復は手段は、金銭による賠償が原則である(民法417条、金銭賠償の原則)。しかし、名誉毀損については、民法723条により、「名誉を回復するのに適当な処分」を裁判所が命じうるとされている。この措置により、名誉毀損によって低下した社会的評価の回復が図られる。この措置の具体例としては、謝罪広告がある。
名誉毀損の違法性阻却・免責に関する法理
真実性・相当性の法理
日本において、ケースによっては、真実性の抗弁・相当性の抗弁が、判例又は条文上認められている[35]。
真実性の抗弁・相当性の抗弁とは、問題とされている表現行為が、特定人の社会的評価を低下させるものであっても、公共の具体的な利害に関係があることを事実を以って摘示するもので(公共性)、その目的が専ら公益を図ることにあり(公益性)、摘示した事実が真実であれば(真実性)、名誉毀損は成立しない、とする考え方である[36]。
- 摘示した事実が公共の利害に関する事実であること(公共性)
- その事実を摘示した目的が公益を図ることにあること(公益性)
- 摘示した事実が真実であること・真実であるとの相当な理由のあること(真実性・相当の理由)
真実性の抗弁・相当性の抗弁は、不法行為について、これを主張立証すれば、名誉毀損は成立しない。不法行為上の両抗弁は判例[37]において認められており、犯罪としての名誉毀損については、刑法が明文により、これらの抗弁を認めている(刑法230条の2第1項)。
これらの抗弁によって名誉毀損の成立しないことに争いはないが、当該抗弁が認められ、名誉毀損の成立が否定される意味については、諸説ある。不法行為としての名誉毀損について、判例は、ケースによっては、真実性の抗弁が認められる場合には違法性が否定され、相当性の抗弁が認められる場合には故意・過失がないために、不法行為は成立しないとするものもある[38]。
なお、ドイツにおいては、調査義務(Nachforschungpflight)を尽くしたものの、誤った主張が行われてしまった場合、それが正当な利益を擁護するためになされたものである場合は、不法行為にはならないとされている(ドイツ民法)。[39]
公正な評論の法理
論評による名誉毀損が問われる場合に、公益に関する事項についての公正な評論であるときは免責されるとする英米法上の法理である[40]。
日本でも最高裁判例を通して確立された法理となっている[40]。
現実的悪意の法理
アメリカ合衆国連邦最高裁判所の判例においては、現実的悪意の法理が採用されている。つまり、公人に言及する表現行為は、現実的悪意をもってなされた場合に、名誉毀損となる、とする考え方である。
現実的悪意の法理を採用した場合、公人に関する表現行為について名誉毀損が成立する範囲は狭くなる。長谷部恭男は、このような法理が認められた背景に、巨額の損害賠償が認められることによる表現行為への萎縮効果を抑制する必要性があることを主張している[41]。
日本ではメディアなどから現実的悪意の法理の採用を求める主張が出されているが、裁判所では真実性・真実相当性の法理による判断がなされており、現実的悪意の法理は採用されていない[42]。
言論の応酬の場合の免責の法理
名誉を毀損された者が自らを守るために言論をもって応酬した場合に、その応酬については免責など特段の配慮が必要ではないかという問題である[43]。
正当業務行為
ある事実の摘示が他人の名誉を毀損する場合でも、それが正当業務行為にあたるときは違法性阻却事由となる[44]。
- 会社による解雇事実の公表は、必要やむを得ず必要最小限の表現を用いて被解雇者の名誉や信用を可能な限り尊重した公示方法である限り認められる[45]。
団体行動権
労働者の団体行動権の保障の観点から名誉毀損について免責の余地があるとされている[46]。
被害者の承諾
被害者の承諾がある場合には違法性阻却事由として不法行為は成立せず、名誉毀損の場合にも被害者の承諾は違法性阻却事由となる[47]。
判例と関連する事件
