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クラウス・フォン・シュタウフェンベルク

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クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵
Claus Graf von Stauffenberg
ファイル:Claus Schenk Graf von Stauffenberg small.jpg
ドイツ連邦共和国の切手に使われる
クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの肖像
生誕 1907年11月15日
ドイツの旗 ドイツ帝国
バイエルン王国イェティンゲン
死没 (1944-07-21) 1944年7月21日(36歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
プロイセン州ベルリン
所属組織 ドイツ国軍陸軍(Reichsheer)
ドイツ国防軍陸軍(Heer)
軍歴 1926 - 1944
最終階級 陸軍大佐
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クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ(伯爵)・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Philipp Maria Schenk Graf von Stauffenberg, 1907年11月15日 - 1944年7月21日)は、ドイツ軍人貴族。軍における最終階級は大佐(Oberst)。貴族の爵位は伯爵(Graf)。
ドイツ陸軍国内予備軍参謀長を務めていた際の1944年7月20日東プロイセン総統大本営狼の巣」において総統アドルフ・ヒトラー時限爆弾によって暗殺する計画を実行したが、ヒトラーは軽傷を負ったに止まった。「ヴァルキューレ作戦」発動によるクーデタ計画にも失敗し、7月21日には上官の国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の命令により逮捕され、銃殺刑に処せられた。戦後、ドイツ連邦共和国において英雄視されている。

生涯

名門貴族の家柄

シェンク・フォン・シュタウフェンベルク家の紋章

シュタウフェンベルク家Stauffenberg)の歴史は13世紀シュヴァーベンに遡る。同地を統治していたツォレルン伯爵家に仕えていた貴族が「給仕」(Schenk シェンク)に任じられたのを機に「シェンク」を代々の家族名にしたことに始まる。この貴族は苗字を様々に名乗ったが、その一つに「シュタウフェンベルク」があった。これはシュヴァーベンの山の名前から取ったものであった。15世紀末に「シェンク・フォン・シュタウフェンベルク」が永続的な家名となった。シュタウフェンベルク家をシュタウフェン朝と結び付ける伝承もある。

シュタウフェンベルク家の栄進は、1698年神聖ローマ皇帝レオポルト1世により男爵(Freiherr)の世襲爵位を授与されたのにはじまる。その後シュタウフェンベルク男爵家は四流に分かれた。しかしうち二流は18世紀中に断絶し、ヴィルフリンゲン(Wilflingen)を所領とするシュタウフェンベルク男爵家とアーメルディンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家の二流のみが残った。1791年にはヴィルフリンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家が皇帝レオポルト2世から帝国伯爵(Reichsgraf)に叙されている。しかしこの帝国伯爵家は1833年に絶えている。結局アーメルディンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家のみが残った。同男爵家はアーメルディンゲンに加えて、17世紀18世紀グライフェンシュタイン(Greifenstein)、イェッティンゲン(Jettingen)、ラウトリンゲン(Lautlingen)などを所領としていった[1]

アーメルディンゲン・シュタウフェンベルク家のフランツ・ルートヴィヒ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク(Franz Ludwig Philipp Schenk von Stauffenberg)[# 1]は、1874年バイエルン王国国王ルートヴィヒ2世から伯爵(Graf)の世襲爵位を授与された[2]。以降フランツ・ルートヴィヒのシュタウフェンベルク家は伯爵家となった。一方フランツ・ルートヴィヒの弟フリードリヒは男爵の爵位のままであり、こちらのシュタウフェンベルク家は男爵家として残った。

フランツ・ルートヴィヒ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の長男はクレメンス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵である。そしてクレメンスの次男にあたるのが、クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の父アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(Alfred Schenk Graf von Stauffenberg)であった。アルフレートはシュタウフェンベルク家の所領のうち、ヴュルテンベルク王国領に属するラウトリンゲンを所領としていた。なおシュタウフェンベルク家は代々カトリックである。

生い立ち

クラウス・フォン・シュタウフェンベルクが生まれたイェティンゲン城(Schloss Jettingen)。

クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、1907年11月15日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国領のイェティンゲンにあるイェティンゲン城(Schloss Jettingen)において生まれた。イェティンゲンはウルムアウクスブルクの間に位置し、シェンク・フォン・シュタウフェンベルク家の一族の所領であった。

クラウスの父アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国のラウトリンゲンの領主であり、ヴュルテンベルク軍で少佐まで昇進した人物であった。また1908年からは同国国王ヴィルヘルム2世シュトゥットガルトの宮殿で侍従長として仕え、王家の家政を取り仕切った。この際にシュトゥットガルトの旧宮殿を公邸として与えられ、以降シュタウフェンベルク一家はここを中心に暮らすようになった[3]

クラウスの母カロリーネ(Caroline)は、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍(Gemeinsame Armee)中佐アルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル=ギレンバント伯爵(Alfred Richard August Graf von Üxküll-Gyllenband)の娘であり、1904年5月30日にアルフレートと結婚した。カロリーネの母ヴァレリエの祖父はプロイセン参謀本部の創設者の一人であるプロイセン元帥アウグスト・フォン・グナイゼナウ伯爵であった[1][4]

