「大江勝永」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
49行目: | 49行目: | ||
・刀<br>銘「大江勝永作/文久三年四月日」<br> |
・刀<br>銘「大江勝永作/文久三年四月日」<br> |
||
刃長83. |
刃長83.7センチメートル |
||
・脇差<br>銘「安政二年大江勝永作/於介川桃氏亭」<br> |
・脇差<br>銘「安政二年大江勝永作/於介川桃氏亭」<br> |
2024年2月5日 (月) 18:21時点における版
大江勝永 (おおえ かつなが、本名・寒河江忠左衛門勝永。文化3年1月22日~元治元年9月9日)は、江戸時代後期の水戸藩の武士であり刀工。山野辺家重臣。大慶直胤門。
来歴
文化3年、水戸の山野辺邸内に生まれ、15歳で山野辺氏に仕えて、のち老職となった。人柄は剛直で、武芸に通じていたとされる。[1]
天保10年以来、山野辺家の召しに応じ、たびたび助川城で駐鎚した大慶直胤に鍛刀を学んだ。助川城での同門に善定近則、直江助俊、源直吉らがいる。 助川城初代城主、山野辺義観も余技で鍛刀をしたため、勝永はその手ほどきをした。[2]
「大江」の号は、祖先が因幡守大江貞種であったことから。貞種は出羽国の村上郡寒河江に住んで、「寒河江」を氏とし、最上家に仕えた。 山野辺の祖・義忠が山野辺城主となってからは義忠に仕え、以来、寒河江家は、義忠が備前岡山に幽閉された時は岡山へ、水戸家に仕えるようになった時は水戸へ移り、山野辺家の家臣を代々勤めた。[3]
婚姻
山野辺家の家臣・安達氏の女性を娶り、五男四女をもうけている。[1] 息子の延之進勝知も、勝永とともに山野辺家に仕えた。[4]
最期
元治元年、水戸藩は大きく天狗党と諸生党の二派に分かれ、幕府や他藩を巻きこんでの内紛状態にあった。いわゆる「天狗党の乱」である。
時の助川城主・山野辺義芸は、水戸城にたてこもった諸生党・市川三左衛門の元、人質同然となっていた徳川斉昭夫人らの解放を呼びかけるため、8月23日、百余人を率いて水戸城へ向かった。この出立は、市川らに助川城への入場を拒まれ、その鎮撫に苦慮していた宍戸藩主・松平頼徳からの救援要請に応えるためでもあった。
しかし、市川ら諸生党は義芸の入城も拒絶。勝永が道理を尽くして説得を試みたが受け入れず、山野辺軍への攻撃を開始した。
この時、「諸生党に与する博徒勢が助川城に迫りつつある」との急報が入り、山野辺軍は急遽反転。松平頼徳の配下と合流し、石名坂の合戦、金沢の合戦を経て、8月25日、助川城に帰りついた。
ところが直後、義芸は幕府から逆賊と見なされてしまう。天狗党と行動を共にしていた頼徳軍と義芸が合流したこと、また、山野辺家がもともと水戸藩改革派の重鎮であったことを理由に、市川三左衛門が幕府の天狗党追討軍総督・田沼意尊と相図った結果だった。
差し向けられた二本松藩・磐城平藩・常陸松岡藩の追討軍に、諸生党の各隊、および動員された各村の人足790名をくわえた大軍勢により、助川城は包囲される。
追討軍への弁疏は通じず、あえて戦うことを避けた城主・山野辺義芸は9月6日、他日を期して、家臣と投降。
勝永は長谷川繁之介、神永伝兵衛ら24人と城にとどまり、包囲軍の攻撃を約3日間耐えしのいだ。しかし9月9日、城はついに落城。勝永は應手口の辺りで敵に捕斬された。享年58歳。[2][3][4]
主な作品
武家の慰み打ちであるため、作品数は限られる。勝永が製作した刀としては以下が確認されている。[2][5][6][7][8]
・太刀 (日立市指定文化財)
銘「造 大江勝永(花押)/安政三年常陽介川大平山於桃氏亭」
刃長76.1センチメートル
・刀
銘「大江勝永作/文久二年八月日」
刃長52.7センチメートル
・刀
銘「大江勝永作/文久三年二月日」
刃長不明
・刀
銘「大江勝永作/文久三年四月日」
刃長83.7センチメートル
・脇差
銘「安政二年大江勝永作/於介川桃氏亭」
刃長不明
・短刀
銘「造勝永(花押)/嘉永七仲春」
刃長23.0センチメートル
・薙刀
銘「常州介川騎士 大江勝永造之/嘉永七年仲春」
刃長78.2センチメートル
大江勝永(寒河江忠左衛門)が登場する作品
・小説『助川城炎上す』北川公二郎(那珂書房、2005年)
墓所
茨城県日立市城南町、東松山薬師面墓地
参考文献
- 鈴木彰『日立の歴史と伝説』日立史談会、1941年。
- 関山豊正『水戸の刀匠』郷土史研究会、1959年。 NCID BB0050464X。
- 鈴木彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』崑書房、1978年。 NCID BA60483675。
- 『銕の意匠 -水戸刀と刀装具の名品-』茨城県立歴史館、1996年。 NCID BA47563849。
- 『鋼と色金 茨城の刀剣と刀装』茨城県立歴史館、2021年。 NCID BC05737176。