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フェリックス・ホセ

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フェリックス・ホセ
Felix Jose
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 サント・ドミンゴ
生年月日 (1965-05-02) 1965年5月2日(59歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手
プロ入り 1984年 アマチュアFAとしてアスレチックスと契約
初出場 MLB / 1988年9月2日 ヤンキース
KBO / 1999年4月3日
最終出場 MLB / 2003年9月28日
KBO / 2007年5月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

フェリックス・ホセFélix José、フルネーム:Domingo Felix Andujar Jose、1965年5月2日 - )は、ドミニカ共和国出身のプロ野球選手外野手)。右投両打。

経歴

アメリカ時代(1984-1999)

フェリックス・ホゼは18歳だった1984年1月にオークランド・アスレティクスと契約した。その後数年間はマイナーリーグで育成され、1988年にオークランドでメジャー・リーグデビューを果たした。当時のオークランドは第二次黄金時代を迎えており、ホゼが守る外野はホセ・カンセコデーブ・ヘンダーソンリッキー・ヘンダーソンらスター選手で埋まっており、1989年までは十分な出場機会が得られなかった。

しかし、ホゼの能力は高く評価されており、翌1990年、契約期間が切れた指名打者デーブ・パーカーとアスレティクスは再契約せず、空いた指名打者にカンセコが移ったため、ホゼに外野レギュラーの座が与えられた。しかし、ホゼは期待に応える成績を残せず(8月末まで打率.264、本塁打8、打点39)、ポストシーズンに向けて準備するオークランドは、8月末に巧打の外野手ウィリー・マギーセントルイス・カーディナルスから獲得する代わりにホゼを放出した。

1991年、ホゼはシーズン当初から活躍し、4月の月間最優秀選手のみならずオールスターゲーム出場選手にも選出され、シーズン通して打率.305、本塁打8、打点77の好成績を収めた。翌1992年もホゼの打撃力は健在で、5月月間最優秀選手を獲得するとともにシーズン全体でも打率.295、本塁打14、打点75と前年並みの成績を残した。しかし、当時長打不足に悩んでいたセントルイスは長距離打者の獲得を目指しており、同年シーズンオフ、グレッグ・ジェフリーズとの交換トレードによりカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍した。カンザスシティでの初年度(1993年)は打率.253と低迷したが、1994年には打率.303、本塁打11、打点55と好打者ぶりを発揮した。

1995年5月に何らかの理由によりホゼはカンザスシティから放出された。その後、シカゴ・カブスボストン・レッドソックストロント・ブルージェイズと契約したが、ホゼがメジャーリーグに復帰することはなく、数年間、ホゼは独立リーグでプレーしていた。

韓国プロ野球での大活躍(1999)

転機となったのは1999年のことで、同年、韓国のロッテ・ジャイアンツからオファーを受けたホゼはロッテと契約した(以降、韓国でのホゼを「ホセ」と表記する)。韓国へ渡ったホセは、3割2分7厘、36本塁打、122打点と顕著な活躍を見せた。ホセの活躍は打線の連鎖爆発を誘い、ロッテは4年ぶりにプレーオフへ進出した。

三星ライオンズとのプレーオフではチームが1勝3敗と崖っぷちに立たされた第5戦でサヨナラホームランでプレイオフの流れを変えた。
3勝3敗と互角になった最終戦の第7戦では7回表に盧長震から同点ホームランを放った。すでに第5戦でサヨナラホームランでシリーズの流れを変えたホセだっただけに、3勝1敗の優勢を覆られる不安から興奮した三星のファンが多数グランドに物を投げ入れた。その中で、ミネラル・ウォーターの入ったペットボトルがホセを直撃。ホセは激高して三星のファンが集まっていたスタンドにバットを放り込んだ。これで暴徒化した三星ファンとロッテ選手が防球ネットを間において、にらみ合いながら乱闘寸前の騒ぎとなり、鎮圧に警官隊まで出動するまでに至った。[1]この事件は「大邱の大乱闘」と呼ばれている。[要出典]ホセは退場処分となったが、試合はこの後ロッテが逆転勝ちして韓国シリーズ進出を決めた。

