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南京戦

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南京攻略戦

南京中華門爆破の瞬間
戦争日中戦争
年月日1937年12月4日 - 12月13日
場所中華民国南京市
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
中支那方面軍 南京防衛軍
第23集団軍
ソ連空軍志願隊[1]
指導者・指揮官
松井石根大将 唐生智
戦力
約120,000名 約 90,000名
損害
戦死6,000
戦傷4,000[2]
戦死8,000
捕虜10,500[2]
昭和12年12月上旬 南京近郊戦闘経過要図[3]

南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争における戦闘の1つ。日本軍は、中華民国の首都南京陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰南京保卫战である。略称として南京戦 (なんきんせん)とも[4]。英語圏ではBattle of Nankingという[5]

背景

第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、日本軍上海付近の敵を掃討して中国側の戦意を喪失させ戦争を終結させる目的で1937年8月15日上海派遣軍を編成して派遣し、次いで第10軍を派遣した。11月7日に上級司令部中支那方面軍を編成。上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。

11月16日国民政府重慶への遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。 11月24日大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。その6日後、南京大虐殺が起きたと主張する人もいる。

経過

1937年(昭和12年)

11月7日
臨参命第百三十八号「中支那方面軍」(第10軍上海派遣軍を隷下に置く)編合(戦闘序列ではない)の下令[6] が出され、臨命600号により作戦地域は「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限される。
11月9日
上海戦線の中国軍は退却開始。
11月16日
中国国民政府は重慶への遷都を宣言。
11月19日
中支那方面軍は独断で作戦地域を越え、無錫湖州の攻撃準備。
11月20日
皇居内に大本営設置。参謀本部に第十軍より南京追撃命令の報が届き、これに対して中支那方面軍参謀長に臨命600号の指示範囲を逸脱すると打電。
11月21日
陸軍参謀本部第一部第二課より対支那中央政権方策提示。現下時局解決のため現状に於ては尚中央政権をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理するの方針を堅持す。(蒋政権の)面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす。
11月22日
中支那方面軍が「南京攻略の必要性」を上申。
11月24日
第1回大本営御前会議で中支那方面軍の作戦地域の制限が解除される。ただし多田次長より南京方面への進撃はしないよう打電される。
11月24日
唐生智が南京の防衛司令長官に任命される。
11月25日
中支那方面軍が独断で南京へ進撃開始。
11月28日
下村定作戦部長が多田駿参謀次長に南京攻略を同意させる
12月1日
大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、大陸命第八号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し南京攻略を命令[7]南京安全区国際委員会、事務所開設。
12月4日
日本軍、南京市郊外まで進軍。
12月7日
日本軍、南京防衛軍の外郭防御陣を突破。午後一時に南京市へ攻撃を開始。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して総統蒋介石ら中国軍首脳陣が南京を脱出。続いて中国政府要人や地方公務員等が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥る。これにより電話不通、電気水道が停止。中支那方面軍は「南京城攻略要領」を示達[8]
12月9日
南京城を包囲した日本軍(松井最高指揮官)は9日の正午、飛行機で南京城内にビラ(和平開城勧告文)を撒き、中国軍(唐生智南京防衛司令官)に対し降伏勧告を行なう。
日本軍による南京城への入城式
(1937年12月17日)[9]
「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民
(日本側撮影、1937年12月17日)[10]
12月10日
和平開城勧告文の回答期限の午後一時、中国軍からの反応なく、日本軍は総攻撃を開始。夕方には、速くも光華門を確保した[11]
12月11日
日本国内で南京陥落の祝賀行事を挙行。
12月12日
午後8時、唐生智は全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令し、無秩序な状況で南京城を脱出したが、兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には督戦隊を置いていった。明確な撤退命令を出さなかったため、その後も散発的に戦闘が続く。
12月13日
南京城陥落。日本軍が南京城内へ入城[12](写真)
12月14日
南京城内の敗残兵掃蕩を開始(-16日)[13][14]
12月17日
日本の陸海軍による入城式が挙行される。(写真) 中支那方面軍司令部が南京に移動。
12月18日
日本の陸海軍合同慰霊祭が故宮飛行場で挙行される[9](写真)
12月21日
各兵団は城内から退出[15]
鹵獲されたソビエト製I-16戦闘機(1937年12月22日)
12月22日
第16師団歩兵第30旅団が警備を担当[15]
12月23日
陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復する[16][17](写真)
12月24日
第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し南京難民区の兵民分離査問工作が開始され1月5日に終了[18]
12月28日
当日における各兵団の配置は、以下のとおり[19]
部隊 配置
中支那方面軍司令部 南京
上海派遣軍司令部 南京
上海派遣軍直轄の軍高射砲隊 南京
上海派遣軍通信隊 南京
上海派遣軍砲兵隊 鎮江及び常州
第十六師団司令部、歩兵第三十旅団主力、直轄部隊 南京
第十六師団その他の諸隊 湯水鎮、句容、抹陵関、その他交通上の要点
第三師団司令部、歩兵第五旅団主力、直轄部隊 鎮江
第三師団その他の部隊 無錫、江陰、常州、丹陽、金壇等
第九師団司令部、歩兵第六旅団主力、直轄部隊 蘇州
第九師団その他の諸隊 紺崑山、常熟、福山、太倉、劉河鎖、嘉定、南翔
中支那方面軍直轄 呉淞、北部上海地区
揚子江左岸地区
第十三師団司令部、歩兵第百三旅団主力、直轄部隊 滁県
第十三師団その他の諸隊 来安、全校、六合
天谷支隊、司令部、歩兵第十旅団主力 揚州、
天谷支隊その他の諸隊 儀徴、仙女廟、邵伯鎮
12月31日
南京城内の電気、水道が復旧[20]

