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佐賀の乱

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佐賀の乱さがのらん)は、1874年明治7年)2月に江藤新平島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。

概要

佐賀の乱を報じた東京日日新聞の記事
佐賀の乱慰霊碑。佐賀市水ヶ江にある。地元有志によって大正年間に建立(2005年5月撮影)

征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇副島義高らを擁する憂国党による士族を中心とした反乱であり、以後続発する旧藩士による乱の先陣となった。

征韓党と憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。また、江藤はそもそも不平士族をなだめるために佐賀へ来たのである。しかし、江藤は島より、既に政府が佐賀士族討伐の方針であることを聞き、挙兵の決意を固めざるを得なかった。

明治7年2月9日、内務卿大久保利通は、文官でありながら兵権を握る権限を得て、嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)を征討総督とし、東京、大阪の鎮台部隊等を直ちに動員した。戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族も政府軍に協力した。

まず、佐賀軍は、2月15日に県庁が置かれた佐賀城佐賀県佐賀市)に籠もる岩村高俊の率いる熊本鎮台部隊と交戦して大損害(3分の1が死亡)を与え敗走させた。さらに福岡との県境の朝日山(現・鳥栖市)まで進んで2月22日には新手の政府軍部隊を迎撃、三瀬峠では、小笠原義従の部隊等を散々に破った。しかし、大久保利通が直卒した近衛兵鎮台兵などが次々と戦線に投入されると、佐賀軍は次第に劣勢となる。この後も佐賀軍は善戦し、佐賀県東部の中原では、政府軍を包囲殲滅する直前まで追い込んだが、官軍指揮官の、陸軍少将野津鎮雄が自ら先頭に立って兵を励まし戦ったので、ついに敗れた。

2月28日、政府軍が佐賀城下に迫ると江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めた。しかし、西郷に決起の意思はなかったため、今度は土佐へ向かい片岡健吉と林有三に挙兵を訴えた。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日高知県東洋町甲浦で捕縛される。捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、江藤は裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかったという。

島義勇は、佐賀で討ち死にするつもりであったが、副島義高らが「境原で官軍を防ぐので再起を期せ」と無理矢理脱出させた。島は、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが3月7日に捕縛された。

江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に審議を行わせた。わずか2日間の審議で11名が4月13日の判決当日に斬首となり、江藤と島はさらし首にされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝がある。その後もしばらくは佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、1877年(明治10)の西南戦争などに合流する士族もあったが、佐賀で反乱が起こることはなかった。なお、反乱後しばらく庶民の間で、江藤の霊を信仰すると眼病が癒り、訴訟ごとがスムーズに決着するとの風聞が流れた。

1919年(大正8)、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されるとともに、地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。

経過

  • 1874年(明治7)1月16日 征韓党士族が「征韓先鋒」の出願を決議。県に弘道館の貸与を強請。
  • 1月25日 前参議江藤新平、佐賀に帰郷。征韓党の勢いが高進。
  • 1月28日 岩村通俊前権令の実弟岩村高俊が後任に任命される。岩村は長岡藩家老河井継之助の中立歎願を拒絶し、北越戦争の発端をつくった人物である。
  • 2月1日 憂国党に属する士族が官金預かり業者である小野組に強引に金談。店員ら逃亡。
  • 2月4日 政府、熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令。谷は拙速命令と批判。
  • 2月5日 政府の鎮圧命令を佐賀士族が電信局で探知。士族が沸騰し、森参事ら他県出身の県官は逃亡。
  • 2月9日 内務卿大久保利通に九州出張命令。捕縛・処刑、兵力による鎮撫の権限を委任される。
  • 2月13日 岩村権令が熊本に到着。入県の護衛を谷干城に依頼。長崎に移っていた江藤も佐賀に戻り、「決戦の議」を起草。三条実美の要請に応じて帰国した前侍従島義勇も同調し、征韓・憂国両党の結束が強まる。
  • 2月14日 山川浩少佐の左半大隊と岩村権令が熊本鎮台から海路、佐賀に向かう。大久保内務卿、東京鎮台兵とともに横浜を出航。
  • 2月15日 岩村と鎮台兵、佐賀城の県庁に入る。翌未明より佐賀士族が城を包囲し砲撃。岩村らの乗船も拿捕される。
  • 2月18日 岩村権令と山川少佐ら、食糧と弾薬が不足したため、包囲を突破して久留米に撤収。奥保鞏大尉は負傷し、将兵332名中137名戦死。
  • 2月19日 佐賀征討令が発せられる。大久保内務卿と野津鎮雄少将、博多に到着。
  • 2月20日 野津少将指揮の東京鎮台砲隊と大阪鎮台二個大隊、集結を終え、夕刻より行動開始。
  • 2月22日 鳥栖近郊の朝日山で佐賀士族と政府軍が激突。佐賀士族、後退し政府軍は長崎街道沿いに中原に進む。
  • 2月23日 政府軍、兒玉源太郎大尉が重傷を負うなど激戦の末、寒水川を渡る。さらに吉野ヶ里遺跡付近の田手川に設けられた阻止線を突破。江藤は西郷隆盛の援軍を仰ごうと、征韓党幹部を連れて鹿児島へ脱出。神埼(神埼町)が焼失した。
  • 2月27日 政府軍、総攻撃開始。姉村、境原で激戦。三瀬峠も福岡士族の貫属隊に突破される。
  • 2月28日 憂国党幹部の木原隆忠と副島義高が休戦交渉。政府軍は拒絶。島らは鹿児島に脱出。長崎から入った海軍の陸戦隊が無人の佐賀城を確保する。
  • 3月1日 大久保内務卿と政府軍、佐賀城に入城。征討総督嘉彰親王、近衛兵を率い東京出発。江藤、宇奈木温泉で西郷隆盛に面会。支援を拒絶される。
  • 3月7日 島義勇、鹿児島で捕縛される。16日に佐賀に護送される。
  • 3月14日 総督嘉彰親王、佐賀に到着。
  • 3月29日 逃亡中の江藤が高知県の甲ノ浦で捕縛される。
  • 4月5日 佐賀臨時裁判所設置。
  • 4月7日 江藤が佐賀に護送される。
  • 4月9日 江藤らの尋問開始。大久保、嘉彰親王に随従し傍聴。
  • 4月13日 江藤・島ら11名に死刑判決が下る。即日処刑される。
  • 1919年(大正8)7月1日 大韓帝国の皇太子であった李垠と皇族梨本宮方子女王の婚約発表による特赦令により、江藤や島など逆賊扱いされていた佐賀の乱の首謀者らが赦免される。
  • 1920年(大正9) 地元佐賀に、佐賀の乱の慰霊碑が建立される。

関連項目

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