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山城 (戦艦)

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山城
初期の山城
山城
近代化改装後の山城
艦歴
発注
起工 1913年11月20日
進水 1915年11月3日
就役 1917年3月31日
その後 1944年10月25日に戦没
除籍 1945年8月31日
性能諸元(大正9年3月31日調)
排水量 29,326t(基準)[注釈 1]
30,577t(公試)[注釈 2]
水線長 202m
全長 205m
全幅 28.48m
吃水 8.66m(公試)
機関 ブラウン・カーチス式二軸併結タービン
宮原式24
40,000馬力
燃料 石炭4,000t、重油1,000t
最大速 23.8kt[注釈 3][注釈 4]
航続距離 14ktで8,000浬
兵員 1,193名
兵装 四一式36cm砲[注釈 5]連装6基12門
四一式15cm砲単装16基16門
高角砲8cm(40口径)単装4基4門
朱式6mm5機砲3門
四一式短8cm砲外膅12門
水中魚雷発射管6門
装甲 水線305mm
甲板64mm
主砲天蓋115mm
性能諸元(昭和13年3月31日調)
排水量 34,700t(基準)
38,900t(公試)
水線長 207m
全長 210m
全幅 33.08m
吃水 9.69m
機関 艦本式ギヤードタービン
艦本式ロ号4、艦本式ハ号2
70,000馬力
燃料 石炭133t、重油5,753t
最大速 24.75kt
航続距離 16ktで11,800浬
兵員 1,447名
兵装 主砲
四一式36cm砲[注釈 6]連装6基12門
副砲
四一式15cm砲単装14基14門
高角砲
八十九式12.7cm[注釈 7]連装4基8門
九十六式25mm機銃16基
留式7.7mm機銃3基
四十一式短8cm砲8門
装甲 水線305mm+50.8mm[注釈 8]
甲板101.6mm
主砲天蓋152mm(推定)[注釈 9]

山城(やましろ)は、大日本帝国海軍(日本海軍)戦艦

概要

山城(やましろ)は、日本海軍戦艦扶桑型戦艦の2番艦。大東亜戦争太平洋戦争)においては第一艦隊第二戦隊に編入され第二戦隊が解隊されるまでの間主力の戦艦部隊の一隻として作戦に従事した。しかし、昭和19年2月~3月にかけて次期作戦準備の為に連合艦隊の水上戦力の大改編が行われた際に、当分の間使用の見込みが無かった為に訓練錬成部隊として再編成されていた戦艦部隊第一艦隊も改めて解隊・再編成される事が決定され、優速の大和型と長門は第二艦隊第一戦隊として再編され、航空戦艦へと改装された伊勢型が第四航空戦隊に編入されたのに対して、扶桑型は速力が低く機動部隊編入には適さないと判断され山城は連合艦隊附属となり横須賀方面海軍諸学校練習艦として任務に就く事となった。その後1944年(昭和19年)9月10日に捷一号作戦警戒が発令されると共に山城は再編された第二艦隊第二戦隊へと編入され、西村中将の座乗する旗艦となり第一遊撃部隊第三夜戦部隊としてレイテ沖海戦投入されスリガオ海峡における米艦隊との夜間水上戦闘にて撃沈される事となった

艦名

山城の艦名は、畿内令制国「山城国 (やましろのくに)」から採られた[1]艦内神社石清水八幡宮からの分祀。

建造の背景

日露戦争開戦前夜の明治36年5月一等戦艦2隻、一等巡洋艦3隻、二等巡洋艦2隻、陸上設備の増設を明治36年度から明治46年度まで11カ年に渡り、継続費一億一千五百万を持って行うとする海軍拡張案(第三期拡張計画)が第18回帝国議会にて成立する事となった。その後、明治37年に日露戦争開戦となるに至り、戦費を補うために同年3月の臨時軍事費特別会計法が公布され臨時軍事費が成立。この中に艦艇の建造費用に充てる為に「艦艇補足費(目)」[注釈 10]が設けられる事となった。しかし、日露戦争終結後の明治39年には日露戦争当時は最新鋭艦であった三笠も急速な技術力の進歩の中に於いては既に旧式艦が否めない物となっていた。[注釈 11]この為、海軍力を維持し且つ増強を図るために新たに戦艦3隻、装甲巡洋艦4隻、二等巡洋艦3隻、大型駆逐艦6隻、駆逐艦24隻、潜水艇6隻を建造する必要があると海軍大臣齋藤實より提議される事となった。この提議は閣議決定される事となり、「補充艦艇費(款)」が新設され明治40年度から明治46年度までの7ヵ年継続費として総額七千六百余万円を割り当てる案が第23回帝国議会に提出され協賛を得、明治40年3月18日に公布される事となった。[注釈 12]また、同年4月4日には国防方針と国防所要兵力が決定されており、ここでは最新鋭戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻[注釈 13]を主力とする八八艦隊が海軍の所要兵力とされた。この為、八八艦隊を目標とした新海軍軍備充実計画が再び海軍大臣齋藤實より明治43年5月15日に提出される事となった。この計画案の要領は明治44年度から明治49年度に渡る継続費を三千九百五十万円追加し、新たに海軍充実の為に三億六千七百五十万円を用いて一等戦艦7隻、一等巡洋艦3隻、二等巡洋艦4隻、特設巡洋艦1隻、駆逐艦26隻、潜水艇10隻を建造する事に加えて造艦に必要な船渠増設その他必要な軍港要港整備を行うというものであった。しかし、この軍備充実案は成立せずその代わりに既定計画諸艦を新式にする追加経費を認めこれに適応する陸上設備を施行するとし、新充実計画は明治46年度以降更に年度割を改めて完成を期するものと決定され、これに伴い前述の第三次拡張計画、艦艇補足費、補充艦艇費は明治43年度に打ち切りとなり、明治44年度以降の艦艇製造関係費用を併合しこれに艦型、兵器改良を加えた総額一億五千八百万円の新予算が明治44年度から明治49年度までの継続費として明治44年3月23日の第27回帝国議会の協賛を得た上で公布される事となった。この新計画によって明治45年3月11日に第三号戦艦扶桑が起工される事となったが、山城については未だ建造に着工する事が決定されていなかった。しかし、大正元年12月21日に大正2年度の軍備補充既定年度割に六百万円を追加して戦艦3隻の建造に着手する事が決定され、予算案が第30回帝国議会に提出され議会の協賛を得る事となった。このため、山城、伊勢、日向の建造が一部開始される事となり、更に大正3年には既に前年度に起工され建造の一部に着手した[注釈 14]戦艦3隻の工事を続行させるために大正3年度軍艦製造費所要額として六百五十余万円の予算案が第33回帝国議会に提出され成立した事で山城[注釈 15]、伊勢、日向の3隻の戦艦の建造が本格的に開始される事となった。結果的に扶桑よりも起工が大幅に遅れる事となった山城では、扶桑の建造中より指摘されていた主砲配置による爆風問題などの諸問題の修正が試みられ、扶桑では接続されていなかった艦橋基部と艦橋甲板が第2砲塔に接続され、司令塔が扶桑では楕円状となっていたものを改め、円形に変更しただけでは無く、扶桑では第2砲塔上に設置していた3.7m測距儀を司令塔の前方に1基設ける形に変更し、司令塔の後方にも2.7m測距儀が新たに設けられることとなった。また、砲塔上に設置されている測距儀を扶桑の4.5mから6mへと改め、前檣トップの観測所を拡大し、新たに方位盤照準装置が設置されるなどの変更も行われた。この他に、扶桑では竣工時に撤去されたスターンウォークが補強用のアームを新たに設けた上で残されただけでなく、竣工直後に8cm(40口径)高角砲4基が前檣両側と第2煙突の両側に装備された。上記のような設計変更や改装後の外観や装備が扶桑と異なるためか、山城については扶桑型ではなく特に山城型と呼ばれる事もあった。

扶桑型基本設計の変遷

「扶桑」型戦艦の設計に当たって、日本海軍ではさまざまな案が検討されたが、結局、排水量30,600トン、速力22.5ノットとしてまとめられた。35種に上ったとされる扶桑型の設計案の内計画番号A47~A57、最終案であるA64が平賀文書に残っており、この中では扶桑型は概ね速力22~23kt、排水量30,000t前後、防御は水線主甲帯305mm、バーベット部228mmの艦として設計されていたが、その主砲についてはかなりの変遷が見られ、A47では主砲は14インチ[注釈 16]連装6基12門とはなっていたものの、その砲塔配置は中心線上の艦首側に2基、船尾側に2基とされ、残りの2基は艦中央部付近に梯形配置にするとされており、弩級戦艦と然程変わらない砲塔配置となっていた。この砲塔配置はA47~A49[注釈 17]に共通する砲塔配置であったがA50[注釈 18]より主砲塔を全て中心線上に配置する型式が採用され、以降の案では中心線上に主砲を配置する形式が採用される事となった。また、A47でも見られた主砲を12インチ砲とする案はA50以降にも見られ、A51では12インチ三連装2基・連装3基計12門[注釈 19]を搭載するとされており、A54では三連装砲を中心線上の艦首・船尾側にそれぞれ背負い式で2基、艦中央部にも三連装を1基搭載し合計15門の艦とする事が計画されていた。しかし、最終案であるA64では扶桑型の主砲は各国の弩級戦艦の多くが採用していた[注釈 20]12インチ砲では無く金剛型同様に14インチ砲が採用されており、これを連装砲として6基12門を搭載する超弩級戦艦として竣工する事となった。また、防御に関しても152mm~178mmとされた水線上部は203mmへと変更され、228mmとなっていたバーベット部も山城起工前の大正2年6月の時点では241mmに変更され、最終的には305mmへと強化されており水平防御に関してもHT鋼のみを使用する予定となっていた点が改められ中甲板にはNi鋼が使用される事となった。最終案であったA64から実際に扶桑型が竣工するまでの間にも幾つかの変更が加えられた結果扶桑型は初期の設計案と比べるとその防御は強化される事となり、主砲にも12インチ砲では無く14インチ砲が採用された事で火力も従来の弩級戦艦と比べると大幅に向上する事となった。