チームが韓国シリーズに出場したことで、彼に対する処分を巡っていろいろ意見があったが、韓国シリーズの興行の面を考慮した韓国野球委員会の裁定で、韓国シリーズへの出場は許容して、翌年のレギュラーシーズンで10試合出場停止の処分を下すことにした。

1999年以降

2000年は、ロッテとメジャー球団のオファーを両天秤にかけて、ニューヨーク・ヤンキースと契約。5年ぶりにメジャー復帰したホゼだったが、レギュラー選手が怪我をしたときのためのバックアップ選手であったため、満足な出場機会は得られなかった。

2001年にはメジャーからのオファーが無く、再びロッテに入団。1999年に課せられた出場停止処分をどう適用するかでまた議論を起こした。結局、韓国野球委員会の有権解釈で2000年シーズン1年間韓国でプレイしてないことに処分された10試合を含ませることて、この年は開幕戦から出場することができるようになった。この年の三星戦で裵英洙から受けた死球に怒り暴行を働いた。

2002年にはモントリオール・エクスポスとロッテとの二重契約が明るみに出てロッテを解雇される騒動も巻き起こした。同年にはメキシカン・リーグのメキシコシティ・レッズでプレーしていたが9月にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍し、みたびメジャー復帰を果たした。
2003年もダイヤモンドバックスの一員として代打で18試合に出場している。
その後メキシカン・リーグを経て、2006年には5年ぶりで韓国ロッテに復帰したが、2007年は不振により5月に退団となった。

ロッテ・ジャイアンツでの大活躍以降、ロッテの本拠地である釜山のファンからの絶大な支持を盾に、毎年シーズンオフにロッテ球団とメジャー球団のオファーを両天秤にかけ、二重契約すら辞さずに有利な側と契約してしまうため、韓国では彼のこのような態度を快く思わないファンも多かった。中日ドラゴンズが獲得を検討したことがあるが、この二重契約癖の問題によって獲得は実現しなかった。

通算成績

アメリカ・メジャーリーグ通算成績

年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 四球 三振 打率 出塁率

長打率

1988 OAK 8 6 2 2 1 0 0 1 1 0 1 .333 .333 .500
1989 OAK 20 57 3 11 2 0 0 5 0 4 13 .193 .246 .228
1990 OAK / STL 126 426 54 113 16 1 11 52 12 24 81 .265 .311 .385
1991 STL 154 568 69 173 40 6 8 77 20 50 113 .305 .360 .438
1992 STL 131 509 62 150 22 3 14 75 28 40 100 .295 .347 .432
1993 KCR 149 499 64 126 24 3 6 43 31 36 95 .253 .303 .349
1994 KCR 99 366 56 111 28 1 11 55 10 35 75 .303 .362 .475
1995 KCR 9 30 2 4 1 0 0 1 0 2 9 .133 .188 .167
2000 NYY 20 29 4 7 0 0 1 5 0 2 9 .241 .281 .345
2002 ARI 13 19 5 5 0 0 2 4 0 4 8 .263 .360 .579
2003 ARI 18 18 1 6 1 0 1 6 0 6 3 .333 .500 .556
通算 11年 747 2527 322 708 135 14 54 324 102 203 507 .280 .334 .409

タイトル

  • オールスター出場 - 1991年

韓国プロ野球通算成績

年度 チーム 試合 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 四死球 三振 打率 長打率
1999 ロッテ・ジャイアンツ 132 462 92 151 36 122 12 84 119 .327 .636
2001 117 367 90 123 36 90 7 128 72 .335 .695
2006 122 415 59 115 22 78 3 86 83 .277 .487
2007 23 86 5 22 1 12 0 14 12 .256 .337
通算 4シーズン 394 1330 247 411 95 314 22 312 286 .309 .586

外部リンク

参照

  1. ^ Youtubeの資料映像
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