コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「マヤ文明」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
日生586 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
1行目: 1行目:
[[画像:Tikal.jpg|thumb|300px|ティカル2号神殿]]
{{redirect|マヤ}}
[[画像:Uxmal nunnery 01.jpg|thumb|300px|ウシュマル遺跡の「尼僧院」]]

[[画像:Nunnery_Quadrangle_of_Chichen_Itza.JPG|thumb|300px|チチェン=イッツア遺跡の「尼僧院」の一部。フレデリック=キャザウッドの石版画]]
{{右|
[[画像:Chac Mool1.jpg|thumb|300px|チチェン=イッツア遺跡から出土した[[チャック・モール]]石像]]
[[Image:Tikal.jpg|thumb|300px|none|ティカル2号神殿]]
[[Image:Uxmal nunnery 01.jpg|thumb|300px|none|ウシュマル遺跡の「尼僧院」]]
[[画像:Nunnery_Quadrangle_of_Chichen_Itza.JPG|thumb|300px|none|チチェン=イッツア遺跡の「尼僧院」の一部。フレデリック=キャザウッドの石版画]]
[[image:Chac Mool1.jpg|thumb|300px|none|チチェン=イッツア遺跡から出土した[[チャック・モール]]石像]]
}}


'''マヤ文明'''(まやぶんめい)とは、[[メキシコ]]南東部、[[グアテマラ]]、[[ユカタン半島]]などいわゆる[[マヤ地域]]を中心として栄えた文明である。
'''マヤ文明'''(まやぶんめい)とは、[[メキシコ]]南東部、[[グアテマラ]]、[[ユカタン半島]]などいわゆる[[マヤ地域]]を中心として栄えた文明である。

2007年1月6日 (土) 10:21時点における版

ティカル2号神殿
ウシュマル遺跡の「尼僧院」
チチェン=イッツア遺跡の「尼僧院」の一部。フレデリック=キャザウッドの石版画
チチェン=イッツア遺跡から出土したチャック・モール石像

マヤ文明(まやぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラユカタン半島などいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。

歴史

大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、エル=ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、繁栄した。古典期(A.D.300~900)にはティカル(Tikal)、カラクムル(Calakmul)などの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stela)が盛んに刻まれた。

しかし、9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった、など有力な説だけでも多数あるが、古典期後期(A.D.600~900)の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明しているため、焼畑(ミルパ)農法や建造物に使用する漆喰を造るために、森林伐採を行い続けたため、地力の減少によって食糧不足や疫病の流行が起こり、それによる支配階層の権威の失墜と、数少ない資源の奪い合いによって戦争が激化したことが共倒れを招き、衰退に拍車をかけたと考えられている。

一方、古典期後期(A.D.600~900)からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン=イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。

標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。

先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)

後古典期(A.D.900~1524)には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。

統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。

マヤ文明の特徴

マヤ文明の特徴としては、

などがある。

農業技術については、段々畑で作物をつくり、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分にカカオなど農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。この湿地利用によく似た農法としてメキシコ中央部にはチナンパという湿地転用農法があるので、その方法を移入した可能性を指摘する研究者もいる。

数字は、点()を1、横棒()を5として表現したり、独特な象形文字で表現された。

マヤのカレンダー

天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていた。彼らが使っていたマヤ暦は1年を365.242128日と定めており、世界最高の水準であるとされた。一方観測値ではなく暦であり、また当時の自転及び公転速度は現代と異なっているため、これを持って最高水準の観測技術であるとの主張は誤りであるとする研究者もいる。

一周期を260日とするツォルキン(暦)と呼ばれるカレンダー、 一年を365日とするハアブ(暦)と呼ばれるカレンダーがあり、 約52年で、ツォルキン暦とハアブ暦の組み合わせが一巡する。これをカレンダー=ラウンドという。

更に、長期暦(ロング=カウント;Long Count)と呼ばれる長周期のカレンダーがあり、

で構成され、紀元前3114年から換算した日付けが石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれている。

関連項目

外部リンク

マヤの土器、遺物A.D.1~500(英語) マヤの土器、遺物A.D.500~1000(英語)

');