1938年(昭和13年)

放火により焼失するソビエト大使館(1938年1月1日)
南京市内には日本軍司令官によって戦闘の目的は軍閥にあって一般の中国人ではないと布告された。

南京のソビエト大使館が全焼、この事件は1月5日に逮捕した中国人の取調べにより敗残兵によるものと判明[2]

1月11日
大本営における政府首脳による御前会議は支那事変(日中戦争)処理根本方針を決定。国民政府が和平を求めてこない場合は、以後これを対手にせずとし、新政権の成立を援助等。
1月15日
大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は政府の和平交渉打切り案に激しく反対。しかし、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見におれ、中国との和平交渉打切り決定[21]
1月16日
警備を第16師団歩兵第30旅団から天谷支隊(第11師団歩兵第10旅団)に交代[19]
1月26日
南京市内で日本兵による米国大使館のアリソン三等書記官殴打事件が起こる。
2月14日
大本営は中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍の戦闘序列を解き、中支那派遣軍の戦闘序列を下命。
3月28日
中華民国維新政府が中支那派遣軍の指導で南京に成立。

南京自治委員会の発会式

南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読[22]

1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行された。南京難民区に避難していた市民も日の丸と五色旗を振って祝い、式場には3万人の参加者がつめかけた。新政権の出現を祝い、国民政府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す以下の宣言が発表された[2]

  • 一、国民党の一党専政を廃止し民衆を基礎とする政治を実行す
  • 二、各種親日団体と合作し日支提携の実を挙げもつて東洋平和の確立を期す
  • 三、防共政策を実行し抗日、排日思想を絶対に排除し欧米依存の観念を矯正す
  • 四、産業を振興し民衆の福祉を増進す
  • 五、広く人材を登用し民衆自治の徹底を期す

その後

当時の上海軍は、南京防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品小銃十二万九百・・・であったと発表している[23]

また南京陥落後に日本軍は多数の民間人や捕虜を不法に殺害したとされ(南京事件)論争となっている(南京大虐殺論争)。第二次世界大戦終結後の東京裁判では「捕虜及び一般人に対する国際法違反」により陸軍大将・松井石根らが処刑された。

この戦いの後、日本軍は徐州武漢を含むいくつかの都市を占領し(徐州会戦武漢作戦)、一方、中国側は1938年の黄河決壊事件によって三つの省を覆う洪水を引き起こし、日本軍の侵攻を止めようとした。