クラウスは双子二組の四人兄弟であり、三男であった。兄に1905年3月15日生まれのベルトルト(Berthold)とアレクサンダー(Alexander)の双子があり、またクラウスと同じ1907年11月15日に双子の弟コンラート(Konrad)が生まれている。ただしこのコンラートは生後一日にして死亡した[5]。クラウスと兄二人との関係は幼い頃から終生緊密であった[6]

シュタウフェンベルク一家が暮らしていたラウトリンゲン城(Schloss Lautlingen)。

クラウスが子供の頃に親しんだ場所は父の公邸があった王都シュトゥットガルト、ラウトリンゲンの自宅(ラウトリンゲン城)、またイェティンゲンやアーメルディンゲンやグライフェンシュタインといった親類の家々などである。庭園巡り、ヴュルテンベルク王家との交流[# 2]茶会サロンなどはシュタウフェンベルク家のお決まりの行事だった[8]

1916年にシュトゥットガルト一の名門ギムナジウムであるエーベルハルト・ルートヴィヒ・ギムナジウム(Eberhard-Ludwigs-Gymnasium)に入学した。シュタウフェンベルクの成績は上位だったが、1918年1月、第一次世界大戦の戦況の悪化で石炭不足のために学校が閉鎖された[9]

大戦末期の1918年11月、ヴュルテンベルク王国でもドイツ革命が勃発し、シュタウフェンベルク家が仕えたヴュルテンベルク王家が崩壊した。父アルフレートは宮宰コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵(後のヒトラー内閣外相)とともに最後まで国王に仕えた。アルフレートはシュトゥットガルトを離れた王と王妃を隠遁先のベーベンハウゼン(Bebenhausen)のシトー派修道院の旧修道院までお供している。また国王の私有地と恩給についてヴュルテンベルクの新政府と交渉にあたったのもアルフレートだった。王家の宮殿や所領の大部分はヴュルテンベルク政府に接収されたが、一部の土地は民法の適用を受ける私有地として国王のもとに戻すことに成功した。貴族の所領も民法の適用を受ける私有地としてほぼ存続させた。ヴィルヘルム2世の皇太子アルベルト公爵は、アルフレートを「王の最も忠実な臣下の一人で、あの悲しい日々にあっても冷静さを失わなかった唯一の人物」と評した。クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはこの年の11月15日の誕生日を最も悲しい誕生日と評し、祝いを拒絶した。クラウスは王がなにも抵抗せずに去った事に一番落胆したという[10]

戦後、兄二人とともにシュトゥットガルトの学校へ戻った。しかしクラウスは病弱であったため、学校を休んで家庭教師に教わる事が多かった。1923年頃にはシュタウフェンベルク家の三人の子供たちは貴族主義的な哲学者・詩人シュテファン・ゲオルゲの弟子となり、彼から深い影響を受けるようになった[6][11]

クラウスは芸術を愛し、はじめ音楽家を目指した。しかしやがて音楽の才能はないと悟り、その後、建築家を志した。1923年1月24日に学校で書いた作文には建築家への夢が書かれている[12]1926年アビトゥーアに合格する[6]

ヴァイマル共和国軍時代

1926年、第17騎兵連隊に入隊した際のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク

音楽家や建築家を目指した時期もあったクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだったが、結局、軍人の道を志し、1926年4月1日バイエルン州バンベルクに駐留するヴァイマル共和国軍第17騎兵連隊に入営した。シュトットガルトに駐留する第18騎兵連隊ではなく、バンベルクの第17騎兵連隊に志願したのは、この連隊がヴェルサイユ条約後に縮小された既存の連隊を合併させて作られた騎兵連隊であり、その中には伯父ベルトルトが大佐を務めていた旧バイエルン重騎兵連隊も含まれており、その縁故を期待したためと思われる[13][14]。しかし一族からは「高位の貴族が共和主義の軍隊に仕えるとは何事」と不評であったという[15]

1927年8月18日には伍長士官候補生(Fahnenjunkergefreiter)となった。1927年10月から1928年8月までドレスデンの歩兵学校に在学して士官候補生としての訓練を受けた。さらに1928年10月から1929年8月にかけてはハノーファー騎兵学校に入学した。将校任官試験に騎兵の首席で合格し、1930年1月1日に少尉(Leutnant)に任官した[13][16][14]

1930年に作成されたクラウス・フォン・シュタウフェンベルクの頭像

1930年11月15日にニナ・フォン・レルヒェンフェルト男爵令嬢(Nina Freiin von Lerchenfeld)と婚約。彼女の父グスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵(Gustav Freiherr von Lerchenfeld)はかつてバイエルン王室の侍従長だった人物でフォン・シュタウフェンベルクが所属する第17騎兵連隊の将校をよくもてなしていた。その縁で二人は知り合うことになったのであった。1933年9月に挙式した[17]

1930年11月から1931年2月にかけてはポツダムで迫撃砲の研修を受け、バンベルクに戻った後に第17騎兵連隊の迫撃砲部隊の指揮官となった[18]

