コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

池山隆寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Localgains (会話 | 投稿記録) による 2007年10月15日 (月) 08:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (来歴・人物)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

池山 隆寛いけやま たかひろ1965年12月17日 - )は、元プロ野球選手内野手)、野球解説者兵庫県尼崎市出身。現役時代はヤクルトスワローズで19年間活躍し、引退後はフジサンケイグループ野球解説者を務めた。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチ。血液型はAB型。

来歴・人物

兵庫県尼崎市立尼崎高等学校卒業。1983年同高校3年次に甲子園出場、3回戦で敗れる。高校全日本選抜チームに選ばれ、同年のドラフト会議で、ヤクルト、巨人近鉄の3球団競合の末、ヤクルトが交渉権を獲得し2位指名で入団(1位は高野光)。大型内野手、10年に1人の逸材と言われて期待され、長距離打者としての頭角を現す。池山を初めて見た江夏豊は「中米の選手のようなバネを持つ選手」と評価している。また、桑田真澄は、時として思い切りの良すぎる池山の独特のコースの読みに対して、「もうすこし考えて打ってほしい」と、自らの投球術が通用しないことに苦笑しながらも高い評価をしている。

入団当初こそ打力よりも俊足巧打な点が評価されていた選手であったが、やがて足を高く上げた豪快なスイングに切り替え、本塁打も多かったが三振も多いというそのバッティングから「ブンブン丸」の愛称で親しまれた(他に、バックスクリーンへの美しい弾道のホームランが多かったことから、「ミスターバックスクリーン」の異名も)。同じく豪快なスイングが特徴の広沢克己とのコンビは、二人のニックネームを取ってイケトラコンビと呼ばれ、共にチームの看板選手として活躍し、1980年代後半から1990年代にかけてのヤクルトの人気を支えた。準永久欠番となっていた若松勉の背番号1を引き継ぎ、「ミスタースワローズ」とも呼ばれた。

1989年に在籍していたラリー・パリッシュに、広沢を加えた3人ともがシーズン100三振を超えたことから「100三振トリオ」、3人のイニシャルを取って「HIP砲」とも呼ばれた。1988年から、5年連続で30本塁打を記録。1990年には.303、31本塁打、97打点と、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成し(これは、他には野村謙二郎松井稼頭央の2人しか達成していない記録であり、97打点は遊撃手の歴代最多打点である。)、同年8月23日の中日戦でサイクルヒットを達成した。1993年5月19日での対広島戦では1イニング2本塁打を記録したが、その試合はもつれにもつれた試合となり試合が終わったのは0時過ぎとなったためにインタビューに答えた池山は「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、本当に昨日の出来事となったという今になってみれば笑い話となっている。尚、試合はヤクルトのサヨナラ勝ち。

打撃での活躍が目立つ一方、堅実かつ華麗な守備での貢献度も高く、好プレー集の常連でもあった。1991年には、遊撃手として当時の日本新記録である守備率.9941、連続守備機会無失策記録405を記録している。しかし、粗い打撃のイメージが強かったせいか、ゴールデングラブ賞の受賞はわずか1回にとどまった。監督が関根潤三から野村克也に代わると、三振を減らすように命じられ、確実性は上昇したものの本塁打は減少の一途を辿る。この是非に関しては、ファンの間でも論議を呼んでいる。

長らく中軸打者を務めつつ、ショートという負担の大きなポジションを任されていたが、アキレス腱痛に悩まされ、宮本慎也の台頭により、1997年前後からサードへコンバートされた。さらに、岩村明憲へサードのポジションと背番号1を譲り、代打を務めることが多くなった。しかしその後も、ベンチの最前列で常に赤いメガホンを持ってチームを鼓舞し続け、誰よりも先にベンチに帰ってくるチームメイト出迎えるなどチームの精神的支柱の存在であった。2001年は代打の切り札としてチームの優勝・日本一に貢献した。若松勉監督は「スター選手が控えの立場になれば心の中で納得できないこともあっただろう。それでも常に最前列で声を出し、先頭に立ってチームメイトを出迎える池山の姿勢には頭が下がる。池山がいたからこそ優勝できた」と後に語っていた。

