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渡辺康幸

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渡辺康幸(わたなべ やすゆき、1973年6月8日 - )は、日本の陸上競技選手。専門は長距離走。船橋市立船橋高等学校早稲田大学卒業。千葉県出身。

略歴・人物

出身小学校は千葉市立畑小学校。1年の2学期より同県八千代市の小学校から転入した。転入当時の同級生達の証言では、短距離・長距離走とも既に小学校3年レベルだったという。小学校のマラソン大会では6年連続1位。小学校6年の秋に行われた千葉市の小学校陸上大会では1000mで2位になり、記録は3分17秒だった。

出身中学校は千葉市立花園中学校。渡辺が中学校3年の時に第1回千葉国際駅伝が開催され、まさにこの中学校の前をアンカーの瀬古利彦が駆け抜けた。これは瀬古の引退レースでもあった。 高校進学時には、いくつかの学校から推薦入学の話が来ていた中で、両親からは大学へ内部進学可能な東海大学付属浦安高等学校に進むよう意見されていた。しかし、小学校時代の友人の強い薦めもあり、両親の反対を押し切って一般入試で船橋市立船橋高等学校普通科に進学した。

船橋市立船橋高等学校時代、全国高等学校駅伝競走大会(京都・都大路)2年連続1区区間賞を獲得(花の1区の連覇は30年ぶり史上4人目)。2年次には29分42秒でコース新記録。3年次には29分34秒であったが、気象条件が悪かったことや7km過ぎで腹痛を起こした中での記録であった。ちなみに都大路前の関東大会1区では高校生ランナー初の28分57秒を記録している。また高校2年次から国内では無敵を誇り、5000mは14分14秒、10000mは29分42秒でインターハイ、国体とも優勝した。そして3年次にはインターハイ5000mを14分18秒で、1500mも3分51秒24で制した。更に国体10000mも29分11秒で優勝している。

高校3年の秋には当時の10000mの高校記録となる28分35秒を記録(それまでの記録は櫛部静二の29分11秒)。当時早稲田大学のコーチだった瀬古利彦からも20年に1度の逸材と将来を嘱望され、早稲田大学に進学した。

早稲田大学競走部時代は箱根駅伝に1年から出場し、いきなり2区区間2位。区間1位はマヤカ(山梨学院大)であったが、渡辺の1時間8分48秒は1年生ながらに区間賞をとってもおかしくない程の好記録であった。2年次には1区1位(区間新)、1時間1分13秒というハーフマラソンの日本記録を上回るとてつもない記録であった。3年次には2区1位(区間新)。これは史上初の1時間6分台(1時間6分48秒)であり、マヤカも遠く及ばない記録であった。4年次にも2区1位(記録は1時間6分54秒。2区で1時間6分台を2度出した選手はおらず、翌月に東京国際マラソンにエントリーしていたために箱根の準備はしていなかったことを考慮すると、前年の記録以上に価値のあるものであった)と3年連続区間賞を獲得し、天才ランナーの名をほしいままにした。 なお、2年当時の早稲田大学は、武井隆次・櫛部静二・花田勝彦(4年)、小林正幹(3年)、小林雅幸(1年)らを擁しており、強力な先輩と優秀な後輩に挟まれて恵まれた環境であったことも幸いしたと言えよう。

4年次の1995年第27回全日本大学駅伝対校選手権大会では、中央大学との1分31秒という大差を松田和宏とのアンカー勝負で見事逆転、区間新で優勝している。 トラックでも、10000mでは世界選手権予選(1995年8月)で17年ぶりに瀬古利彦の学生記録を更新(27分48秒55)し、9月の福岡ユニバーシアードでは金メダルを獲得している。5000mでは日本インカレを1994・95年と制している。

大学卒業後はヱスビー食品に入社。1996年には初めてのフルマラソンとなるびわ湖マラソンに出場するも2時間12分台でアトランタオリンピックマラソン代表には選出されなかった。その後日本選手権10000m五輪予選会で27分51秒97の3着となり、男子10000m代表に選出されたが、アキレス腱痛により直前で出場を回避した。1998年には再起をかけ福岡国際マラソンに出場するも33キロ過ぎで無念の途中棄権となった。

大器として期待されたが、7年間で7度という慢性的なアキレス腱の故障などによって大成できずに終わった。また、マラソン転向も期待されていたが、結局実現しなかった。引退に際して「一度、本当にいい状態でマラソンを走りたかった。」とその心情を吐露している。箱根駅伝で燃え尽き大成できなかった選手として、同駅伝を批判する際にしばしば例として挙げられる選手である。

引退後は母校・早稲田大学の駅伝監督に就任。成果を挙げているとは言いがたい状況が続いていたが、2007年箱根駅伝では同大学として5年ぶりのシード権を獲得(総合6位)した。そして2008年箱根駅伝では自身が果たした往路優勝を12年ぶりに果たした。

現在、現役時に比べて20kg程度太っているという。

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