扶桑型の防御設計

艦艇の防御構造は大きく分けて直接防御[注釈 21]と間接防御[注釈 22]の二つより構成されており、この内直接防御は更に水平(甲板)、垂直(舷側)、水中(水線下)防御に分けられる。また、各部に必要となる甲鈑の性質はそれぞれ異なり、主として撃角[注釈 23]10°~20°で砲弾が着弾する事になる舷側を防御する為には、砲弾を甲鈑によって破砕若しくは反跳させるために硬度が求められ、着弾した砲弾が甲鈑を貫徹する事を防げるだけの強靭性も備えている事が必要となるのに対して、砲弾が水平に近い角度で着弾する甲板では甲鈑面で砲弾を滑らせる事が出来るため舷側ほどの厚さは必要ない代わりに、遠距離時に発生する撃角の大きい大落角砲弾では弾体の頭部ではなく、その側面の部分が甲鈑に着弾する事になり、硬度が高く変形し難い場合場合却って甲鈑が大きく割れる事となるため硬度は必要無い代わりに強靭性と弾性限が高い必要があるとされていた。扶桑型が起工された当時では砲戦距離は概ね8,000m程度とされており砲弾は舷側に対して撃角0°に近い撃角で着弾すると想定され、砲弾も被帽徹甲弾が登場してから然程年月がたっておらず依然として貫徹力は低く、[注釈 24]甲鈑を穿徹した場合でも弾体の殆どはその際に破砕されるためバイタルパート部まで砲弾が侵入して炸裂する可能性は低かったが、弾片若しくは弾体の一部によって艦内及びその周辺に被害を受ける可能性は高かったため、これに対応する為に垂直防御は舷側の第一甲鈑が穿徹された場合の事を考慮して、艦内部へ侵入した弾片に対しては中甲板の両端を傾斜させる事でバイタルパート部を防御するという防御方式が一般的となっており、山城では弾火薬庫部分の中甲板を傾斜させる事で弾片等に対する防御装甲としていた。また、水雷・航空機も未だ発展途上にあったため、扶桑型の防御は主として垂直防御に重きが置かれ舷側には浸炭処理を施し表面の硬度を高め、裏面は高い強靭を備えた表面硬化甲鈑であるVC(Vickers cemented armour plate)[注釈 25]が採用され、これを水線下部に101mm、水線主甲帯に305m[注釈 26]水線上部の中甲板側面に203mm、更にその上の上甲板側面には154mmの割合で装備し重装甲とされた一方で、水平防御については前述のように砲戦距離が短く徹甲弾も未だ貫徹力の低いものしか存在しなかったため甲鈑は採用されず、耐弾性能は持ち合わせておらず主に弾片防御や船体構造材に用いられていたHT鋼、Ni鋼が採用され、これを上甲板にHT35mm、中甲板にNi鋼32mmを装備する事で水平防御が構成されていたものの、これは三年式帽徹甲弾を含む新式の徹甲弾に対する防御として全く不十分であった。また、水中防御については石炭庫の石炭によって弾片による被害と浸水を防ぐという建造当時としては一般的な防御方法が採用されており、これはジェットランド海戦の際にもその有効性を示した防御方式であるため扶桑の水中防御は優秀なものとなっていた。しかし、扶桑型の起工後の大正5年5月31日に勃発したジェットランド海戦では砲戦距離は想定を大幅に上回る15,000m以上となり、撃角が増し新式の徹甲弾によって貫徹力も増していた砲弾は垂直・水平防御を貫徹し艦内で炸裂する事となり、新鋭の巡洋戦艦クイーン・メリーを含む数隻の艦が沈没する事となったため、この海戦によって水平防御の重要性も認識される事となったが、ジェットランド海戦前に起工された扶桑型では当然の事ながら海戦で得られた戦訓は反映されていなかったため、その水平防御は不十分なものとなっていた。尤もNVNC甲鈑[注釈 27]が採用される前に起工された長門型でも水平防御は十分と言えるものでは無く、水平防御が不十分であったのは日本に限った話では無い事から扶桑型の水平防御が他国の戦艦と比べても特別劣っていた訳では無い点には注意を要する。しかし、当時の米戦艦の砲塔では防炎対策が徹底されてたのに比して、日本戦艦では僅かに長門型の火薬庫の供給通路に撒水装置が設置されていたのみであり、後述のように舷側甲鈑も厚い米戦艦と比べた場合扶桑型の防御は見劣りする物となっていた。また、扶桑型建造後の大正9年の各国海軍大口径砲弾道性能比較では米国のニューメキシコ級より採用された14インチ50口径砲の貫徹力は距離25,000m 舷側165mm 距離20,000m 210.8mm 距離15,000m 335mmとなっており、扶桑と同時代に建造されたニューヨーク級、ペンシルヴァニア級、ネヴァダ級に搭載された14インチ45口径砲については日本側と貫徹力に大差はないと考えられるが、ニューヨーク級の舷側水線甲鈑最厚部が扶桑型と同じく305mmとなっていたのに対してペンシルヴァニア級、ネヴァダ級では甲鈑が356mmとなり扶桑型を上回る防御を備えており、当時の米戦艦の砲戦能力は大正6年春の戦闘射撃成績ではニューヨークが距離19,505m-17,900mで発射間隔50秒、散布界828m ペンシルヴァニアが距離16,5400m-13,000mで発射間隔1分02秒、散布界1,188m ネヴァダが距離16,900m-14,000mで発射間隔1分9秒、散布界752mと実用面で問題があるように見受けられる成績となっていたものの、命中率自体はそれぞれ12.3%、3.8%、7.8%となっており[注釈 28]当時の日本の14インチ砲が距離25,000m 162mm距離20,000m 193mm 距離15,000m 302mmの貫徹力と試算されていた事を合わせて考えると、米戦艦と砲撃戦となった場合米戦艦よりも甲鈑の薄い扶桑型は距離20,000mから水線上部の舷側を貫徹され始め、距離15,000mからは舷側最厚部が貫徹される事になるのに対して、扶桑型では同距離でも米戦艦の舷側水線部を貫徹する事が出来ないため劣勢は免れず、全長に対するバイタルパート部の百分比が長門の63よりも大きい65であった扶桑型は竣工時点ではニューヨーク級以外との砲戦に於いては不利であった。また、扶桑型に対しては後述の改装によって水平防御、水中防御を中心に強化が施される事となったが、九一式徹甲弾採用後[注釈 29]の昭和11年11月に行われた「対米作戦用兵に関する研究」の中では、改装後のコロラド級、ペンシルヴァニア級、カリフォルニア級を引き合いに出し、米戦艦は散布界が依然として減少しておらず射撃指揮所の高さから米戦艦が25,000mから観測可能となるのに対して日本側は30,000mから観測可能の為、射程に於いて4,000m~5,000m優越しているとされる一方で、最大射程距離に於いては日米双方共に水平甲鈑を貫徹される事となり、16インチ砲の場合は距離25,000m以下より米戦艦の舷側甲鈑を貫徹可能であり、14インチ砲では19,000以下の場合に舷側甲鈑を貫徹可能であるとされ、水平甲鈑に関しては同距離では貫徹不可能とされていたのに対して、日本側は長門型が距離19,000mから舷側甲鈑を貫徹される事になり、扶桑型の場合では25,000mから舷側を貫徹される[注釈 30]としていた。この防御力の薄弱さを補うために駆逐艦によって煙幕を展張し、敵弾を極力斜めに受ける事で跳弾させ貫徹を防ぎながら、決戦距離[注釈 31]以下に急速接近するといった作戦が研究されている事から、改装後も扶桑型の防御は決して十分なものでは無かったと言える。尚、改装後の扶桑型の戦闘安全距離[注釈 32]は3年帽式5号徹甲弾を使用した14インチ砲に対しては距離20,000m-25,000mとされているため、砲弾が九一式徹甲弾の場合では22,500m-25,000mが戦闘安全距離と考えられる。尤も、仮に改装後の扶桑型の主甲帯が305mm+50.8mmであった場合は九一式徹甲弾に対しても戦闘安全距離は20,000m-25,000mになると思われるため、伊勢型と比べても遜色のない垂直防御を有していた事となる。[注釈 33]