フォン・シュタウフェンベルクは気さくで率直で魅力のある人物だったので、会話において主導権を握る事が多かったという。ある同僚の将校は「かなり大勢人が集まっているときでさえ、彼の姿を見過ごすことはあり得なかった。そのつもりがなくても、彼はいつも人の輪の中心だった。彼からは人を惹きつけ、納得させ、信頼感を与える力が発していた。」と証言している[19]。また彼の上官の騎兵大隊長は1930年に彼について「軍事的能力がある事、知的に優れている事を自覚しており、ときに人を食ったような皮肉っぽい態度を取る事がある。しかしそれで相手が感情を害する事はない」と書き留めている[20]。上官からも仲間たちからも厚い信頼を寄せられていたフォン・シュタウフェンベルクは、何年にもわたって連隊の将校クラブの商務も担当していた[21]。また連隊の名誉法廷構成員にも選出されている[13]

ヴァイマル共和政の時代、ドイツは政治的に混乱した時期が続いたが、フォン・シュタウフェンベルクは極端な政治心情はあまり口にしなかったという。しかし他の多くの将校たちと同様に彼も保守的な愛国者であり、ヴェルサイユ条約破棄と強大なドイツ陸軍の再建を願っていた。もっとも彼はどんな政府であれ、軍人は国を守らなければならないという自負心を強く持っており、ヴァイマル共和政にも忠実であった。ヴァイマル共和国の黒・赤・金の旗を嘲る同僚があれば反論を行っていた。この点は他の多くの将校たちと異なった点だった[13][22]

ナチスに対する態度

1933年1月30日国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。

ヒトラーの軍事に関するイデオロギーは、ヴェルサイユ条約の打破と軍拡を目指すものであったので、フォン・シュタウフェンベルクとしても賛同するところが多かった。師であるシュテファン・ゲオルゲもナチ党に一定の評価をしていた(ただしゲオルゲはヒトラー内閣科学芸術国民教育相ベルンハルト・ルストからの政府役職への就任の要請は拒否している)[23]。フォン・シュタウフェンベルクは、第17騎兵連隊の演習場でヒトラーの首相就任を知った。この時、彼は「あいつめ、ついにやったか!」と叫び、熱狂的に喜んだという。さらにその日の晩には将校クラブの席上で「新しい党」についての熱弁を振るったといわれる[19]

一方でナチ党の反ユダヤ主義に関するイデオロギーについては全く同調しなかった。所属する騎兵連隊を代表してナチ党の集会に出席した際、ナチ党フランケン大管区指導者ユリウス・シュトライヒャーが臆面もなくユダヤ人への誹謗を行うと、彼は敢然と席を立って退出している[19]。また1934年3月にはヨーゼフ・ゲッベルス宣伝省に対してシュトライヒャーが編集していた反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー』の内容に激しく抗議する文書を送りつけている[24]

1934年6月末から7月初めの「長いナイフの夜」事件については「透明性を図るための自浄作用」として肯定的に評価している。しかしハーケンクロイツが軍の国章として引き継がれたことやヒンデンブルク死去後に軍がヒトラーに忠誠宣誓をさせられたことには否定的だった[25]。1938年2月の国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将の解任(ブロンベルク罷免事件)については激しく反発し、不満を何度も口にしている[26]

彼が反ナチ派になった決定的な出来事は、1938年11月9日にナチ党が起こした反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」だった。この惨事を見たフォン・シュタウフェンベルクは「大きな恥辱がドイツにもたらされた」と感じた。彼の副官によると彼のナチ党や党幹部個人への批判はこの事件をきっかけにして激しくなったという[27]

庶民出身者の多いナチスの野蛮な行為はフォン・シュタウフェンベルクの貴族ブルジョワカトリックとしての道徳心や正義感に反した。彼はユダヤ人政策と宗教弾圧に反感を抱くこととなる。

ナチス・ドイツ軍時代

ナチ政権下においても軍では順調に昇進を果たした。1933年5月1日に中尉(Oberleutnant)に昇進。1934年10月から1936年10月にかけてはハノーファー騎兵学校で訓練将校の助手を務めた。1936年6月には軍大学へ進むための軍管区試験に合格した。また英語の通訳試験で優秀な成績をとっていたため、1936年9月にはイギリスを訪問した。1936年10月から1938年7月にかけてベルリン=モアビト地区(Berlin-Moabit)にある軍事大学(Kriegsakademie)に入学した。クラス首席の成績で卒業している[28]。軍事大学在学中の1937年1月1日に騎兵大尉(Rittmeister)に昇進する。

1938年8月1日にはエーリヒ・ヘプナーの指揮するヴッパータール駐留の第1軽師団(後に第6装甲師団に改組される)に補給係将校として配属される[28]ミュンヘン協定に基づき、1938年10月1日にドイツ軍がチェコスロバキアズデーテン地方へ無血進駐を開始。フォン・シュタウフェンベルクの所属する第1軽師団も10月4日にズデーテンに入り、チェコスロバキア軍の動員を解除されたズデーテン兵士や避難民を誘導する任務にあたった。二週間で任務は終わり、師団はヴッパータールへ帰還した。フォン・シュタウフェンベルクはヴッパータールを「想像を絶するほどプロレタリア的」と評し、この町で暮らすのを嫌がっていたが、1938年12月になって妻と子供たちをヴッパータールへ呼び、この町に居を構えることになった。以降1943年7月までここを居とした[29]