参加兵力

日本軍

中国軍

南京防衛司令長官部
司令長官:唐生智、副司令長官:羅卓英・劉興、参謀長:周斕、副参謀長:余念慈
  • 第2軍団(徐源泉
    • 第41師(丁治磐
      • 第121旅(張習崇)
      • 第123旅(芮勤学)
    • 第48師(徐継武)
      • 第142旅
      • 第144旅(郭浚)
  • 第66軍団(葉肇)
    • 第159師(譚邃)
      • 第475旅(林偉濤)
      • 第477旅(司徒非)
    • 第160師(兼・葉肇)
      • 第478旅(喩英奇)
      • 第480旅
  • 第71軍(王敬久)
    • 第87師(沈発藻)
      • 第259旅(易安華)
      • 第260旅(劉啓雄)
      • 第261旅(陳頤鼎)
  • 第72軍(孫元良)
    • 第88師(兼・孫元良)
      • 第262旅(朱赤)
      • 第264旅(高到嵩)
  • 第74軍団(兪済時)
  • 第78軍団(宋希濂
  • 第83軍団(鄧龍光)
  • 江防軍(劉興)
  • 教導総隊(桂永清
  • 憲兵司令部(蕭山令)
  • 陸軍装甲兵団(杜聿明
  • 砲兵第42団(繆範)
第23集団軍
総司令:劉湘、副総司令:唐式遵
  • 第21軍(唐式遵)
  • 第23軍(潘文華
中国軍の配置
  • 外囲陣地軍(南京周辺25km圏)
    • 板橋~淳化鎮線 第74軍・楡済時隷下の第51師、第58師
    • 孟塘~龍潭線 第83軍・鄭龍光隷下の第154師、第156師(後に、第2軍団・徐源泉隷下の第14師、第48師に代わる)
  • 覆廓陣地軍(南京城外周)
    • 獅子山・城北一帯 第36師・宋希濂部隊
    • 城南・安徳門~雨花台区 第88師・孫元良部隊
    • 河定橋~工兵学校区 第87師・沈発藻部隊
    • 紫金山~蒋王廟線 教導総隊・桂永清部隊
  • その他の陣地軍
    • 湯水鎮東西線 第66軍・葉肇所轄の第159師、第160師、第83軍・鄭龍光隷下の第154師、第156師(外囲陣地軍より移動①)[24]

映像記録

日中戦争中の新聞報道には、日本人カメラマンが自身も巻き込まれた接近戦で日本兵が中国兵を斬り倒す写真が掲載されているものもある[25]が、南京で行われた日本兵による中国人の殺害現場については報道関係者は恐怖感から撮影を行えない場合も多かった[26]。この時期には「新聞掲載事項許否判定要領」(1937年9月9日、陸軍省報道検閲係制定)に基づく陸軍の検閲制度が存在し、その検閲をパスしなければ報道・上映ができなかった[27]。具体的には以下のものが「掲載を許可せず」となっていた。「四 左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵または支那人逮捕尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)あるもの[28] (14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし 五 映画は本要領に準じ検閲するものとす」[29]。だが現場では、日本人・中国人の区別なく死体は不許可であるとの認識しかなかったという証言もあり[30]、また、南京陥落の報道が早くなされて実際の陥落前に国内で祝賀行事が行われたことから、実際の検閲が甘かったとする意見もある[31]

