日本本土の戦い
日本本土の戦い(にほんほんどのたたかい)は、太平洋戦争末期における連合軍の日本本土進攻によって起きた戦闘。
概要
フィリピンの戦いで連合艦隊と30万人の守備隊が壊滅し、油田地帯を失ったことで戦争の勝敗は明らかとなった。大本営は日本有利な講和の道を詮索するため、米軍に少しでも多くの打撃を与えることのみを考えた。そのため一億玉砕を訴え、6月には義勇兵役法を定め国民2000万人を徴兵した。特別攻撃はますます本格化した。
日本本土空襲
1944年11月にサイパン島が占領され、サイパン基地から発進したB-29による本土空襲が開始された。軍需工場だけでなく民間施設も空襲を受け、終戦までに582,873人の死者、行方不明者と344,820人の負傷者を出した。[1]性能の劣る日本機ではB-29に対抗する事は極めて困難であったため、各地で航空機による体当たり攻撃が行われた。終戦までに700機を撃墜したが、日本全土は焦土と化した。
硫黄島の戦い
1945年2月16日に硫黄島に米軍が上陸した。日本軍は2万人の兵力で、優勢な火力を要する7万人の米軍を相手に戦う事態となった。硫黄島の日本軍は1,023人の捕虜を除いて全滅したが、栗林忠道中将の優れた指揮により米軍に28,686もの損害を与えた。
東京大空襲
3月10日に東京がB-29、325機による大空襲を受けた。民間人の死者は10万人を超え、東京の3分の1が焼失した。日本軍は来襲したB-29325機のうち12機を撃墜、42機を撃破した。
呉軍港空襲
3月19日、7月24日、25日に連合艦隊の母港である呉が艦載機1,300機による空襲を受けた。これにより残存していた艦隊は壊滅した。
沖縄戦
3月26日に沖縄に米軍が上陸。
大和特攻
一億玉砕を訴える軍部は、総特攻の先駆けとして大和が沖縄へ水上特攻を決行。航空援護は殆どなく戦艦と駆逐艦による単独強襲という無謀な作戦であり、沖縄へ向かう途中で米艦載機386機による空襲を受け撃沈した。米国側資料によれば、魚雷15本と爆弾10発以上が命中し、弾薬庫に引火したのち大爆発を起こして轟沈した。[2]爆発の様子は200キロ離れた鹿児島で目撃されたほどだった。
菊水作戦
4月6日から6月22日にかけて沖縄の救援のため特攻機1,827機による特別攻撃が決行された。初の特攻がレイテ沖海戦で行われたとき、空母「セント・ロー」を撃沈する戦果を挙げていたため、特攻攻撃は大きな効果があると判断されたのである。結果的に218隻に損傷を与えたものの、一隻の空母、戦艦も撃沈できなかった。艦船の防空能力が増していた為突入前に撃墜されたり、レーダー探知で直援機の攻撃を受けたり、命中しても爆弾一発では弾薬庫に引火しない限り撃沈する事はなかった。だが、神風攻撃は米軍に恐怖心を与え、戦争神経症になる者が続出した。[3]
ソ連対日参戦
8月にソ連が日本に宣戦布告。満州、樺太・千島列島に侵攻した。中国共産軍とイギリス軍を相手にして消耗しきっていた日本陸軍は、5月にドイツを降伏させており圧倒的な戦力で侵攻するソ連に蹂躙された。植民地であった満州国で多くの日本人が犠牲になり、樺太、千島列島では多くの住民らが自決した。既に日本はポツダム宣言で無条件降伏を受諾しているにも関わらず、18日にソ連は千島列島の北端である占守島に奇襲侵攻した。(占守島の戦い)守備隊は占守島を死守し、21日にはソ連は停戦調停に合意した。これによりソ連の侵攻は大幅に遅れ、その間に米軍の北海道進駐が完了したため、ソ連の侵攻は避ける事が出来た。ソ連は北海道を共産圏として支配する事を目標としており、占守島が占領された場合ソ連の北海道進駐が可能となった為、占守島の守備隊がソ連による日本分割から守ったと考える人もいる。[4]
結果
日本は本土決戦に備えて陸海軍450万人と新型兵器の配備[5]を進めていたが、広島・長崎への原爆投下によって8月15日に無条件降伏を受け入れた。もし原爆が投下されなかった場合、ダウンフォール作戦によって九州に30万、東京に100万の米兵が上陸し、日本は東西南北に分割されそれぞれアメリカ、イギリス、中国、ソ連の支配下に置かれる予定となっていた。