第二次世界大戦

1939年9月1日から始まったポーランド侵攻に参加した。フォン・シュタウフェンベルクの所属する第1軽師団は9日間で200キロ以上進撃し、ヴィスワ川に一番乗りして数千人を捕虜にした[30]。10月12日に師団は平時の基地へ帰還し、第6装甲師団に再編成された。フォン・シュタウフェンベルクは困難な状況の中でも補給を確保した事や数千のポーランド人捕虜に対しても模範的なまでに給養を出した事に対して何度も表彰された[31]。1939年11月1日付けで参謀大尉(Hauptmann i.G)となり、正式に参謀本部に転任し、あらためて第6装甲師団の補給係将校となる[14]

1940年5月10日から開始された対仏戦にも参加。彼の所属する第6装甲師団は5月12日にベルギーの国境を越えた後、9日間で270キロ以上の進撃をしたが、その中でも彼は補給をしっかりと確保した。1940年5月31日に一級鉄十字章を授与されるとともに陸軍総司令部(OKH)の参謀本部編成課2グループ(平時組織と命令系統)長に任じられた。彼は妻への手紙の中で「自分の師団が展開する栄光ある作戦の真ん中から引きずり出されて、陸軍総司令部のような役所に沈没させられるのがどれほど辛いか想像できるだろうか。」と嘆いている[32][14]

フォン・シュタウフェンベルクは、対仏戦についてイギリス軍ダンケルクの撤退を許してしまったことについてヒトラーの批判を口にしているが、戦争は全体的には成功したため、ヒトラーを評価するようになった。特にヒトラーの側近くの参謀本部に行ってからはヒトラーを称える事が多くなった。「ヒトラーには軍事的な勘がある。彼はすべてを大きな関連性でとらえ、ドイツの将来のために努力しているのだろう。彼の近くにいると創造的思考を刺激される。彼に協力して勝利させよう。」などと述べている[33][34]

1941年1月1日には参謀少佐(Major i.G.)に昇進した。1941年6月に独ソ戦が開始されると頻繁に前線の軍の視察を行った。7月半ばには中央軍集団のハインツ・グデーリアン将軍率いる第2装甲集団を視察した。この際に隷下の第10歩兵師団の師団長フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・レーパー(en:Friedrich-Wilhelm von Loeper)中将(かつてフォン・シュタウフェンベルクが所属していた第6装甲師団の司令官であった)と会談。二人はソ連の制圧は可能だろうとしながらも、ヒトラーがモスクワ進軍を南に向け直して電撃勝利のチャンスをふいにしてしまったのは大きなミスであったという点で意見が一致した[35]

1941年冬にドイツ軍は厳寒でほとんど進軍できず、その間ソ連が態勢を立て直してしまった。フォン・シュタウフェンベルクは1942年春にはドイツが単独でソ連軍を撃破するのはもはや不可能であり、ソ連住民の協力が必要だと確信するようになった。独裁者ヨシフ・スターリンの暴政に虐げられるソ連支配下の住民の多くはドイツ軍を解放軍として歓迎していた。そのため占領地域の住民の感情を損なうような行動を彼はよしとしなかった。1942年4月に彼は他の参謀本部の将校との会話の中で占領地域一般市民に対する残忍な行為、アインザッツグルッペンによるユダヤ人殺戮、ソ連捕虜の集団餓死などについて怒りを述べている[36]。また編成課2グループ長として占領地域からの志願兵をスラブ人への差別意識の強い親衛隊(SS)ではなく、国防軍の管理下に置くよう努力した[37]

戦況が泥沼化した1942年夏以降には「総統の排除」を本格的に口にするようになった。またヒトラーの「犯罪性」を告発する発言も再び増えた。1942年8月には編成課4グループ長オスカー=アルフレート・ベルガー少佐との会話の中で「奴らはユダヤ人を集団で撃ち殺しているんだ。こんな罪が許され続けてはならない。」と口にした[38]。1942年9月26日の編成課の会議の席上では彼は突然に立ちあがって「責任はヒトラーにある。奴が排除されなければ抜本的改革は無理だ。私にはその用意がある」と叫び出した[39][40]。1942年9月中旬にカフカスに視察に行った際にはB軍集団参謀長ゲオルク・フォン・ゾーデンシュテルン(Georg von Sodenstern)に反ヒトラー抵抗運動の指導者になってくれないかと要請したが、拒否されている。フォン・シュタウフェンベルクが枢要な地位にある将官を反ヒトラー陣営に加えようとしたのはこれが初めてのことだった[41]。1943年1月1日に参謀中佐(Oberstleutnant i.G.)に昇進した後[42]、1943年1月16日にドン軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥の司令部を訪問した。この際に元帥にもヒトラー抵抗運動の指導者になってもらえないか問い合わせたが、元帥からは「今すぐこの話をやめないのであれば、私は君を逮捕することになる。」と言われ、取り合ってもらえなかった[43]