以下に、南京攻略戦に関連した映像記録を列挙する。

脚注

  1. ^ J-aircraft.com Soviet Fighters in the Sky of China(1937-1940)
  2. ^ a b c d 「支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影 第16集」、毎日新聞、昭和13年1月21日発行
  3. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P420より作成
  4. ^ 太平洋戦争研究会編「図説 日中戦争」河出書房新社,2000年,88頁ほか。
  5. ^ 本記事英語版参照。
  6. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P397
  7. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P422
  8. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P427
  9. ^ a b 「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行
  10. ^ 「支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影 第15集」、毎日新聞、昭和13年1月11日発行
  11. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),156頁
  12. ^ 南京大虐殺はウソだ! 「パラマウント・ニュース映画」「入城する日本軍に拍手(2)」「同(2)」
  13. ^ 『東京朝日新聞』1937年12月15日付朝刊、2面
  14. ^ 12月14日から16日にかけて難民区の敗残兵掃蕩が行われていたことが参加した兵士から報告され、(1)外国権益への留意(2)住民に対する配慮 (3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令として言い渡されていた。さらに通訳役をつけて問題を起さないように注意もあった(喜多留冶 他『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』 ISBN 978-4-89831-294-0)。
  15. ^ a b 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P429
  16. ^ 英国紙THE TIMES(タイムズ), Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up
  17. ^ “ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”
  18. ^ ジョン・ラーベ『南京の真実』講談社、1997年、P135 12月22日
  19. ^ a b 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P432
  20. ^ パラマウント社カメラマンのアーサー・メリケンとニューヨーク・タイムズのテールマン・ダーリングによると南京市内の水道は12月9日、電気は12月10日に利用できなくなった。『東京朝日新聞』1937年12月16日付朝刊、十一面
  21. ^ 『南京戦史資料集』偕行社、1989年
  22. ^ 『アサヒグラフ』(朝日新聞、昭和13年1月26日発行)
  23. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),156頁
  24. ^ 南京事件を考える/1987年/大月書店/藤原彰編/南京防衛軍と唐生智/孫宅巍/P147
  25. ^ 『支那事変写真帖』読売新聞社、1938年
  26. ^ 東京日日新聞カメラマンの佐藤振壽は、中国軍の敗残兵約100名を虐殺している現場にいあわせたが写真は撮らなかった。「銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだった。(中略)無抵抗で武器を持たない人間を殺すのには、自己の精神を狂気すれすれまで高めないと、殺せないのだろう。後で仲間にこのときのことを話すと、『カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったか』と反問された。『写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されていたよ』と答えることしかできなかった。このような事件を見たのは筆者だけではなかったようだ」と回想している(佐藤振壽「従軍とは歩くこと」『南京戦史資料集Ⅱ』偕行社、1993年)。この『南京戦史』は、旧正規陸軍将校の親睦団体である偕行社が、会員の南京戦参戦者の証言を集め、事実で南京大虐殺という冤罪を晴らそうと企画し、機関紙『偕行』で連載した「証言による“南京戦史”」を基に編集したものである。連載では実際に証言が集まってくると、事実無根というものがある一方で、確かに虐殺はあった、何千人という捕虜を命令で殺したなどという証言も次々に寄せられた。『偕行』編集部は事実を明らかにするという立場で、否定だけでなく肯定の証言もあえて掲載するという立場をとり、連載の最後に、数の多寡は別としても南京で相当数の不法殺害があったことを認め謝罪した。その一方で『南京戦史』編集委員の鵜飼敏定は、『ゼンボウ』平成三年九月号で「南京事件を旧陸軍の罪業の一つと位置づけて旧軍の罪業を暴き、虐殺の数字を検証して日本軍は南京で何万あるいは何千人を虐殺したかを明らかにする事と南京戦史を書く目的とする委員と戦史を書く事によって戦争の本質と戦場の実相を明らかにして南京事件とは何かを問おうとする委員とに分かれたため、総括者が両者の極端を捨てて、ほど良いところをとる所謂折中方針によって編集を指導した。参戦した委員と戦争を知らない委員との史観は相反した」とも述べており、自民党の日本の前途と歴史教育を考える議員の会 南京問題小委員会による「このような、戦後のイデオロギーが混入した状況で編集された『偕行南京戦史』は、正式な戦史でない事が明らかで、参考資料の一つ以上のものではない」との主張もある。さらに佐藤振壽は「南京大虐殺の話は、いつ、どこで聞きましたか?」との質問に「東京裁判ですね。本当にびっくりしました。でも、僕にはとても信じられませんでしたね。僕はそれこそ特ダネはないかと思って、カメラマンだから貪慾に動き廻りましたよ。