「山城」の誕生と扶桑型の問題点

扶桑型戦艦「山城」は、完成時世界最大の戦艦で、また初めて排水量が30,000トンを越えた戦艦でもあった。しかし、先に竣工し公試を行っていた扶桑では、大角度変針時の速力低下が大きい事や、建造中から懸念されていたように、主砲発砲時に爆風が全艦を覆い、艦橋等の暴露部分に影響が出るといった問題がある事が発覚していた。[2] なお、大正4年に行われた扶桑の砲熕公試発射時に報告された扶桑の14インチ砲発射時の振動と爆風の影響とは、振動に関しては檣楼指揮所では一番砲塔を左船尾側に45度旋回させ仰角20度(最大)で射撃を行った場合瞬時の観測を保持する事に困難を感じ、全砲塔を正横後ろに向け射撃を行った場合には瞬時観測が不可能。第二砲塔の射撃時には左船尾45度仰角20度で射撃を行った際の振動は第一砲塔射撃時よりも大きく、左船尾55度仰角5度で射撃を行った際の振動が大きい為一時観測が困難となったと報告がされている。また、14インチ砲12門、6インチ砲8門一斉射の際には射撃舷に倒されようとする程の振動に襲われたが、観測には支障が無いと報告されており、扶桑の檣楼は金剛型と比べると射撃時の激動は小さく、高速航行時の振動も極めて少ないため高所指揮所としては適等な物だとされている。爆風の影響については前部射撃指揮塔では第三砲塔を右艦首55度仰角5度で射撃を行った際の爆風が尤も強いとされ、第一砲塔を左船尾側に45度旋回させ仰角20度で射撃を行った際の爆風も大きく、手にしたノートブックと帽子が吹き飛ぶ程であったため瞬時観測が出来なかったとされており、第二砲塔を左船尾45度仰角20度or左船尾55度仰角5度で射撃を行った場合は第一砲塔射撃時程ではないものの爆風の影響で瞬時観測は出来なかったと報告がされている。また、14インチ砲12門、6インチ砲8門一斉射の際には激動のため2,3秒間観測鏡に接眼する事が出来なかったとされており、上記の様な射撃を行う場合にはブラストスクリーンを設置するか、射撃指揮塔の狙孔に巻き上げ式の専用爆風除けを設置する事が必要だと述べられている。この振動・爆風問題の他に扶桑型は大角度変針時の速力低下が大きい事が欠陥とされているが、一般的に船舶が旋回を行う場合は斜行する事となるため船体抵抗力が大きくなり、ここに旋回遠心力や舵抵抗も加わる事で推進効率は落ちる事となり、旋回速力は直進速力と比べると低下する事となる。この際に旋回時の速力低下は旋回径が小さくなるほど大きくなるため、扶桑型は実際の旋回径が小さい艦であったと推察される。旋回径が小さい事は艦としての欠陥とは到底呼べず、公試の際にも扶桑型の操縦性能に関して問題があるとされる記述も見受けられない事から、実際には特に問題視されていなかったと思われる。なお、振動・爆風の問題については前述のように振動については寧ろ金剛型よりも小さく、爆風の影響に関しては山城竣工後の大正7年8月6日に行われた戦闘射撃訓練の際に山城が距離18,800m~18,100mの距離からの射撃で散布界平均285m、斉射間隔28秒。計69発の使用弾数中第一有効弾7、第二有効弾5、第三有効弾11と優秀な成績を記録しており、爆風の影響に関しても報告されておらず、実用上問題のある艦であったとはされていない事から山城では上記の問題は発生していなかったものと考えられる。また、扶桑に関しても大正15年に行われた戦艦6隻[注釈 34]が参加した戦闘射撃訓練[3]では扶桑が最優秀成績を収めている事から、山城同様に扶桑についても実用上の問題は然程無かったものと思われる。射撃時の爆風、砲煙の問題については戦艦が射撃を行った場合砲煙、爆風の影響で敵艦の視認、照準、発射、号令が一時中断する事は、当時の最新鋭艦大和型でも同様であった事に加えて、上記の戦闘射撃成績や昭和16~18年に行われた甲種戦闘射撃でも12門艦が8門艦と比べても遜色のない成績を収めている事から、12門艦の場合であっても爆風、砲煙の影響は問題が無い範囲で収まっていた事を窺い知ることが出来る。同時期に建造された金剛型巡洋戦艦と同様に扶桑型では、積極的に新たな技術や装備の導入が行われていただけでなく、より旧式な金剛型程では無かったものの他国の主力艦に対抗する事が出来るように、時代に合わせて繰り返し改装が行われていた。また、山城の大規模な近代化改装としては、水中防御の強化・改善、機関の換装、上部構造の近代化、兵装の改善などが盛り込まれた1930年(昭和5年)~1934年(昭和9年)の長期に渡って行われた大改装が有名であるが、この際に、扶桑が山城と同じ1930年(昭和5年)に改装が開始されたにも関わらず、山城より一足早く1933年(昭和8年)に艦隊に復帰したため、山城は扶桑と比べると、艦隊で行動した期間よりもドックで改装を行っていた期間のほうが長いという、“艦隊にいる方が珍しい艦”となってしまった[注釈 35]。なお、山城が扶桑よりも1年遅れて艦隊に復帰した背景には、折からの満州出兵や上海事変などによって日米関係が悪化していたという事もあり、山城については有事の際に即工事を打ち切って出撃可能とするために、工程を区切って工事が行われたため、工期が長くなったという事情が存在する。「山城」進水時の式典段階では「扶桑」「山城」の同型姉妹艦と紹介された「伊勢」「日向」だが[4]、実際には砲塔配置を変更するなど設計変更がなされて伊勢型戦艦となった。

艦上機発艦実験

1922年(大正11年)3月29日、山城第2砲塔上に滑走台を設け陸上機の発艦実験を行った。航空機はグロースター・スパローホーク戦闘機で3回の実験全てが成功した。山城では実験後に滑走台は撤去されたがこの成功以降、5500トン型軽巡洋艦に滑走台が設けられた。しかしその後の用兵側の評判は良くなくカタパルトが実用化されると滑走台形式は廃れることとなった。

大改装

山城と加賀

就役から大改装までの間、航空艤装の搭載などの小規模な改造は度々行われてきたが、1930年(昭和5年)12月から1935年(昭和10年)3月にかけて大改装が行われる事となった。この近代化改装は主砲の射程と威力を増進させ、長門型戦艦の主砲と合一させる事を目的に実施されたもので、大正大正13年4月より開始された巡洋戦艦榛名の改装を皮切りに行われたがその改装の要旨は以下のようになっていた。
改装の要旨[注釈 36]
1,主砲の仰角を30度以上とする。
2,初速の増加と仰角の増大によって射程を30,000mに延長し、飛行秒数を41cm砲とほぼ同等とする。
3,水圧機力量を増加させ連続斉発を可能とする。
4,確実に15,000mまで射撃出来るように副砲の仰角を増大させる。
上記を元に近代化改装はワシントン条約下で許容された近代化改装を行った第一改装と、ワシントン条約制限外の改装を行った第二次改装の2回に分けて行われる事となったが山城については第一次・第二次改装を同時に実施する事となった。
第一次改装
1,主砲仰角を引き上げ遠距離砲戦を可能とすると共に檣楼を近代化し砲戦指揮装置を檣楼に設ける。
2,砲戦距離の増大に伴い水平防御を強化し大落角砲弾に耐えるようにし、爆弾防御を増加。
3,バルジを設け水中防御を強化。
4,罐を換装or改造して重油専焼罐とし、石炭庫を重油タンクへと代え水防区画を利用して重油タンクを増設し航続距離を増大させた。
5,水中発射管を6門から2門に削減。
第二次改装
1,大型大力量罐を採用し可能な限り一缶一区画とする他、主機械の換装を行い馬力を増大。
2,船体船尾を4m延長し艦の抵抗を減少させ速力増大を容易とした。
3,水中発射管を撤去。
4,主砲仰角増大。
5,防御力の増大。
6,防空兵装の増加・改善。
この近代化改装によって山城の艦橋構造物は大幅に巨大、複雑化し新造時の山城と比べると艦形も大きく変わる事となった。 また、水平・水中防御を強化する為に弾火薬庫、機関室上部に51mm~102mmのNVNC甲鈑が追加され、水中防御の強化としてはバルジが装着されただけでなく、64mm~76mmの縦隔壁が新たに設けられた。また延長した艦尾に従来第五砲塔上に搭載されていた射出装置を移設し、航空機運搬用のレールを設けて水上偵察機及び観測機を3機搭載した。この近代化改装の際に扶桑では第3砲塔上部にカタパルトが装備され、砲塔の繋止位置を従来と逆方向にして砲口を艦首に向けることとなったため、艦橋基部が細くなり不安定な形状となったが、山城では第3砲塔の繋止位置を従来のままとし、延長した船尾に航空兵装を設けたため、扶桑のような不安定な形状とはなっておらず、この点が大改装後の扶桑と山城を見分ける一つのポイントとなった。

幻の扶桑型改造案

実現する事無く終わった扶桑型の改造案は大きく分けて二つ存在していた事が確認されており、一つはワシントン条約中の大正11年に平賀譲より提案された扶桑級改造案。残る一つは昭和17年5月に行われた珊瑚海海戦にて空母祥鳳を失い、更に6月のミッドウェー海戦にて空母4隻を失った連合艦隊が既存巡洋艦、戦艦の航空母艦への改装を研究・計画した際に考え出された航空母艦or航空戦艦への改造案であった。