陸軍はもともと反ヒトラーの機運が強く、彼のこのような発言も聞き流されていはいたが、ゲシュタポの耳に入れば危険だった。次第に彼は参謀本部内でも身に危険を感じるようになり、1942年秋頃から参謀本部を離れたがるようになった。しかし1942年中は許可が下りなかった[39][44][45]

1943年2月3日、ベルリンで短期休暇を過ごしていた際にアフリカ戦線チュニジアの第10装甲師団に主席参謀将校(Ia)として配属する旨の人事異動が通達された。同師団は1942年11月にアルジェリアモロッコに上陸した米英軍と戦っていた。念願の前線勤務となったが、2ヶ月後の4月7日には乗っていた車がイギリス軍機に機銃掃射されて重傷を負ってしまった。ミュンヘンの病院での3ヶ月間の入院生活で命はとりとめたものの、左目を失い、右手の指全て、左手の薬指と小指を切断した。

ヒトラー暗殺計画に参加

7月15日のヴォルフスシャンツェ。左からフォン・シュタウフェンベルク、総統副官プットカマー海軍少将、空軍連絡官ボーデンシャッツ空軍大将(後ろ向きの人物)、ヒトラー、カイテル

フォン・シュタウフェンベルクはこれ以上戦況が悪化する前に一日も早くヒトラーを暗殺してクーデタを起こし、西側連合軍と講和してソ連から守ってもらうしかドイツが助かる道はないと悟った。入院中、見舞いに訪れた母方の叔父ニコラウス・フォン・ユクスキュル・ギレンバント伯爵(Nikolaus Graf von Üxküll-Gyllenband)を通じて現在進行中のヒトラー暗殺計画に加わる事を決意した[46][47]。暗殺計画のメンバーの国内予備軍副司令官フリードリヒ・オルブリヒト大将は、前線勤務を希望した国内予備軍一般軍務局参謀長ヘルムート・ラインハルト大佐の後任としてフォン・シュタウフェンベルク中佐を据えるよう陸軍人事局に手をまわした[48]。フォン・シュタウフェンベルクは、7月3日にミュンヘンの病院を退院した。ヴッパータールの家族を呼びもどしてラウトリンゲンのフォン・シュタウフェンベルク家の城へ戻った[49][50]

1943年9月初めにはベルリンへ赴き、ヘニング・フォン・トレスコウ少将からクーデタ準備の手順を通達された。陸軍の人員補充と国内の治安維持を任務とする国内予備軍の一般軍務局参謀長に就任する予定のフォン・シュタウフェンベルクの役割は、ヒトラー暗殺後に国内予備軍司令部から国内外に17ある各軍管区司令部に対して「ヴァルキューレ作戦」(ドイツ国内有事に備えた作戦)を発令して親衛隊やゲシュタポなど党機関・政府機関の責任者を「反逆者」として拘束することであった。

9月15日、ベルリンの国内予備軍一般軍務局参謀長に就任した(正式な任命は11月1日。職務の引き継ぎや勉強のために就任が早まった)[51]。このポストを得た事により、以降はフォン・シュタウフェンベルクが計画の中心になった。「ヴァルキューレ作戦」の立案を担当する立場だからである。

クーデタ計画の成功は「ヴァルキューレ作戦」を発動した時にドイツ軍の17ある各軍管区司令部がそれに従うかどうかにかかっていた。そのため彼は各軍管区に情報提供者の将校を最低でも一人は確保しようと務めた。彼の持つ説得力、生来の貴族の威厳、明晰な論理などにより17の軍管区のうち15の軍管区で情報提供してくれる将校を確保した[52]。またクーデタ後にはレジスタンス・グループが統一した政権を作りたいと考えていたので、旧ドイツ社会民主党の政治家ユリウス・レーバー(de:Julius Leber)、旧ドイツ国家人民党ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー、反ナチグループ「クライザウ」の中心人物ヘルムート・ジェームズ・フォン・モルトケ伯爵、元プロイセン財相ヨハネス・ポーピッツ(de:Johannes Popitz)、ウルリヒ・フォン・ヘッセル(de:Ulrich von Hassell)といった市民レジスタンスのメンバーとも接触を図った[53]

難題なのはクーデタ計画だけでなく、その前提であるヒトラー暗殺もであった。戦況が悪化してくるとヒトラーはほとんど公の場に姿を見せなくなり、厳重に警備された総統大本営に引きこもるようになっていた。もはや限られた側近以外は近づくことすら困難になっていた。フォン・シュタウフェンベルクらレジスタンスグループの中にもヒトラーに接近できる者はまるでいなかった。ごくまれにヒトラーが公式行事に出席する機会などを狙って、覚悟のある将校に暗殺を実行させようとしたが、決定的な瞬間に怖気づいたり、あるいは計画が何らかの偶然で成就しない事が続いた[54]

