三田 (東京都港区)
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三田(みた)は、東京都港区の地名。現在の住居表示では一丁目から五丁目まである。当地域の人口は、14,897人(2007年11月1日現在、住民基本台帳による。港区調べ)。
概要
一丁目と五丁目の古川(渋谷川)沿いの低地には住宅地・商店街が混在している。また二丁目の高台には高級住宅地が広がり、三井倶楽部(旧三井邸)、オーストラリア大使館(旧蜂須賀侯爵邸跡地)などがある。三丁目には主に商業地が広がる。四丁目は月の岬上が寺町となっており寺院が多数存在し、荻生徂徠の墓がある。
「三田」の名の由来は、この地に朝廷に献上する米を作る屯田(みた)が存在したからとも、伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた)があったからともいわれる。江戸時代は大名屋敷や御家人の屋敷がならんだ。台地として月の岬が存在し、かつては風光明媚な地として知られた。
目黒区にある三田は目黒三田とも呼ばれ、現在では港区三田とは遠く離れた別個の町であるが、元来は同じ三田郷を起源とする荏原郡三田村の飛び地であり、同一の村に所属していた。
歴史
- 戦国時代までに、荏原郡三田郷として成立する。三田の名は、吾妻鏡の中の正嘉2年(1258年)3月1日の条にすでに記されている。
- 江戸時代初期、三田郷の地に三田村が成立し、荏原郡に所属する。
- 寛文2年(1662年)、三田村に商家が立ち並ぶようになり、その地域が三田一~四丁目、三田台町一・二丁目などとして三田村から分離し、町奉行支配となる。これ以降、延宝年間までの20年ほどの間に計14ヶ町が次々と三田村から独立し、町奉行支配となった。このとき新たに成立した三田14ヶ町は、三田一~四丁目・三田台町一~二丁目・三田同朋町・三田久保町・三田古川町・三田豊岡町・三田老増町・三田南北代地町・三田台裏町・久保三田町。
- 明治元年(1868年)、東京府成立に伴い三田地区の町と三田村は東京府所属となる。
- 明治2年(1869年)、三田地区の一部に町域統廃合が行われ、三田久保町・三田南北代地町などが消滅し、代わりに三田小山町・三田松坂町などが成立する。
- 明治5年(1872年)、三田地区の武家地・寺地が新たに町として独立することになり、三田四国町・三田綱町・三田南寺町などが起立される。
- 明治11年(1878年)、芝区・麻布区の成立に伴い、三田地区の町と三田村の大半は芝区に、また一部は麻布区の所属となる。
- 明治22年(1889年)、三田村の残余部分(現在の目黒区三田)が隣接する荏原郡目黒村に編入され、三田村が消滅する。
- 昭和22年(1947年)、芝区が麻布区・赤坂区と合併して新たに港区が成立する。それに伴い三田地区の町名に「芝」の冠称がつく。
- 昭和39年(1964年)7月1日、住居表示の実施に伴い、三田地区のうち芝三田四国町・芝三田同朋町が港区芝に編入される。
- 昭和42年(1967年)7月1日、住居表示の実施に伴い、三田地区の大部分と周辺地域を併せて港区三田が成立する。また、三田台町三丁目・三田松坂町の一部は港区高輪となる。
- 昭和44年(1969年)1月1日、住居表示の実施に伴い、三田地区の残余部分(三田老増町)が港区白金となる。
住居表示実施前後の町名の変遷
実施後 | 実施年月日 | 実施前(各町名ともその一部・芝三田地区は太字) |
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三田一丁目 | 1967年7月1日 | 芝三田小山町、芝新門前町、芝新門前河岸、芝赤羽町、麻布飯倉町五丁目 |
三田二丁目 | 芝三田一・二・四丁目、芝三田綱町、芝三田北寺町、麻布新広尾町一丁目 | |
三田三丁目 | 芝三田二~四丁目、芝三田功運町、芝田町四~九丁目、芝通新町 | |
三田四丁目 | 芝三田四丁目、芝三田北寺町、芝三田南寺町、芝三田台町一~三丁目、芝三田豊岡町、 芝三田功運町、芝三田松坂町、芝通新町、芝伊皿子町 | |
三田五丁目 | 芝三田豊岡町、芝三田松坂町、麻布新広尾町二丁目 | |
高輪一丁目 | 1967年7月1日 | 芝三田松坂町、芝三田台町三丁目など (その他については高輪の項を参照のこと) |
白金一丁目 | 1969年1月1日 | 芝三田老増町、芝白金三光町、芝白金志田町、麻布新広尾町二丁目、麻布田島町 |
白金二丁目 | 芝三田老増町、芝白金三光町、芝白金台町一丁目 |
地区内の施設・名所
- 三田一丁目
- 三田二丁目
- 慶應義塾大学
- 綱町三井倶楽部
- オーストラリア大使館
- 慶應義塾中等部
- 慶應義塾女子高等学校
- 綱坂
- 綱の手引き坂
- 津國屋(150年の歴史を誇る老舗の酒屋)
- 三田三丁目
- 三田四丁目
- 三田五丁目