名誉毀損は下記の事例にあるようにしばしばプライバシーの侵害とも合わせて問題となる。プライバシー権が提唱されるまでは名誉毀損として審理されていた。
プライバシー侵害に関する判例・事件についてはプライバシーも参照。表現の自由に関する判例は表現の自由#判例も参照。
- 「宴のあと」裁判 - 三島由紀夫の小説がモデルとされた人物との間でプライバシーの侵害について争われた(1964年9月28日東京地裁判決[48])。
- 署名狂やら殺人前科事件 - 公共の利害に関する事実の摘示と名誉毀損の成否 (最高裁第一小法廷昭和41(1966)年6月23日判決[8](事件番号:昭和37年(オ)第815号)。
- 夕刊和歌山時事事件。1969年6月25日最高裁判決[49]
- 北方ジャーナル事件 - 1979年提訴。最高裁大法廷1986年6月11日判決。
- 長崎市通知表不交付批判ビラ事件 - 最高裁一小平成元年1989年12,21判決)[50]
- ノンフィクション「逆転」事件(最高裁第三小法廷1994年2月8日判決)
- 石に泳ぐ魚事件 - 1994年提訴。最高裁第三小法廷2002年9月24日判決[51]。
- 雑誌噂の眞相 1994年、和久峻三から名誉毀損で刑事告訴。2005年3月7日最高裁判決。
- ニフティサーブ現代思想フォーラム事件(1994年提訴、2001年9月5日二審判決)
- ニフティサーブ本と雑誌フォーラム事件(東京地裁2001年8月27日判決)
- ロス疑惑報道についての名誉毀損訴訟。最高裁平成14年1月29日判決
- 動物病院対2チャンネル事件判決(東京地裁平成14年6月26日判決、東京高裁平成14年12月25日判決)[52]。
- 『週刊文春』販売差止め事件(東京高裁平成16(2004)年3月31日決定)[53]
- スマイリーキクチ中傷被害事件 1999年〜2010年
- 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(最高裁第一小法廷2011年4月21日判決)
名誉感情の侵害
民事上、名誉毀損として保護される「名誉」は外部的名誉である[5]。外部的名誉とは、ある人に対して社会が与えている評判や世評などの評価をいう[3][4]。
これに対して名誉感情とは本人が自己に対して有している価値意識や感情(いわゆるプライドや自尊心)をいうが、名誉感情も侵害されることはありうる[3][54]。
しかしプライドや自尊心を傷つける発言に損害賠償責任を直ちに認めることは言論表現が窮屈になるばかりでなく、プライドが高い人ほど保護される結果となるため、名誉感情の侵害が直ちに法的保護の問題になるとは考えられていない[55]。
東京地方裁判所平成8年12月24日判決は、名誉感情について「内心の問題であり、個人差が大きい上、他人のいかなる言動によって名誉感情が害されることになるか、害されるとしてどの程度かという点についても個人差が著しく、他人からは容易にうかがい知ることができない」として侵害の有無や程度の把握が困難であるとする[56]。
とはいえ名誉感情の侵害にも許容限度があり、それが人格権の侵害に該当するときは不法行為が成立するとされている[57]。
先の東京地方裁判所平成8年12月24日判決は「誰であっても名誉感情を害されることになるような、看過し難い、明確かつ程度の甚だしい侵害行為」にあたるときは不法行為になるとする[58]。
参考文献
- 大谷實『刑法各論講義 新版第4版』成文堂、2013年、ISBN 4792319811
- 佃克彦『名誉毀損の法律実務 第2版』弘文堂、2008年、ISBN 4335354274
- 松尾剛行『最新判例にみるインターネット上の名誉毀損の理論と実務(勁草法律実務シリーズ)』勁草書房、2016年、ISBN 4326403144
脚注
- ^ 日本新聞協会の同音の漢字による書きかえにより
- ^ 松尾剛行 2016, p. 2.
- ^ a b c d e f g h 大谷實 2013, p. 162.