(以下略)」と答え(鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』文春文庫、1983年11月 ISBN 4167197022)、後には「20万人-30万人ともいわれる民間人の大虐殺があったかというとなかったと僕は主張している。死体が街に転がっているということもなかったし。日本兵が中国人の女性が作った水餃子を食っている写真を15日に撮ってますが民間人の大虐殺があったら、あういう光景はないと思うんだ。それに13日、南京市内にはカメラマンは何十人もいて、もし死体が転っていれば誰でも撮れたはずなんです」と述べ(『不許可写真1』毎日新聞社、1998年)、また「上海から南京までかなりハードなスケジュールでどの隊も進軍していましたし、もちろん戦友が戦死したり、かなり激しい銃撃戦があったりもしていたのです。そんななかでゲームで中国兵を斬るとか、捕虜を虐殺して競争するなどという余裕は兵隊さんにはありませんでした」と百人斬り訴訟の陳述書で述べている(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』。なお百人斬り訴訟は、2006年12月の最高裁の決定によって、名誉毀損を訴えた原告側の敗訴が確定した)。なお、当時、新聞連合社(後の同盟通信)の上海支局長をしていた松本重治は、下関から草鞋峡の方向への河岸一帯にあった、日本軍によって機銃掃射されガソリンをかけられて焼き殺されたと推定される2000~3000人の中国人の死体や、「新兵訓練」と称して新兵を使い中国人の捕虜を何人も銃剣で突き刺して防空壕にぶち込む様子などを、当時南京にいた3人の従軍記者が目撃したことを、回想録『上海時代(下)』(中公新書、1975年)に記述している。また、南京安全区国際委員会委員のジェームズ・H・マッカラムは、1938年1月9日の日記に、難民キャンプの入り口にやってきた数名の日本の新聞記者が、ケーキやりんごを配りわずかな硬貨を難民に手渡して、その場面を映画撮影していたが、その間にもかなりの数の日本兵が裏の塀をよじ登り構内に侵入して10名ほどの女性を強姦したにもかかわらず、そちらの写真は1枚も撮らなかったと記している(南京事件調査研究会・編訳『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』青木書店、1992年、266ページ)。
  27. ^ 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、1999年。笠原十九司『南京事件論争史』平凡社新書、2007年
  28. ^ 日本は安定した統治には中国住民の理解を得ることが必要と考えていた。このため宣撫班も利用したが、その役割の為、憲兵に加えて宣撫班までが兵士の規律に関与したことで兵士の規律は実質的に二重に守られていた。宣撫班の取締りは宣撫班の腕章を見て日本兵が真っ青になることさえあった(青江舜二郎『大日本軍宣撫官 : ある青春の記録』芙蓉書房、1970年)。
  29. ^ 『不許可写真1』毎日新聞社、1998年。この陸軍の検閲については一般的な軍に対する誹謗の規制で、特に南京で起きた何かを隠蔽せんとするものではないとの主張もある(田中正明『「南京事件」の総括』謙光社のちに小学館文庫 ISBN 978-4094060027。同書には「ニセ生首写真で"南京虐殺"ねつ造」の部分で朝日新聞の1984年8月4日の南京事件に関する報道に間違いがあったことに関する記事がある。この件については『朝日新聞の「犯罪」誰がために情報は操作される』〔世界日報社ISBN 4882010240〕にも詳しい。なお、田中は一連の南京事件研究において編集刊行した『松井石根大将の陣中日誌』〔芙蓉書房、1985年〕の原文を300ヶ所以上も改竄していたことが発覚した〔『朝日新聞』1985年11月24日。板倉由明「松井石根大将『陣中日誌』改竄の怪」『歴史と人物』1985年12月号、中央公論社〕。だが、田中は『「南京事件」の総括』のあとがきにおいて、改竄ということは本質を示しておらず、松井大将の真意を曲げることなく目的を達成しているとし、逆に朝日新聞をはじめ洞富雄ら虐殺派の人々はニセ写真やウソの記述までならびたてて、ありもせぬ20万、30万の"大虐殺"がさもあったかのごとく宣伝し著述していると述べて、その後も謝罪や訂正を行わなかった)。また、当時南京で取材していた朝日新聞社橋本登美三郎も「当時の報道規制をどう感じましたか」との質問に「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いていたよ」と答えている(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』小学館文庫、2002年 ISBN 4094025464。同書は2007年6月19日に行われた自民党の日本の前途と歴史教育を考える議員の会 南京問題小委員会による南京問題記者会見の資料としても利用された。その一方で、雑誌連載から書籍化、単行本から文庫化がされる際に、著者にとって都合の悪い証言が削除されているという指摘〔笠原十九司『南京事件論争史』〕もあり、「クロを証言する人は避け、シロと主張する人だけをまわって、全体としてシロと結論付ける戦術が丸見え」〔秦郁彦『昭和史の謎を追う』文藝春秋〕との批判もある)。
  30. ^ 佐藤振壽の証言によると、「当時、現場の僕たちは新聞が読めないから、何が不許可になったのか、一切知りませんでした。当時、撮っても検閲に通らないと教えられていたのは、日本兵でも中国兵でも死体の写真でした。他は何もなかった」とのことである(『不許可写真1』毎日新聞社)。
  31. ^ 検閲の趣旨を貫徹できず、「陸軍の報道検閲が甘い」との指摘もある(北村稔『「百人斬り訴訟」裁判記録集』 ISBN 978-4886563095)。
  32. ^ 清水俊二『映画字幕五十年』早川書房、1985年
  33. ^ 『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』 ISBN 978-4-89831-294-0

南京攻略戦を描いた作品

映画

関連項目

外交関連
トラウトマン工作 - パナイ号事件 - アリソン殴打事件
治安・住民対策
堅壁清野 - 宣撫工作 - 便衣兵 - 南京安全区国際委員会 - 世界紅卍字会
南京事件関連
百人斬り競争 - 極東国際軍事裁判 - 南京大虐殺論争 - 南京大虐殺紀念館

外部リンク

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