今日平賀文書に残る扶桑級改造案はA案、B案、最終案と見られる案の三つに分かれている事が確認できる[5]
A案
1、水平防御の強化として新たに開発されたNVNC甲鈑を従来の中甲板に25mm~101mm追加。
2、水雷防御として隔壁を新設しバルジを設け、艦幅をそれに伴い0,9m増加させる。
3、罐の一部を油専焼罐として罐室一つを廃止する。
4、電線通路を中甲板下に移す。
5、砲塔天蓋を152mmに改造する。
A案は上記のように水平・水中防御の強化に主眼が置かれており、この改装によって重量は3,500t増し、速力は0.5kt低下し22ktとなる代わりに、バルジを追加する事で浮力を確保し喫水の沈下は防げるとされていた。また、この改装に掛かる費用は砲塔天蓋の改造費が64万円、船体・甲鉄費用は460万円と試算されており[注釈 37]砲塔天蓋の防御を完全なものとする為には下部甲鈑の増加も必要である為、更に重量が330t増加し[注釈 38]費用も43万円程増えるとされていた。
B案
1、14インチ砲を取り外し16インチ砲連装2基、3連装2基の計10門へと換装する。[注釈 39]
2、専燃(油)罐室を第4砲塔の位置に新設し、10,000馬力の罐を2個設置し混燃罐室2つを廃止する。
3、前部煙突を撤去し後部煙突を移設する。
B案はA案とは違い主砲の換装と機関の改修が中心とされており、この改装で増加する重量は700tとなり費用は260万とされていた。尚、前述のA案の内砲塔天蓋の改造を除いた上で、A案・B案の両方の改造を実施した場合は増加重量4,500tとなり費用は700万円となると試算されており、この場合でも新たに浮防材を設ける事で喫水の増減は無いままに改造が出来るとしていた。また、米14インチ砲艦が16インチ砲艦へと改造する事が困難であるのに対して扶桑型は僅かな重量増加で16インチ砲10門の艦へと変更する事が出来、砲塔外面を多少改造する必要はあるものの然程大きな問題は無いともしており、扶桑型を16インチ8門の艦にするのならば更に容易に改造が可能だと主張されている。しかし、その一方で既成艦に対しては一切何らの制限を為さざるを利とするとも述べられており、次期条約で既成艦についての制限が無い事を前提とした改造案であった事が窺える。以上がA案B案であるが、平賀文書には極秘と平賀の印が押されたもう一つの改造案が残っており、その案では
1、下甲板(中央部機械室、罐室、弾火薬庫上)に101mmの甲鈑(NVNC甲鈑45kg、HT鋼27kg)を追加。
2、後部甲板上のフラットに110mm、スロープに152mmの甲鈑を追加。
3、水雷防御隔壁を設ける。(機械室・罐室上部側に121mm・下部75mm、弾火薬庫側に103mm)
4、砲塔甲鉄を305mmに改装する。[注釈 40]
5、約1.2mの浮防材を設ける。
6、中央部・後部の水中発射管を水上に移設。
7、中央部舷側甲鈑を傾斜式とする[注釈 41]
最後の案ではA案同様に水平・水中防御に加えて垂直防御の強化についても考慮されており、この改造によって増加する重量は4,000tと成り改造費用は640万円と試算されていたが、この案でも喫水の増加は無い物とされていた。また、扶桑型改造案の中には改造後の扶桑型の断面図も書かれており、そこでは従来の石炭庫を改造し空所と防御隔壁を新たに設けるという加賀型に準ずる水雷防御構造へと変更する予定であった事が示されている。[注釈 42]

扶桑型の航空母艦への改造が検討されたのは前述の通り損失した空母の穴を埋めるために全ての巡洋艦・戦艦についての研究が行われた際の計画であり、各艦の改造に関しては下記のような研究結果が出されていた。
巡洋艦
青葉型・川内型 最大幅過少の為空母への改装は不適当。
最上型・利根型 飛行甲板195m幅23.5m 搭載機数30機、改装予測期間9カ月以内。
妙高型・鳥海型 飛行甲板200m幅23.5m 搭載機数30機 改装予測期間9カ月以内。
巡洋戦艦
金剛型     飛行甲板220m幅34m  搭載機数54機 改装予測期間1・5年以内
戦艦
日向型・山城型 飛行甲板210m幅34m  搭載機数54機 改装予想機関1・5年以内
長門型     金剛型に同じ
この調査研究の結果、金剛型を航空母艦へと改装する事は工事量が莫大なものとなり工期も長期に及ぶ事になるため、改装の意義が無いと判断されたが、伊勢型については砲塔を一部撤去して航空戦艦としての工事が可能と確認されたため航空戦艦への改装の実施が決定される事となった。伊勢型の改装実施が決定された背景には1、新造艦の工事中止によって手空きとなった大口径関係造修部門の応援が見込まれた。2、日向が射撃訓練中に第五砲塔の爆発事故によって既に第五砲塔を撤去した状態となっていた。3、新型の艦載機一三式艦爆(彗星)を試作中であった事。上記3点がその背景としてあったためとされる。また、軍令部の要望としては主砲は6門残せばよく、副砲を撤去し高角砲と機銃による対空兵装を強化し、なるべく多数の航空機を搭載する事であったとされる。伊勢型の具体的な航空戦艦への改装は第五、六砲塔を撤去しその跡に航空艤装を設ける事とし、後檣付近から後部の上甲板にかけて高さ6m、幅前部29m・後部13m、長さ70mの飛行機射出甲板を設け甲板上の両舷に射出機各一基を装備し、後檣から後方の上甲板と射出甲板の間に全閉鎖型の格納庫を設けると計画された。この他に、航空機用の軽質油タンクは第六砲塔跡に設けその容量は111m3、76tとされ、第五砲塔火薬庫跡に全機3回出撃分の爆弾庫を設け爆弾は50番44個、25番22個を搭載する事となった。当初搭載機は一三式艦爆を射出可能なように補強を施した上で搭載するとされていたが、後に常用機は一四試水爆撃機に改められこれを射出甲板上に11機、射出機上に各1機、格納庫に9機の合計22機を搭載し、射出間隔は各射出機につき30秒に1機とし、交互に15秒ごとに1機を射出する事で5分程度で全機の射出を可能とする計算となっていた。また、副砲を撤去し12.7cm連装高角砲4基を増設しただけでなく従来の4基にもそれぞれ高射装置を装備した上で一群4門、4群の高角砲対空兵装とした。これに加えて、機銃の増設も行っており従来の25mm連装10基を三連装に改め更に9基の増設が行われる事となった。 扶桑、山城についても伊勢型の改装完了後に扶桑は呉、山城は横須賀で改造する事を訓令済みとなっていたが、昭和18年6月に改造工事着手は取り止められる事となり、扶桑型の航空戦艦への改装は実現せずに終わった。扶桑型の航空戦艦への改造は伊勢型よりも改造工事が複雑であり手間がかかる物であったとされており、当初は6カ月で完成させる予定であったものが昭和19年春頃には4ヶ月で完成させるという線表が組まれていたとされる。

艦歴

扶桑型戦艦2番艦「山城」は1913年(大正2年)11月20日、横須賀海軍工廠第四號戦艦として起工された[6]1915年(大正4年)11月3日、伏見宮博恭王が臨席して進水し「山城」と命名される[7][8]1917年(大正6年)3月31日竣工した[9]

1927年(昭和2年)7月23日、昭和天皇が「連語艦隊の戦闘射撃及爆撃実験御覧」するに当り「山城」が御召艦に指定された(護衛は第四駆逐隊、供奉艦は扶桑)[10]。28日、天皇が「山城」に乗艦する[11]。「山城」には事前に徹底的な清掃と修理、天皇滞在の為の改造が施されていた[12]。また艦上水泳のためのプールも六・七番砲塔左舷側に設けられた[13]。当時の乗組員は、佐官11、尉官35、准士官16、下士官257、兵1011、傭人4、計1334名であった[14]。以後、天皇の御召艦として、佐伯湾、奄美大島、小笠原諸島を航海する[15]。豊後水道では空母「赤城」「鳳翔」の艦載機訓練や戦艦「長門」「陸奥」の夜間射撃訓練を天皇が天覧した[16]。8月10日、横須賀に入港して天皇御退艦[17]

同年10月30日、横浜沖で行われた大演習観艦式(御召艦「陸奥」、先導艦「鬼怒」、供奉艦「阿武隈」「由良」「球磨」「長良」)に参加。その後1928年(昭和3年)12月から1929年(昭和4年)11月まで、連合艦隊旗艦となる。1936年(昭和11年)2月4日、「山城」から「長門」に連合艦隊旗艦が変更されたように、短時間ながら連合艦隊旗艦となった事例がある[18]

1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖で行われた御大礼特別観艦式(御召艦「榛名」、先導艦「金剛」、供奉艦「比叡」「磐手」)に参加[19]。1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖で行われた特別大演習観艦式(御召艦「霧島」、先導艦「足柄」、供奉艦「妙高」「那智」「羽黒」)に参加[20]。1934年(昭和9年)11月15月からの1年間、南雲忠一大佐(のちの南雲機動部隊司令長官)が山城艦長を勤めた。翌年5月の第二水雷戦隊との夜間演習では軽巡洋艦「神通」(二水戦旗艦)と正面衝突しかけたが、南雲の冷静な判断で回避に成功、大事故を免れている。1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖で行われた昭和11年特別大演習観艦式(御召艦「比叡」、先導艦「鳥海」、供奉艦「愛宕」「足柄」)に参加。1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式(御召艦「比叡」、先導艦「高雄」、供奉艦「加古」「古鷹」)に参加。

