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[[常陸国]][[助川海防城|助川城]]城主・山野辺家の譜代家臣[[寒河江氏|寒河江家]]の出身。[[文化 (元号)|文化]]3年、寒河江勝隆、槇の長子として水戸の山野辺邸内に生まれる{{sfn|神永敏子『幕末水戸藩士の眠る丘』風濤社、1997年}}。15歳で山野辺氏に仕え、のち老職となった。人柄は剛直で、武芸に通じていたとされる{{sfn|鈴木彰『日立の歴史と伝説』日立史談会、1941年}}。 |
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天保10年以来、山野辺家の召しに応じ、たびたび[[助川海防城|助川城]]で駐鎚した[[大慶直胤]]に鍛刀を学んだ。[[助川海防城|助川城]]での同門に善定近則、直江助俊、源直吉らがいる。助川城初代城主、[[山野辺義観]]も余技で鍛刀をしたため、勝永はその手ほどきをした{{sfn|関山豊正『水戸の刀匠』郷土史研究会、1959年}}。「大江」の号は、祖先が因幡守大江貞種であったことから{{sfn|鈴木彰『幕末の日立 : 助川海防城の全貌』郷土ひたち文化研究会, 1974年}}。 |
2024年2月10日 (土) 14:08時点における版
大江 勝永(おおえ かつなが、本名・寒河江忠左衛門勝永。1806年3月11日(文化3年1月22日) - 1864年10月9日(元治元年9月9日))は、江戸時代後期の水戸藩の武士であり刀工。山野辺家重臣。大慶直胤門。
来歴
常陸国助川城城主・山野辺家の譜代家臣寒河江家の出身。文化3年、寒河江勝隆、槇の長子として水戸の山野辺邸内に生まれる[1]。15歳で山野辺氏に仕え、のち老職となった。人柄は剛直で、武芸に通じていたとされる[2]。
天保10年以来、山野辺家の召しに応じ、たびたび助川城で駐鎚した大慶直胤に鍛刀を学んだ。助川城での同門に善定近則、直江助俊、源直吉らがいる。助川城初代城主、山野辺義観も余技で鍛刀をしたため、勝永はその手ほどきをした[3]。「大江」の号は、祖先が因幡守大江貞種であったことから[4]。
婚姻
山野辺家の家臣・安達氏の女性を娶り、五男四女をもうけている[2]。息子の延之進勝知も、勝永とともに山野辺家に仕えた[5]。また八十八郎はのちに、日立市立助川小学校の第三代校長となっている[6]。
最期
元治元年、水戸藩は大きく天狗党と諸生党の二派に分かれ、幕府や他藩を巻きこんでの内紛状態にあった。いわゆる「天狗党の乱」である[7]。
時の助川城主・山野辺義芸は、水戸城にたてこもった諸生党・市川三左衛門の元、人質同然となっていた徳川斉昭夫人らの解放を呼びかけるため、8月23日、百余人を率いて水戸城へ向かった。この出立は、市川らに助川城への入場を拒まれ、その鎮撫に苦慮していた宍戸藩主・松平頼徳からの救援要請に応えるためでもあった。しかし、市川ら諸生党は義芸の入城も拒絶。勝永が道理を尽くして説得を試みたが受け入れず、逆に山野辺軍への攻撃を開始した。
この時、「諸生党に与する博徒勢が助川城に迫りつつある」との急報が入り、山野辺軍は急遽反転。松平頼徳の配下と合流し、石名坂の合戦、金沢の合戦を経て、8月25日、助川城に帰りついた。ところが直後、義芸は幕府から逆賊と見なされてしまう。天狗党と行動を共にしていた頼徳軍と義芸が合流したこと、また、山野辺家がもともと水戸藩改革派の重鎮であったことを理由に、市川三左衛門が幕府の天狗党追討軍総督・田沼意尊と相図った結果だった[5]。
差し向けられた二本松藩・磐城平藩・常陸松岡藩の追討軍に、諸生党の各隊、および動員された各村の人足790名をくわえた大軍勢によって、助川城は完全包囲される。追討軍への弁明は通じず、城主・山野辺義芸は他日を期して、9月6日、家臣とともに投降。勝永は長谷川繁之介、神永伝兵衛ら24人と城にとどまり、包囲軍に応戦して、約3日間耐えしのいだ。しかし9月9日、城はついに落城し、勝永は應手口の近辺で敵に捕斬された。享年58歳[3][4][5]。
主な作品
武家の慰み打ちであるため、作品数は極めて少ない。勝永が製作した刀としては以下が確認されている[3][8][9][10][11]。
- 太刀 (日立市指定文化財)
- 銘「造 大江勝永(花押)/安政三年常陽介川大平山於桃氏亭」
- 刃長76.1センチメートル
- 刀
- 銘「大江勝永作/文久二年八月日」
- 刃長52.7センチメートル
- 刀
- 銘「大江勝永作/文久三年二月日」
- 刃長不明
- 刀
- 銘「大江勝永作/文久三年四月日」
- 刃長83.7センチメートル
- 脇差
- 銘「安政二年大江勝永作/於介川桃氏亭」
- 刃長不明
- 短刀
- 銘「造勝永(花押)/嘉永七仲春」
- 刃長23.0センチメートル
- 薙刀
- 銘「常州介川騎士 大江勝永造之/嘉永七年仲春」
- 刃長78.2センチメートル
大江勝永(寒河江忠左衛門)が登場する作品
- 小説『助川城炎上す』北川公二郎(那珂書房、2005年)
墓所
- 東松山薬師面墓地(茨城県日立市城南町)
参考文献
- 鈴木彰『日立の歴史と伝説』日立史談会、1941年。
- 関山豊正『水戸の刀匠』郷土史研究会、1959年。 NCID BB0050464X。
- 鈴木彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』崑書房、1978年。 NCID BA60483675。
- 『銕の意匠 -水戸刀と刀装具の名品-』茨城県立歴史館、1996年。 NCID BA47563849。
- 『鋼と色金 茨城の刀剣と刀装』茨城県立歴史館、2021年。 NCID BC05737176。
出典
- ^ 神永敏子『幕末水戸藩士の眠る丘』風濤社、1997年.
- ^ a b 鈴木彰『日立の歴史と伝説』日立史談会、1941年.
- ^ a b c 関山豊正『水戸の刀匠』郷土史研究会、1959年.
- ^ a b 鈴木彰『幕末の日立 : 助川海防城の全貌』郷土ひたち文化研究会, 1974年.
- ^ a b c 鈴木彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』崑書房、1978年.
- ^ 日立市の歴史点描「佐藤敬忠 山野邊氏の家臣を受け入れる」
- ^ 『水戸市史 中巻五』水戸市史編纂近現代専門部会、1972年.
- ^ 『銕の意匠 -水戸刀と刀装具の名品-』茨城県立歴史館、1996年.
- ^ 『鋼と色金 茨城の刀剣と刀装』茨城県立歴史館、2021年.
- ^ 藤代義雄『藤代月報』 7月號(179)、1939年.
- ^ 関山豊正『水府剣工勝村徳勝の研究』明鏡堂刀剣店、1977年.