ところが1944年5月中頃に突然にチャンスが訪れた。フォン・シュタウフェンベルク大佐(彼は1944年4月1日に参謀大佐に昇進していた[42])が国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の参謀長に就任する事が内定したのだった。この地位につけば国内予備軍の任務である陸軍の人員補充と国内の治安維持を全面時に所管する事になる。ヒトラーの前に出て報告を行う事もある[55]。レジスタンスグループは、フォン・シュタウフェンベルクをヒトラー暗殺の実行者に選んだ。

ヒトラーとの対面

1944年6月7日午後3時52分から4時52分にかけて、フォン・シュタウフェンベルクは、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将とともにヒトラーの別荘「ベルクホーフ」に招集され、「特別状況報告会」という会議に出席した。フォン・シュタウフェンベルクがヒトラーと直接に対面したのはこれが初めてだった[56]

フロムがフォン・シュタウフェンベルクをヒトラーに紹介すると、ヒトラーは指が三本しかないフォン・シュタウフェンベルクの左手を両手で握った。それからヒトラーは震える手で状況図を置き換えはじめ、何度もフォン・シュタウフェンベルクを見つめたという[56]

会議にはヒトラーの他に空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥、内務大臣・親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、軍需大臣アルベルト・シュペーア国防軍最高司令部(OKW)長官ヴィルヘルム・カイテル元帥という早々たるメンバーが参加した。フォン・シュタウフェンベルクは会議後にこの場の空気を「どんよりと腐っていて、息もできないほど」と評し、このメンバーの中で良識がある人物はシュペーアだけで他は全員サイコパスだと感じたという。ヒトラーの目はうるんでおり、みすぼらしく弱弱しい印象を受けたという[56][57]。この会議に彼が爆弾を持っていった形跡はない。最初の対面ということもあり、暗殺が実際に可能かどうか吟味するだけに留めたようだ。彼は「総統の側では自ゆに行動することが許される」という結論に達したのだった[57][56]

繰り返す暗殺計画の延期

フォン・シュタウフェンベルクは1944年6月20日に正式に国内予備軍参謀長に任命された[42]。ソ連軍が東プロイセンに迫っていた。ソ連にドイツ領を踏みにじらせないためには一刻も早くヒトラーを暗殺してクーデターを成功させ、アメリカとイギリスとの講和に持ち込まねばならなかった。

1944年7月6日、べルクホーフに再度招集され、二回の会議に出席した。フォン・シュタウフェンベルクは「ヴァルキューレ作戦」の説明をヒトラーに行った。この時には爆弾を携帯していった。ヘルムート・シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、シュティーフが実行せずに失敗した[58][59]

1944年7月11日午後1時からのべルクホーフでの会議に出席。しかしこの日の会議にはヒムラーとゲーリングが出席していなかった。レジスタンスグループの中心人物であるルートヴィヒ・ベックはSSと警察の指揮権を有するヒムラーとヒトラーの後継者に指名されているゲーリングは一緒に殺害した方がよいと考えていた。フリードリヒ・オルブリヒト上級大将、エーリヒ・ヘプナー上級大将、エーリヒ・フェルギーベル大将らはゲーリングについては特に問題視していなかったが、ヒムラーは絶対に殺さねばならないと主張していた。ヒムラーが生存しているとSSと国防軍の間で内乱が始まる恐れがあったためである。オルブリヒトと連絡を取り、ヒムラーがいない事を告げると、彼は中止を指示した。フォン・シュタウフェンベルクはシュティーフに向かって「こん畜生め。行動すべきではないのか。」と口にしたという。

1944年7月14日、ヒトラーがべルクホーフからソ連との前線が近い東プロイセンの総統大本営「狼の巣」へ移住。フロムとフォン・シュタウフェンベルクも7月15日にそこへ来て、東部戦線へ投入する新しい師団立ち上げについて報告するよう命じられた。フォン・シュタウフェンベルクには不意打ちだった。彼は「狼の巣」にほとんど土地勘がなかった。しかし敵がドイツ国土に迫っている今、ヒトラーがべルクホーフに戻るのを待つ時間はなかった。「狼の巣」で暗殺を決行することとした。

フォン・シュタウフェンベルクがベルリンを発った後、国内予備軍副司令官オルブリヒトとその副官メルツ・フォン・クヴィルンハイム(ともにレジスタンスグループ)は「ヴァルキューレ作戦」を発動し、ベルリン郊外の陸軍学校に最高レベルの緊急出動態勢を取らせた。1944年7月15日の午前にフォン・シュタウフェンベルクが「狼の巣」に到着。この7月15日にはヒムラーも「狼の巣」に滞在していた。だが何故か肝心の会議にヒムラーが出席しなかった。フォン・シュタウフェンベルクは会議を抜け出してにメルツと連絡を取り、ヒムラーの不在を報告した。メルツはその旨をベックやオルブリヒト、ヘプナーら将軍たちに連絡した。将軍たちは計画中止を命じた。フォン・シュタウフェンベルクは堪らず、メルツに「僕ら二人で決めるしかない。」と言い、将軍たちの指示を無視する事を提案した。メルツも「やりたまえ」と答えたが、すでに時期を失していた。ヒトラーはその後まもなく会議を終了させてしまった。