太平洋戦争における戦績

太平洋戦争初期~中期は、扶桑型戦艦のほか日本海軍の戦艦のほとんどは内地にあった。「山城」と「扶桑」は1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦に戦艦「大和」以下主力部隊として出撃するが、戦闘には参加しなかった。そのミッドウェーで失った空母戦力穴埋めの為に全ての戦艦を航空母艦へ改造する事が検討された際に扶桑型は伊勢型と共にと共に最終候補となっていたが、結局これは伊勢型戦艦2隻の改造となり実現しなかった。その後も内地で待機の任務が続き、砲術学校の練習艦として使用されていた。「艦内は隅々まで手入れが行き届き光り輝いていた」という見学した横須賀海軍砲術学校生徒の回想があるが、その一方で『鬼の山城・蛇の長門』と畏れられる艦でもあった[21]1943年10月には航空戦艦「伊勢」と共に『甲支隊T3号輸送部隊』として輸送任務を行った。帰路は空母「隼鷹」と行動を共にした。1944年(昭和19年)になると、「扶桑」はトラック泊地に進出して戦艦「大和」や「武蔵」と共に待機し、その後渾作戦等に従事したが、「山城」は内地待機が続いた。6月、日本海軍はマリアナ沖海戦で大敗、サイパン島陥落により絶対国防圏は崩れた。日本海軍は6月15日~29日にかけて東号作戦を発動、マリアナ諸島の米軍に対し、日本本土の航空兵力を多数投入していた[22]。この状況下、神重徳連合艦隊参謀は戦艦「山城」(もしくは扶桑)と第五艦隊(巡洋艦那智足柄多磨木曾阿武隈等)によるサイパン島突入作戦を発案、海軍陸戦隊をサイパンへ強行輸送しつつ、艦隊は浮き砲台となって陸上砲撃をおこなう計画を提案する。神は山城艦長となって自ら陣頭に立つことを希望した。第五艦隊は北方より内地に戻り作戦準備を行うも、作戦は中止された[23]

捷一号作戦

フィリピン沖海戦での山城。米側資料の為、実際と異なる箇所がある。

太平洋方面戦勢を挽回するために再建途上の第一機動艦隊を投入して行われたあ号作戦におけるマリアナ沖での決戦に敗北した日本軍の絶対国防圏は縮小し、最後の国防要域として残されたのは本土、南洋諸島、台湾、フィリピン島のみとなった。大本営は、8月以降に想定される連合軍の次期進攻に抗するために、7月24日の「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」にてこの残された要域を決戦方面とし地上決戦の方面は北部フィリピン島付近とすることを決定した。そして、連合艦隊に対しては敵が来寇した場合には全兵力を挙げて基地航空機の威力圏内にて迎撃・撃滅し要域を確保するとの決戦方針が示され、更に7月26日にはこの決戦は「捷号作戦」と呼称する事が決定された。また、同作戦の区分は四つに分けられ、その内フィリピン方面は捷一号と区分された。

昭和19年2月25日に第二戦隊が解隊された後、連合艦隊付属となり横須賀方面諸学校練習艦として桂島方面にあった「山城」は、同年9月10日に第二戦隊が再編され西村祥治中将が第二戦隊司令官に着任した事で第二戦隊旗艦となった。同月23日、「山城」は桂山を出撃し第十七駆逐隊(浦風雪風磯風)に護衛され日本本土を離れ、29日ブルネイを経由した後10月4日にリンガ泊へ入泊し第二艦隊に合流した。 しかし、山城が第二艦隊に合流して間もない10月10日に沖縄を17隻の空母を中心とした米第38任務部隊が急襲したことを契機に、台湾沖航空戦が勃発することとなった。この10月12日~15日にかけて行われた台湾沖航空戦によって空母撃沈11隻、撃破8隻の戦果を挙げたと判断した連合艦隊司令部は、16日1030に高雄の95度430浬の地点に空母7隻、戦艦7隻、巡洋艦10数隻の敵空母部隊を発見したことを受け、敵残存勢力に対して決戦を挑み戦果を拡大するためにリンガ泊の第一遊撃部隊(第二艦隊)に対して出撃準備を下令した。しかし、第一遊撃部隊がブルネイへと向け出撃準備を進める中で、10月17日0650スルアン島の海軍見張所より突如米艦隊の出現の報告がもたらされ、同見張所は0800に敵が上陸を開始したという電報を最後に連絡を絶った。この緊急報告を受けた連合艦隊司令部は敵がフィリピン島に上陸する可能性があると判断し、同日0835捷一号作戦警戒を発令し、既に出撃準備を開始していた第一遊撃部隊に対してもブルネイへの進出を改めて下令した。そして一日後の18日には捷一号作戦が発令され、第一遊撃部隊は第二部隊を先頭にし第一戦隊、第二戦隊を殿にリンガ泊地を後にし20日にブルネイへと入泊した。第一遊撃部隊がブルネイへ入泊するまでの2日の間に第一遊撃部隊の突入計画は概ね決定されており、連合艦隊司令部と同じく第二艦隊司令部は全艦隊を一方向より進出するよりも南北両方面から分進させる方が有利であると判断していた為、劣速の第二戦隊は別働隊としてスリガオ海峡からレイテ湾へと突入させる予定となっていた。この第一遊撃部隊のレイテ湾突入計画は21日1700より第二艦隊旗艦愛宕にて行われた作戦打ち合わせにおいて初めて知らされ、第二戦隊のスリガオ海峡からの突入に対して意外の感を持った者もいたとされるが、これに対して異論を唱えるものは誰もいなかった。栗田長官が21日に発令した機密1YB命令作戦第四号では第二艦隊の任務は「前略 基地航空部隊、機動部隊本隊ト協同、10月25日黎明時「タクロバン」方面ニ突入、先ツ所在海上兵力ヲ撃滅次テ敵攻略部隊ヲ殲滅ス」とされ、その作戦要領は22日0800にブルネイを出撃した後、24日の日没後サンベルナルジノ海峡を突破しサマール島東方面海面に於いて夜戦によって敵水上部隊を撃滅後、10月25日黎明「タクロバン」方面に突入し敵船団及び上陸軍を覆滅するとされており、第三部隊に関しては主要任務が一、敵船団及上陸軍撃滅 二、敵水上部隊牽制攻撃とされており、作戦要領はブルネイ出撃後分離し25日黎明時主力に策応し「スリガオ」海峡より「タクロバン」方面へ突入し敵船団及び上陸軍を撃滅するとされていた。また、栗田長官は訓示の中で「いやしくも敵主力部隊撃滅の好機あれば、乾坤一擲の決戦を断行する所信である。」と述べており、第一部隊、第二部隊の任務は水上部隊、主力部隊の撃滅を第一とし、輸送船団、陸上部隊の撃滅はその後の二次的な任務とされていた。 「山城」は突入計画に基づき、軍隊区分された第一遊撃部隊第三部隊/第三夜戦部隊(通称西村艦隊)の旗艦となった[24]。この西村艦隊は第二戦隊(扶桑型戦艦山城、扶桑)、重巡洋艦「最上」、第四駆逐隊(満潮朝雲山雲)、第二十七駆逐隊(時雨)、戦艦2隻・重巡洋艦1隻・駆逐艦4隻の計7隻で編成されていた[25]。統一訓練すら行ったことのない寄せ集め艦隊であり、最初から生還の見込みはなかったとされる[26]。 第三部隊が編成された翌日の22日には西村司令官より文章にて作戦要領が指示され、第三部隊は22日1500「ブルネイ」を出撃、25日の日の出前に主力に策応し「スリガオ」海峡より「タクロバン」泊地へと突入し日の出前後に渡り敵船団及び上陸軍を撃滅するとされた。また、同司令官は栗田長官他関係各部にあて、第三艦隊の行動予定を『X-3日(22日)一五三〇ブルネイ湾出撃 X-2日(23日)一一〇〇「パラバック」海峡通過針路五十度ニテ X-1日〇六三〇北緯一〇度三〇分、東緯一二一度二五分ヨリ針路一四〇度爾後「ミンダナオ」海北岸沿ヒニ進撃 〇一〇〇「ピニト」岬南方ニ達シ針路三五〇度ニテ「レイテ」湾ニ達ス』と電報しており、出撃前に各艦艦長を旗艦「山城」に集合させ簡単な作戦打ち合わせを行った後、予定通り1530ブルネイを出撃した。しかし、時雨艦長(西野繁中佐)によるとこの作戦打ち合わせの際には西村司令官、山城艦長(篠田勝清少将)両名は出席していなかったとされ、打ち合わせではレイテ湾の北側の浅瀬に警戒するようにとの話が出され、打ち合わせ後には酒が振舞われたとされる。尚時雨艦長は21日にブルネイへ入泊した直後西村司令官に呼び出され作戦説明を受けたとしており、その中で別働隊としてスリガオ海峡から突入する予定であるとの事や、今度の戦は敵の輸送部隊を撃滅するのが主目的であるため、攻撃してきたヤツはやっつけてもいいが、深追いする必要はないとの説明を受けたと証言している。この為、21日の時点である程度の作戦説明は既に西村司令官から各艦長に対して行われていた可能性も考えられる。 25日に「タクロバン」方面へ突入する事を基点にレイテ湾へと至る四つの航路の内南北からの挟撃が可能で、25日黎明に「タクロバン」より突入可能であったのは、潜水艦に遭遇する危険性は高いが敵航空機の索敵圏外であった第二航路(約2,200km)と敵航空機の索敵圏内であるものの最も距離の短い第四航路(約1,509km)の二つであったため、劣速で航続力の少ない第三部隊はブルネイ泊地→バラバック海峡スルー海ミンダナオ海スリガオ海峡レイテ湾という第四航路を指定され、25日黎明の「タクロバン」方面突入を目指した[27]。-->