2002年に長年の持病であったアキレス腱痛のため引退。会見の席で「調子のいい時の自分の打席のビデオを手本に頑張ってきたが、その姿がかつての自分ではなく、全く違う誰かに見えるようになった」と引退の理由を語っていた。現役最後の打席も豪快な空振り三振だった。通算成績は打率.262、304本塁打、898打点、1440三振。引退後はフジテレビ・ニッポン放送サンケイスポーツ野球解説者に転身した。2006年より、恩師野村監督の下で楽天の打撃コーチに就任し現在に至る。夫人は自身と同じ生年月日の元モデル真田ゆりか占い師によると出逢ったのは奇跡、とのこと。なお、池山自身は大の競馬好きであり、ゆりか夫人とも競馬が縁で結婚したらしい。

なお、1993年には小室哲哉作曲による「自由の女神」という楽曲を発表している。この曲は1993年に発売された「TO THE TOP VICTORY ROAD」という当時のヤクルトの一部の主力選手が歌った楽曲を集めたCDに収録されている。このCDには、池山のほかにも古田敦也高津臣吾、高野光、広沢克己などの楽曲も収録されている。

引退試合

2002年10月17日、消化試合にもかかわらず神宮球場には多くのファン(主催者発表で45,000人)が駆けつけ引退を惜しんだ。3番ショート(途中からファーストに入る)でスタメン出場し、最近の引退試合では珍しくフル出場した。さらに延長戦まで持ち込まれる熱戦になり、最終打席は奇しくもホームランが出れば逆転サヨナラという劇的な場面となった。結局長谷川昌幸の150km/h超のストレートの前に三球三振であったが、ヤクルトファンだけではなく対戦相手であったカープファンの中にも、彼らしい豪快なフルスイングに感動し、泣いている人もあった。引退挨拶では、同年7月に亡くなった応援団「ツバメ軍団」団長であった岡田正泰へも感謝の意を表した。

年度別成績

  • 表中の太字はリーグ最多数字
年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死球 三振 打率(順位)
1984年 ヤクルト 10 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .000
1985年 65 85 5 12 3 0 0 1 1 1 0 8 29 .141
1986年 65 147 17 36 10 1 6 15 2 4 2 9 47 .245
1987年 127 400 42 100 25 1 13 46 3 11 2 40 112 .250(29)
1988年 130 504 72 128 21 2 31 81 12 8 4 38 120 .254(22)
1989年 130 484 80 128 13 2 34 74 6 6 2 48 141 .264(24)
1990年 130 502 83 152 25 4 31 97 11 2 2 50 100 .303(8)
1991年 132 498 74 134 28 1 32 80 13 1 4 54 124 .269(21)
1992年 127 477 74 133 29 2 30 79 13 1 4 54 148 .279(16)
1993年 108 390 63 100 15 1 24 71 10 3 4 54 95 .256(23)
1994年 99 362 46 94 16 0 19 55 8 0 4 36 83 .260
1995年 130 456 64 120 24 2 19 70 8 0 3 61 105 .263(23)
1996年 53 183 20 49 11 0 7 29 3 0 1 21 40 .268
1997年 124 439 65 121 26 3 18 79 11 2 9 55 76 .276(21)
1998年 118 400 63 110 20 0 18 59 3 2 1 52 79 .275(15)
1999年 60 204 22 45 4 0 8 23 1 4 3 14 47 .221
2000年 67 157 21 36 3 0 9 21 3 2 0 16 43 .229
2001年 65 73 7 14 4 0 4 12 0 0 3 9 30 .192
2002年 44 43 1 9 1 0 1 6 0 0 0 5 19 .209
通算成績 1784 5811 819 1521 278 19 304 898 108 47 48 625 1440 .262

タイトル・表彰・記録

1991年6月1日から同年9月28日にかけて記録。セ・リーグ遊撃手の最高記録。

背番号

関連項目

外部リンク

');