- ^ a b c d 佃克彦 2008, p. 2.
- ^ a b 佃克彦 2008, p. 4.
- ^ 平野晋『アメリカ不法行為法』198頁以下
- ^ 最高裁判所昭和39年1月28日判決民集18巻1号136頁参照
- ^ 佃克彦 2008, p. 24.
- ^ 最高裁判所昭和39年1月28日判決民集18巻1号136頁参照
- ^ http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55168
- ^ 「立命館大学人文科学研究所紀要NO.84」 (2004年3月)
- ^ Douglas W. Vick and Linda Macpherson, An Opportunity Lost: The United Kingdom's Failed Reform of Defamation Law (1997), Federal Communications Law Journal Volume 49 Issue 3, p624
- ^ Article 19, The Cost of Reputation: Defamation Law and Practice in Russia] (2007) p37 38
- ^ 親日作家が敗訴 9600万ウォン賠償命令(朝鮮日報 2005年9月2日)
- ^ 佃克彦 2008, p. 27.
- ^ 静岡地方裁判所昭和56年7月17日判決判時1011号36頁参照
- ^ 佃克彦 2008, p. 28.
- ^ 東京地方裁判所昭和52年7月19日判決判時857号65頁、東京高等裁判所昭和54年3月14日判決判時918号21頁参照
- ^ 、東京高判昭和54年3月14日判例時報918号21頁など参照。
- ^ 東京高等裁判所昭和54年3月14日判決判時918号21頁参照
- ^ 佃克彦 2008, p. 30.
- ^ 佃克彦 2008, p. 31.
- ^ 松尾剛行 2016, p. 21.
- ^ a b c 佃克彦 2008, p. 5.
- ^ 佃克彦 2008, pp. 16–17.
- ^ 潮見佳男『不法行為法』72頁以下を参照。
- ^ 佃克彦 2008, p. 22.
- ^ 佃克彦 2008, p. 21.
- ^ 松井茂記「意見による名誉毀損と表現の自由」民商法雑誌113巻3号327頁
- ^ 佃克彦 2008, p. 33.
- ^ 佃克彦 2008, p. 35.
- ^ 東京地方裁判所平成7年2月5日判決判時616号83頁民集18巻1号136頁
- ^ 佃克彦 2008, p. 54.
- ^ 佃克彦 2008, p. 200.
- ^ 以下、不法行為責任に関する部分については、潮見佳男『不法行為法』70頁以下を参照。
- ^ 最高裁第一小法廷昭和41(1966)年6月23日判決[1]
- ^ 最判昭和41年6月23日民集20巻5号1118頁参照。
- ^ 最判昭和41年6月23日民集20巻5号1118頁
- ^ E.ドイチュ、 H.J.アーレンス 著, 浦川 道太郎訳『ドイツ不法行為法』181頁以下、特に183頁以下
- ^ a b 佃克彦 2008, p. 342.
- ^ 長谷部恭男『憲法(第3版)』164頁
- ^ 佃克彦 2008, p. 352.
- ^ 佃克彦 2008, p. 354.
- ^ 佃克彦 2008, p. 359.
- ^ 東京地方裁判所昭和52年12月19日判決判時1492号107頁
- ^ 佃克彦 2008, p. 374.
- ^ 佃克彦 2008, p. 376.
- ^ [2]
- ^ [3]
- ^ [4]長尾英彦「教師の教育内容批判と名誉毀損」中亰法學 27(2), 41-45, 1992-12-22
- ^ [5]
- ^ [6]上里美登利「名誉毀損に関する近時の裁判例」OIKE LIBRARY NO.26
- ^ [7]
- ^ 佃克彦 2008, p. 79.
- ^ 佃克彦 2008, pp. 79–80.
- ^ 東京地方裁判所平成8年12月24日判決判タ955号155頁
- ^ 佃克彦 2008, p. 80.
- ^ 東京地方裁判所平成8年12月24日判決判タ955号155頁