10月22日午後3時30分、栗田艦隊出撃から七時間半を置いて西村艦隊はリンガ泊地から出撃し、23日10時20分にバラバック海峡を通過してスル海に入る[28]。10月24日午前6時50分、「最上」水上偵察機がレイテ湾に到達、西村艦隊と各方面に戦艦4隻・巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、魚雷艇14隻、輸送船80隻を含む米艦隊の存在を伝えた[29]。午前9時以降、スールー海ネグロス島南西海域で米軍機動部隊(第3艦隊第4群デビソン隊)艦載機27機(ロケット弾装備F6Fヘルキャット、SBC2ヘルダイバー急降下爆撃機)の攻撃を受ける[30]。米軍機動部隊の攻撃は栗田艦隊に集中しており、西村艦隊は10時以降空襲を受けず、予定通りスリガオ海峡を目指して進撃した。「扶桑」「最上」「時雨」が被弾したが、各艦とも損害は軽微であった[31]。ただし「山城」生存者の江崎寿人(山城主計長)によれば、レーダー機器に被弾してレーダーが使用不可能になった他、至近弾により右舷中央から後部にかけてのバルジと艦体の境が大規模に裂けた[32]。結果、右舷に五度傾斜したが、左舷への注水により平衡を回復したという[33]

12時15分、米軍第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は指揮下の全艦艇に対し夜戦準備警報を発し、特にジェシー・B・オルデンドルフ少将の艦隊42隻(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻)に西村艦隊と志摩艦隊への迎撃準備を命じた[34]。戦艦6隻( ウェストバージニア/16インチ砲8門、 メリーランド/16インチ砲8門 、 テネシー/14インチ砲12門、 カリフォルニア/14インチ砲12門、 ミシシッピ/14インチ砲12門、 ペンシルベニア/14インチ砲12門)のうち、「ミシシッピ」以外の米戦艦5隻は真珠湾攻撃で沈没もしくは大破しており、近代化改修を受けて再投入された軍艦達であった[35]。しかし、戦艦用砲弾の77.3%は陸上砲撃用のHC(high capacity)弾で占められており、徹甲AP弾(armor piercing)は全体の僅か22.7%に過ぎずHC弾も既に58%が陸上砲撃に使用され消耗していた[36]。少ない対艦用徹甲弾で最大限の効果をあげるべく1万7000~2万ヤードでの射撃方針が決定された[37]。湾内には28隻の輸送船、3隻の上陸作戦用指揮官、ダグラス・マッカーサー将軍が座乗する軽巡洋艦「ナッシュビル」が停泊していた[34]。第7艦隊の魚雷艇戦隊(ボーリング中佐指揮)のうち、レッスン少佐率いる39隻がスリガオ海峡の13箇所に展開、一部はミンダナオ島のカミギン島に進出していた[38]

10月24日午後7時前後、最前線に立つ栗田艦隊や西村艦隊は豊田副武連合艦隊司令長官(連合艦隊司令部/慶応義塾大学日吉台地下壕)から発せられた「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ(連合艦隊電令第372号 GF機密241813番電)」を受信した[39]。25日未明、「山城」以下西村艦隊は、ミンダナオ海を抜け、志摩艦隊に先んじて米軍第7艦隊が待ち構えるスリガオ海峡に突入した。西村艦隊は闇雲にスリガオ海峡へ突入したと誤解されがちだが、西村長官は逐一自隊の状況を栗田長官に報告していた[40]。一方で、栗田艦隊の「武蔵」沈没という被害や反転・再反転の情報を受信していたかは定かではない[40]。21時13分、西村司令官は「二十五日〇四〇〇『ダラグ』沖ニ突入予定」(第二戦隊機密第242013番電)と発信(栗田艦隊受信20時20分)[41]。対する栗田長官は、21時45分にレイテ突入予定時刻を25日11時と伝え「(西村艦隊は)予定通『レイテ』泊地ニ突入後 二十五日〇九〇〇『スルアン』島ノ北東一〇浬付近ニ於テ主力ニ合同」(第一遊撃部隊第242145番電)と発信した(西村艦隊受信22時40分)[42]

レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)

24日午後7時頃、「最上」と第4駆逐隊(満潮、山雲、朝雲)は掃討隊として先行した[43]。午後11時、「時雨」はカミギン島の北方で米軍魚雷艇との交戦を報告[44]。魚雷艇1隻が「時雨」の砲撃で損傷したのみで双方に主な戦果はなく、魚雷艇は煙幕を展開して避退したが、オルデンドルフ提督への通報は1時間遅れた(受信0026)[45]。25日0時時前後、西村艦隊掃討隊は魚雷艇3隻と交戦、被害は無かった[46]。一連の戦闘で、米軍魚雷艇39隻のうち30隻が戦闘に参加、魚雷34本(海戦全体で160本とも)を発射したが、確実に挙げた戦果は志摩艦隊軽巡洋艦「阿武隈」中破のみである[47]。1時、西村艦隊は「〇一三〇『スリガオ』海峡南口通過『レイテ』湾ニ突入、魚雷艇数隻見タル他敵情不明」(第二戦隊機密第250100番電)と報告(栗田艦隊受信2時20分)[48]。1時30分、掃討隊が西村艦隊本隊に合流[49]。2時になると針路を真北にとり、突入態勢とった。同時刻、西村艦隊と米魚雷艇群が砲雷撃を交わしたが、双方とも戦果はなかった[50]。一連の戦闘で、魚雷艇1隻(PT493)が大破翌朝沈没、10隻が損傷し、6名が戦死した[51]

米軍魚雷艇群の攻撃を切り抜けた西村艦隊は、先頭から「満潮」「朝雲」「山城」「扶桑」「最上」が一列に並び、「山城」左舷1.5kmに「時雨」、右同距離に「山雲」という単縦陣を形成した[52]。2時50分以降、「時雨」はディガナット島寄りに駆逐艦3隻発見を報告、西村司令官は探照灯による照射攻撃を命じると共に単縦陣を令し、「満潮」「朝雲」「山雲」「時雨」「山城」「扶桑」「最上」という完全な単縦陣を形成した[53]。西村艦隊は3時10分前後に砲撃を開始した[54]。米軍は、海峡東側(西村艦隊右前方)を進む第54水雷戦隊3隻(リメイ、マクゴワン、メルビン)が魚雷27本を発射[55]。海峡西側(西村艦隊左前方)を進む第108駆逐隊2隻(マクデルマット、モンセン)が魚雷20本を発射[56]。米軍水雷戦隊は計47本の魚雷を発射した後、西村艦隊の照明弾に照らし出されたものの離脱に成功した[56]

午前3時10分頃、戦艦「扶桑」は被雷して落伍、その後に爆沈した[57]。離脱した「扶桑」の位置に「最上」がつき、「山城」に続行した[58]。西村中将は「扶桑」の落伍に気づかず、「扶桑」健在と判断したまま命令を発していた[59][60]。逆に、「時雨」は脱落した戦艦を「山城」、戦闘可能な戦艦を「扶桑」と判断していた[61][62]。午前3時33分~3時40分、「最上」は「山城」左舷に水柱2本が立つのを確認し、艦首付近に魚雷命中を認め、3時35分に「山城」の左舷に火災が発生しているのを確認した[63][64]。護衛の駆逐艦も「山雲」轟沈、「満潮」被雷航行不能、「朝雲」艦首切断という大損害を受けて次々に落伍する[65]。3時25分、米軍第24水雷戦隊の駆逐艦6隻が戦闘に加わり、駆逐艦「キレン」が「山城」に魚雷1本を命中させた[66]。数本の魚雷は「時雨」の艦底を通過していった[67]。西村は栗田艦隊や志摩艦隊に対し3時30分に「スリガオ水道ノ北口両側 敵d(駆逐艦)魚雷艇アリ 味方d2被雷遊弋中 山城被雷1戦闘航海ニ支障ナシ」(第二戦隊機密第250330番電)を発信した(栗田艦隊受信04時15分)[68]。また、「最上」は0340に「山城」より「ワレギョライヲウク カクカンワレニカマワズトッシンセヨ」との信号を受信した。 しかし、0351オンドルフ少将より全ての巡洋艦に対して射撃開始が下令され、Denverが0351に距離14,447mより山城を目標に砲撃を開始したのを皮切りにMinneapolis、Columbiaも同一目標に対して射撃を開始し、Port-landもそれに続いた。 更に0353には[69]戦艦部隊の内West Virginiaが距離 20,848mより射撃を開始し、0355にはTennessee、Californiaもそれに続き射撃を始め、各艦は許される限りのAP弾全てを山城に対して発射した。米軍戦艦6隻(ペンシルバニアは発砲せず)の主砲発射弾数は計272発、米軍巡洋艦部隊は8インチ砲・6インチ砲計約3000発を発射したと記録されている[70]。既に1本の魚雷を受け速力が12ktに低下した「山城」は艦橋付近に命中した敵弾により炎上、「最上」も艦橋への命中弾で艦長や航海長が戦死するなど戦闘力を喪った[71]。西村は「我魚雷ヲ受ク 各艦ハ前進シテ敵艦隊ヲ攻撃スベシ」と下令したという[72]。なお時雨戦闘詳報では3時55分に炎上・航行不能となった戦艦を「扶桑」としているが[73]、実際には「山城」であった。