暗殺計画実行

7月20日、東プロイセン総統大本営ヴォルフスシャンツェ」でフォン・シュタウフェンベルクは爆弾をセットした書類カバンを作戦会議室のテーブルの下に持ち込み、急用を理由に素早く立ち去った。爆弾は予定通り爆発したが、下記の予期せぬ事情から暗殺テロは失敗し、ヒトラーは奇跡的に軽傷で生き残った。

  • 2個の爆弾を準備したが、時間がなく1個しかセットできなかった。
  • 当日の気温が高かったため、地下室で行われる予定の作戦会議は地上の会議室で行われた。そのため爆風が窓から逃げ、殺傷力を減じた。
  • 作戦会議の時間と日付が2度変更された。
  • さらに、テーブルの下に置かれた書類カバンを足元が邪魔だと総統副官のハインツ・ブラント大佐がヒトラーの方向に向けてあったカバンを脚部に沿って奥側に押し込んだ。この結果、まともに爆発を受けた4人が死んだが、太い樫の脚部が遮蔽物となり、ヒトラーは爆風から守られた。

フォン・シュタウフェンベルクと彼の副官であるヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉は88mm砲弾の直撃したような爆発を確認した後、ヒトラーの死を確信してハインケルHe111でベルリンへと飛び立った。彼らの乗機を撃墜する命令が司令部から出されたが、命令は共謀者である空軍士官のフリードリヒ・ゲオルギ (Friedrich Georgi) の手に留められた。

ベルリン・ベントラー街:クーデター 

人民法廷での兄ベルトルト。1944年8月10日

7月20日午後3時45分頃、ベルリンの飛行場に到着したフォン・シュタウフェンベルクから連絡を受けたオルブリヒトは、国内予備軍司令官のフリードリヒ・フロム上級大将に「ヴァルキューレ作戦」の発動を具申したが、総統大本営に連絡したフロムはヴィルヘルム・カイテル元帥からヒトラーの生存を告げられたため拒否した。しかしオルビリヒトの副官クイルンハイム大佐が独断で「ヴァルキューレ作戦」を発動し、国内外の軍にヒトラーの死を伝え、クーデター参加を呼びかけた。

午後4時半頃、司令部に到着したフォン・シュタウフェンベルクらも加わり、フロムの説得に当ったが、フロムはなおもカイテルによるヒトラー生存説をたてに、クーデターへの協力を頑強に拒否する。また独断で作戦を発動された事に激怒し、シュタウフェンベルクに自決を迫ったのでクーデター派と小競り合いとなり、司令部内の一室に監禁された。作戦発動の後、総統大本営からヒトラーの生存を伝える情報が出された。相反する二つの命令を受けた各地の軍部隊は混乱し、国内予備軍へ問い合わせが殺到する。フォン・シュタウフェンベルクらは、電話でその説明に追われた。さらにゲッベルス宣伝相らにより、出動して一度は配置に付いたベルリン防衛部隊への切り崩し工作が成功してしまい、外部からクーデターに同調する部隊も現れず、情勢は逆転した。

午後10時半すぎ、国内予備軍司令部内のヒトラー派将校と銃撃戦となり、シュタウフェンベルクは残った左腕に重傷を負う。フロムは解放され、フォン・シュタウフェンベルク、オルブリヒトらクーデター派は逮捕された。午後11時頃、フロムは単独で即決の軍法会議を開き、クーデター派に銃殺刑の判決を言い渡した。フォン・シュタウフェンベルクは「全ての責任は自分にあり、自分以外は軍人として職務に従ったに過ぎない」と主張したが認められなかった。クーデター派のリーダー格、ベック元参謀総長はその場で自決した。

処刑

7月21日深夜0時15分頃に、フォン・シュタウフェンベルク、オルプリヒト、ヘフテン、クイルンハイムら4人は、国内予備軍司令部の中庭で銃殺された。まずオルブリヒトが銃殺され、次いでフォン・シュタウフェンベルク。彼はすでに出血多量で意識がほとんど無かったが、「わが聖なるドイツ万歳!」と叫び銃弾が発射されるその瞬間、ヘフテンが立ちはだかって倒れ、次の銃声でフォン・シュタウフェンベルクも倒れた。最後にクイルンハイムが銃殺された。

政府首脳にはこの処刑が「フロムによる口封じ」と理解され、フロムは陰謀関係者としてゲッベルスによって逮捕され、1945年3月に銃殺された。なおフロムは彼らに軍服や勲章を着用したままの軍人としての埋葬を許可したが、ヒムラーの命によりフォン・シュタウフェンベルクらの遺体は掘り出され、勲章や階級章を剥奪された上で焼却され、灰は野原にばら撒かれた。

フォン・シュタウフェンベルクの兄のベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクも反ヒトラーグループに参加していた。彼はベンドラー街の国内予備軍司令部で逮捕され、8月10日にローラント・フライスラーによって人民裁判所 で裁かれ、その日のうちにベルリンのプレッツェンゼー刑務所でピアノ線による絞首刑に処された。