同時刻、米軍第56水雷戦隊駆逐艦9隻は「山城」が速力を落とし針路を北から西に変えるのをレーダーで探知、第1小隊「ニューコム」「アルバート・W・グラント」「リチャード・P・リアリー 」は「山城」と並走しつつ距離約5580mで各艦魚雷5本(計15本)を発射、4時11分30秒に2つの爆発音を認めた[74]。「山城」は副砲で応戦したが、「グラント」に命中弾を与えたに留まった[75]。「山城」艦橋にいた江崎主計長によれば『午前3時30分頃に1本目の魚雷が「山城」左舷後部に命中。後部弾火薬庫爆発の危険が生じた為第五、第六主砲弾火薬庫へ注水が行われ、速力が低下し始めた。その頃から艦砲射撃を受け始め、艦橋付近に火災が発生し第三砲塔以下は使用不能となった。その後第一、二砲塔のみで応戦中、左舷中央部に魚雷1本が命中。一時速力が5ktに低下したものの停止するには至らず速力は12ktに回復(艦内通信遮断)、3本目の魚雷が右舷機関室に命中すると「山城」は艦首を南西に向けて停止、停止後唯一健在だった1番砲塔のみで応戦していた所、最後に4本目の魚雷が右舷に命中、取舵に転舵したまま急速に傾斜しはじめた』という[76]。西村司令官が安藤先任参謀に「我レイテ湾に向け突撃、玉砕す」の電文作成指示を出すのを江崎は目撃しているが、この電文は栗田艦隊に届かなかったか、「山城」は通信能力を既に喪失していたと見られる[77]。その後、総員退去が命じられたが、3分後には横転して「山城」は艦尾から沈没した[78]。 「山城」沈没後も戦場離脱に努力していた「最上」は、避退中に第二遊撃部隊(志摩清英中将)旗艦「那智」と衝突、さらに午前9時前後に空襲を受け航行不能となり、駆逐艦「」によって雷撃処分された[79]。駆逐艦「朝雲」は12ノットで退避していたが、追撃してきた巡洋艦「デンバー」、「コロンビア」、駆逐艦「クラクストン」、「コニー」、「ソーン」に補足されて7時21分に撃沈された[80]。西村艦隊所属艦のうち、『呉の雪風、佐世保の時雨』と謳われた「時雨」のみが損傷を受けつつ生還、27日になってブルネイに帰着した[81]

生存者

レイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦は、空軍が関与せず、戦艦同士の砲撃戦が行われた最後の海戦だった[82]。戦艦から戦艦に対する最後の砲撃は、10月25日午前4時9分、戦艦「ミシシッピ」(USS Mississippi, BB-41/AG-128)が「山城」に対して発射した12発の14インチ砲弾とされる[83]。本海戦において、日本海軍側は「山城」「扶桑」「最上」「阿武隈(志摩艦隊)」「山雲」「満潮」「朝雲」が撃沈され4000名以上が戦死したのに対し、米海軍の損害は駆逐艦1隻損傷、魚雷艇1隻沈没、戦死39名・負傷者114名であり、本海戦は太平洋戦争における最も無惨な戦いの一つと評されている[84]。「山城」沈没時の定員は1350名であったが、対空機銃を増設した関係で約1500名が配属されていたと思われる[85]。士官2名、下士官兵8名、生存者10名が米軍に救助され、戦後帰還した[86]。沈没時100名以上(米軍駆逐艦艦長によれば数百名)の乗組員が漂流していたが、米駆逐艦の救助を拒み溺死したもの、陸地に上陸したが住民に殺害された者も少なくなく、最終的に生存者10名となってしまった[87]。「時雨」は上級司令部に対し『我ト同勢力以上ノ敵泊地ニ夜間突入スルハ勝算ナシ』と報告している[88]。戦後、小沢治三郎(レイテ沖海戦時小沢機動部隊司令官)は「あのとき、まじめに戦争をしたのは、西村一人だったよ」と語った[89]。また江崎(山城主計長)は、敗因について「日本海軍が米海軍に負けたのであって、西村司令官の責任ではない。当時の誰でも西村司令官以上の指揮は出来ず、あの状況下では最善の指揮だったと信じている」と回想した[90]

主要目一覧

要目 新造時
(1917年)
大改装後
(1935年)
レイテ沖海戦時
(1944年)
排水量 基準:32,720t
常備:33,800t
基準:39,130t
公試:43,580t
全長 215.80m 224.94m
全幅 28.96m 34.60m
吃水 9.08m 9.49m
主缶
主機  ブラウン・カーチス式直結型タービン 艦本式タービン4基4軸
軸馬力 40,000shp 70,000shp 75,000shp
速力 23.3ノット 24.6ノット
航続距離 8000海里/14kt
燃料 石炭5022t 重油1026t
乗員
主砲 四一式35.6cm連装砲6基
副砲 四一式15.2cm単装砲16門 同14門
高角砲 8cm単装砲4門 12.7cm連装4基
機銃 40mm連装2基
13mm4連装4基
25mm連装8基
(40mmにかえて後日装備)
25mm3連装8基
25mm連装17基
同単装34挺
13mm連装3基
同単装10挺
魚雷 53cm水中発射管6門 なし
その他兵装 22号電探2基
13号2基
装甲 水線305mm
甲板64mm
主砲天蓋115mm
水線305mm
甲板100mm
主砲天蓋152mm
縦壁75mm
搭載機 なし 3機
カタパルト1基

※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年(昭和19年)は推定を含む。

公試成績

項目 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
竣工時 30,577t 47,712shp 23.307kt 1916年(大正5年)12月19日 館山沖
大改装後 39,172t 70,922shp 24.600kt 1934年(昭和9年)12月14日 館山沖

歴代艦長

※『艦長たちの軍艦史』21-23頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長

  • 志津田定一郎 大佐:1916年4月1日[91] - 5月20日[92]
  • (兼)志津田定一郎 大佐:1916年5月20日[92] - 12月1日[93]
  • (兼)中島資朋 大佐:1916年12月1日[93] - 1917年3月31日[94]

艦長

  1. 志津田定一郎 大佐:1916年5月20日[92] - 12月1日[93]
  2. 中島資朋 大佐:1916年12月1日[93] - 1917年12月1日[95]
  3. 加藤雄次郎 大佐:1917年12月1日 - 1919年11月20日
  4. 大内田盛繁 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月20日
  5. 増田幸一 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
  6. 小山武 大佐:1921年11月20日 - 1922年7月1日
  7. 高橋節雄 大佐:1922年7月1日 - 11月10日
  8. 鳥崎保三 大佐:1922年11月10日 -
  9. 高橋律人 大佐:1923年12月1日 -
  10. 大湊直太郎 大佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
  11. 伊地知清弘 大佐:1925年12月1日 -
  12. (兼)益子六弥 大佐:1926年12月1日 -
  13. 寺島健 大佐:1927年3月1日 -
  14. 東林岩次郎 大佐:1927年12月1日 -
  15. 豊田貞次郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年10月5日[96]
  16. 岩村兼言 大佐:1929年10月5日[96] - 1929年11月30日
  17. 小槙和輔 大佐:1929年11月30日 -
  18. 寺本武治 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  19. 真崎勝次 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  20. 糟谷宗一 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  21. 小島謙太郎 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  22. 南雲忠一 大佐:1934年11月15日 -
  23. 大熊政吉 大佐:1935年11月15日 -
  24. 小林仁 大佐:1936年12月1日 -
  25. 阿部嘉輔 大佐:1937年10月20日 -
  26. 角田覚治 大佐:1938年11月15日 -
  27. (兼)五藤存知 大佐:1939年9月15日 -
  28. 五藤存知 大佐:1939年11月1日 -
  29. 原鼎三 大佐:1939年11月15日 -
  30. 緒方真記 大佐:1940年10月15日 -
  31. 小畑長左衛門 大佐:1941年5月24日 -
  32. 大和田昇 大佐:1942年9月1日 -
  33. 早川幹夫 大佐:1943年3月1日 -
  34. 久宗米次郎 大佐:1943年8月2日 -
  35. 田原吉興 大佐:1943年12月25日 - 1944年5月5日戦死
  36. 篠田勝清 少将:1944年5月6日 - 10月25日戦死