その後

ファイル:Claus Schenk Graf von Stauffenberg - Helmuth James Graf von Moltke.jpg
シュタウフェンベルクとモルトケの生誕100年を記念したドイツの切手(2007年)
長男のベルトルト

英雄

戦後になり、フォン・シュタウフェンベルクは「ヒトラーに対する抵抗運動の英雄」として賞賛される。戦後、国内予備軍司令部のあったベントラー街 (de) はシュタウフェンベルク街へ改名され、ここに記念館が開設され、ヒトラー抵抗運動の5,000を越える写真や文書が展示されている。暗殺計画に関与した将校達が射殺された中庭には手を鎖でつながれた若者のブロンズ像が象徴として置かれている。

また、シュタウフェンベルク街には国防大臣のベルリン事務所が置かれている(国防省は現在もライン河畔のボンにある)。毎年7月20日ここで外国から賓客を迎え、ドイツ連邦軍の忠誠宣誓式 (de) が行われる。ナチス政権下のドイツでは軍人は「ドイツとドイツ民族の総統であるヒトラーに無条件の忠誠を誓う」と宣誓した。忠誠宣誓の故にドイツ軍人の多くはヒトラー暗殺計画に参画しなかった。マンシュタイン元帥の台詞「プロイセン軍人は反逆しない」は有名である。

しかし、今日のドイツ連邦軍では特定の個人ではなく「ドイツ連邦共和国に忠誠を尽くし、ドイツ民族の自由と正義を守ることを誓う」と宣誓する。昇進できないことを条件に忠誠の宣誓を拒否する権利も認められている。

残された家族

フォン・シュタウフェンベルクは、1933年11月26日にバンベルクでニーナ・フライヘリン・フォン・レルヒェンフェルト(Nina Freiherrin von Lerchenfeld)と結婚した。夫妻は5人の子供、ベルトルト、ハイメラン、フランツ=ルートヴィヒ、ヴァレリおよびコンスタンツェをもうけた。

長男のベルトルトは、戦後にドイツ連邦軍で陸軍少将になった。妻のニーナは2006年4月2日、ドイツ南部のキルヒラウターで死去した。92歳であった。

演じた俳優

映画においてクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を演じた人物

注釈

  1. ^ フランツ・ルートヴィヒ・フィリップ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はバイエルン議会の議員となり、死刑廃止運動に活躍した人物として知られる[1]
  2. ^ 特にヴュルテンブルク王妃シャルロッテ(Charlotte)とは家族ぐるみの付き合いだった。夏になると彼女は頻繁にクラウス・フォン・シュタウフェンベルクの母カロリーナを訪問していた。クラウスらシュタウフェンベルク家の子供たちはこのシャルロッテ王妃を「女王」と呼んでいたという[7]

参考文献

出典

  1. ^ a b c ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)13ページ
  2. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)12ページ
  3. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)180ページ
  4. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)181ページ
  5. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)17ページ
  6. ^ a b c グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)182ページ
  7. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)14ページ
  8. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)18ページ
  9. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)25ページ
  10. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)30ページ
  11. ^ ヴァルター・ゲルリッツ著『ドイツ参謀本部興亡史 下』(学研M文庫)314ページ
  12. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)48ページ
  13. ^ a b c d グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)185ページ
  14. ^ a b c d ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)451ページ
  15. ^ ヴァルター・ゲルリッツ著『ドイツ参謀本部興亡史 下』(学研M文庫)316ページ
  16. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)88ページ
  17. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)90ページ
  18. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)91ページ
  19. ^ a b c グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)186ページ
  20. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)85ページ
  21. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)114ページ
  22. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)96ページ
  23. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)108ページ
  24. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)123ページ
  25. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)187ページ
  26. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)192ページ
  27. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)193ページ
  28. ^ a b ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)138ページ
  29. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)194ページ
  30. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)197ページ
  31. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)198ページ
  32. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)201ページ
  33. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)203ページ
  34. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)204ページ
  35. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)211ページ
  36. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)231ページ
  37. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)230ページ
  38. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)232ページ
  39. ^ a b グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)213ページ
  40. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)235ページ
  41. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)212ページ
  42. ^ a b c ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)452ページ
  43. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)215ページ
  44. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)246ページ
  45. ^ ヴァルター・ゲルリッツ著『ドイツ参謀本部興亡史 下』(学研M文庫)317ページ
  46. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)223ページ
  47. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)277ページ
  48. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)280ページ
  49. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)224ページ
  50. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)279ページ
  51. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)290ページ
  52. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)229ページ
  53. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)231ページ
  54. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)242ページ
  55. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)243ページ
  56. ^ a b c d ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)365ページ
  57. ^ a b グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)245ページ
  58. ^ ペーター・ホフマン著『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 「ワルキューレ」に賭けた一族の肖像』(原書房)386ページ
  59. ^ グイド・クノップ著『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』(原書房)248ページ

関連項目

外部リンク

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