同型艦

注釈

  1. ^ 乗員が乗り込み、航海可能可能の状態となって、一切の兵装、弾薬類、消耗品を定額搭載し、燃料と予備罐水を搭載しない状態を指し、国際的に艦を比較する為に定められた排水量。
  2. ^ 乗員が乗り組み、弾薬類を定額搭載し、燃料、真水、糧食等の消耗品を2/3だけ搭載した状態を指し、実際に艦が戦闘に入る際の排水量と想定されたもの。ただし、公試状態を戦闘開始時の排水量として設計が行われるようになったのは、大正末以降である為、扶桑型は燃料1/4、弾薬類3/4、真水1/2を搭載した状態である常備排水量を戦闘状態時の排水量として設計が行われた
  3. ^ 排水量31,970tの状態での成績
  4. ^ 公試全力運転時は23.3kt
  5. ^ 四五口径
  6. ^ 四五口径
  7. ^ 四十口径
  8. ^ 弾火薬庫上部の中甲板傾斜部2インチ含む最厚部
  9. ^ 主砲塔天蓋の改造に関しては明確な資料が存在しないが、ワシントン条約前の既存主力艦の改造案の中で主砲塔天蓋を6インチとする事が提案されているため、恐らく6インチに改装された物と推定される。
  10. ^ 損失艦補填の為
  11. ^ 明治39年12月にドレッドノートが竣工した事で新戦艦薩摩、案芸も実質的には二線級の戦艦となった。
  12. ^ この計画は後に変更され、戦艦2隻(河内、摂津)、装甲巡洋艦(金剛)、二等巡洋艦(筑波、矢矧、平戸)、大型駆逐艦(海風)、潜水艇2隻(波号第九、十)として成立した
  13. ^ 後に巡洋戦艦へと変更
  14. ^ 山城は大正2年11月10日起工
  15. ^ 山城1隻の建造費の総額は八百二十三万七千八百四十円
  16. ^ 四五口径
  17. ^ A48では12インチ50口径連装6基12門、A49は14インチ連装5基10門
  18. ^ 14インチ45口径連装5基10門
  19. ^ 艦首・船尾最前部砲塔が三連装とされ残りの連装砲は中央部に1基三連装後方にそれぞれ1基づつ搭載するとされていた。
  20. ^ 扶桑の起工年月日は明治45年3月11日
  21. ^ 敵弾、爆弾、魚雷より直接被害を被る事を防ぐための物を指し、主に耐弾性能が高い特殊処理を施した特殊鋼(甲鈑)による防御
  22. ^ 艦が損傷した場合でも被害を最小に留めるための船体構造、防水区画や防炎、注排水装備といったような艦主要部への被害を極限する為の施設・装備による防御
  23. ^ 甲鈑面に対する垂直線と砲弾の衝撃線からなる角度
  24. ^ 特に日本の徹甲弾に於いては甲鈑面で炸裂する場合が多かったため、大正13年に金剛、日向両艦が距離18,000mから行った弩級戦艦薩摩を利用した射撃訓練の際にも、15発程度の命中弾があったにも拘らず薩摩のKC230mmの水線甲鈑を貫徹出来ず浸水や傾斜を発生させる事が出来なったとされる。
  25. ^ 巡洋戦艦金剛を発注した際に製造技術がヴィッカース社より導入され、以降国内でも製造されるようになった。
  26. ^ 最厚部
  27. ^ 5号徹甲弾採用によって特に砲塔天蓋、甲板防御の不足が問題となった為、新たに開発された浸炭焼き入れ処理を施していない均質甲鈑であり、高い強靭性を備えていたがその一方で弾性限が低く、平頭弾の中口径砲弾でも容易に貫徹されるだけでなく大口径砲弾の着弾による変形が大き過ぎるという欠点を持っていた。
  28. ^ 日本戦艦の場合、大正10年に比叡が12,000mの距離で命中率20%を記録したのが最も高く、大正13年の時点では日向、金剛は平均距離21,000mで命中率3.5%、長門、陸奥は距離18,500mで11.5%であったとされており、昭和14年の時点では観測機を利用した間接射撃で長門型の場合は距離32,000mからの射撃で命中率12%の成績を収めていたとされる。
  29. ^ 米国に関しても同等の新式徹甲弾を開発していると想定していた
  30. ^ 金剛型に関してはどの距離でも貫徹されるとされている。
  31. ^ 舷側甲鈑を貫徹可能な18,000m~23,000m
  32. ^ 弾火薬庫までは貫徹されない距離
  33. ^ 「日本戦艦物語」p347では扶桑型の主甲帯が12インチ(305mm)+2インチ(50.8mm)=14インチ(約355mm)とされているが、扶桑型に関しては垂直防御の強化を行ったとされる記述は散見出来ず、伊勢型に関しては戦闘安全距離が距離20,000m-25,000mとなるように強化されたのと記述が「戦史叢書 海軍軍戦備<1>」p610に見られる事に加えて、改装後の伊勢型の九一式徹甲弾に対する戦闘安全距離が20,000m-25,000mとされている事から、扶桑型と伊勢型を取り違えた単なる誤表記の可能性も考えられる。
  34. ^ 長門、扶桑、伊勢、山城、霧島、比叡
  35. ^ 学研『日本の戦艦』参照
  36. ^ 扶桑型に関する部分のみ抜粋
  37. ^ 大正10年の海軍予算は5億2百12万5千円
  38. ^ 山城の場合
  39. ^ 艦首側に連装2基、艦中央部に3連装1基、船尾側に3連装1基
  40. ^ 扶桑型の砲塔前楯の薄さが指摘されていた事から、砲塔前楯を指すと思われる。
  41. ^ 甲鈑は従来のVCを使用
  42. ^ 第一罐室を専焼罐とする事で、罐数を減らす事も書かれているが線引きで消されているため、これについては行わないとしていたようである。

脚注

  1. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.110『国名なり、畿内山城国に採る。』
  2. ^ 「丸 2013年8月号」p76参照
  3. ^ 「大正十五年度戦闘射撃成績摘要」
  4. ^ #戦艦山城命名及進水式(2)pp.29-30
  5. ^ 平賀譲デジタルアーカイブ 表題〔扶桑級改造案〕
  6. ^ #山城(1)p.3、『軍港と名勝史蹟』p.45
  7. ^ 『官報』第980号、大正4年11月5日。
  8. ^ #山城(2)p.24、#戦艦山城命名及進水式(2)p.18
  9. ^ #山城(2)pp.42-42
  10. ^ 『行幸に関する件』pp.4-5
  11. ^ 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(1)』p.7
  12. ^ 『御召艦準備に関する件』、『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(1)』pp.19-27
  13. ^ 『行幸に関する件』p.29
  14. ^ 『扶桑乗員の件』p.11
  15. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.239『昭和2年7月28日~8月10日聯合艦隊演習へ 軍艦山城 横須賀軍港にて御乗艦、佐伯湾奄美大島方面、小笠原諸島 横須賀軍港にて御乗退艦』
  16. ^ 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(3)』p.39、『供奉艦乗組員数の件(2)』p.6
  17. ^ 『天皇陛下御召艦特別任務報告の件 2通(3)』p.42
  18. ^ 『連合艦隊機密第35号 11.2.4 旗艦変更の件』p.1
  19. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.241
  20. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.242
  21. ^ #16歳の海戦(文庫版)136頁
  22. ^ #第5艦隊戦時日誌AL作戦(6)p.28
  23. ^ #第5艦隊戦時日誌AL作戦(6)p.27
  24. ^ #サイパン・レイテ海戦記191頁
  25. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.2,6、#駆逐艦時雨戦闘詳報p.19、#昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)p6
  26. ^ #サイパン・レイテ海戦記231頁
  27. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.20、#軍艦最上戦闘詳報p.5、#サイパン・レイテ海戦記192頁
  28. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか128頁
  29. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.8,14、#サイパン・レイテ海戦記194頁
  30. ^ #サイパン・レイテ海戦記195頁
  31. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか194頁
  32. ^ #完本・太平洋戦争(下)87頁
  33. ^ #サイパン・レイテ海戦記239頁
  34. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記201-203頁
  35. ^ #サイパン・レイテ海戦記211頁
  36. ^ #サイパン・レイテ海戦記p203
  37. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか231-233頁
  38. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか235頁
  39. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.29、#軍艦大和戦闘詳報第3号(2)p.22、#サイパン・レイテ海戦記195-196頁
  40. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記196頁
  41. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.28、#軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)p.22、#サイパン・レイテ海戦記196頁
  42. ^ #軍艦大和戦闘詳報第3号(2)p.27、#軍艦最上戦闘詳報p.27、#サイパン・レイテ海戦記196頁
  43. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.8,15,27
  44. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.8,15、#駆逐艦時雨戦闘詳報p.8,30
  45. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか236頁
  46. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.8,15、#駆逐艦時雨戦闘詳報pp.31-32、#サイパン・レイテ海戦記198頁
  47. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか254頁、#サイパン・レイテ海戦記204頁
  48. ^ #軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)pp.25-26、#サイパン・レイテ海戦記198頁
  49. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報pp.8,31-32
  50. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.15、#サイパン・レイテ海戦記199頁
  51. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか127頁
  52. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.8
  53. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか239頁
  54. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報pp.9,35、#サイパン・レイテ海戦記199頁
  55. ^ #サイパン・レイテ海戦記205頁
  56. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記206頁
  57. ^ #モリソンの太平洋海戦史323頁
  58. ^ #軍艦最上戦闘詳報p.16
  59. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか240頁
  60. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.37『0348時雨→扶桑/我貴隊ニ続行ス 0352将旗2S(西村司令官)→扶桑/出シ得ル最大速力知ラセ』
  61. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.9「〇三二〇 敵魚雷四dgニ命中 山雲轟沈 満潮朝雲(前部ニ命中)航行不能 コノ頃敵砲撃漸次猛烈トナリ(コノ頃山城ラシキモノ左傾斜 後方ニテ奮戦中 被雷停止集中砲火ヲ受ケツツアルヲ認メタルモノアリ)」
  62. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.37 〇三四八[時雨→扶桑]「我貴隊ニ続行ス」、他に#駆逐艦時雨戦闘詳報p.52
  63. ^ #軍艦最上戦闘詳報pp.9,16、
  64. ^ #完本・太平洋戦争(下)p98
  65. ^ #モリソンの太平洋海戦史323頁、#サイパン・レイテ海戦記207頁
  66. ^ #サイパン・レイテ海戦記209頁
  67. ^ #駆逐艦時雨戦闘詳報p.9『0333/雷跡三本艦底通過』
  68. ^ #軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)p.27、#サイパン・レイテ海戦記200頁
  69. ^ 戦艦部隊の射撃開始1分前の0352時点での山城の速力は12kt
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参考文献

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  • 雑誌「丸」編集部『丸 エキストラ 5月号別冊 「戦史と旅」34』(光人社、2002年)
  • 歴史群像編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.30 扶桑型戦艦』(学習研究社、2001年) ISBN 4-05-602444-8
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  • サミュエル・モリソン大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 左近允尚敏『捷号作戦はなぜ失敗したのか レイテ沖海戦の教訓中央公論社、2010年10月。ISBN 978-4-12-004169-3 
  • 小淵守男『少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦「大淀」16歳の海戦』光人社NF文庫、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9 
  • 官報

関連項目

外部リンク

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