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同年には[[大韓民国|韓国]]で[[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]](MA日本)兼業の[[松田利彦 (キックボクサー)|松田利彦]]([[士道館]])が[[崔漸煥]]の保持するIBF世界ジュニアフライ級王座挑戦も4RKO負け。MA日本以外にも[[中川二郎]]率いる[[日本格闘技キック連盟]](JKF)とも協力関係にあった。 |
同年には[[大韓民国|韓国]]で[[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]](MA日本)兼業の[[松田利彦 (キックボクサー)|松田利彦]]([[士道館]])が[[崔漸煥]]の保持するIBF世界ジュニアフライ級王座挑戦も4RKO負け。MA日本以外にも[[中川二郎]]率いる[[日本格闘技キック連盟]](JKF)とも協力関係にあった。 |
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一時期、活動休止が続いていたが[[1997年]]夏、活動再開。[[飯泉健二]]のように網膜剥離でJBCのリングに上がれなくなったボクサーも出場した。また、当時JBC及びオサムジムとの軋轢を受けてJBCボクサー引退を余儀なくされていた[[西島洋介|西島洋介山]]にも[[石井和義]]代表時代の[[K-1]]と連携し声をかけていた<ref name=master>[http://ameblo.jp/stanbox7/entry-10918028211.html IBF日本創設者 池田久会長 逝く] BOXING MASTER</ref>。(その直前の1996年11月3日[[東京ベイNKホール]]での[[ジョージ・フォアマン]]のWBU世界王座防衛戦をメインとするJBC非公認興行で運営に協力) |
一時期、活動休止が続いていたが[[1997年]]夏、活動再開。[[飯泉健二]]や安田勉のように網膜剥離でJBCのリングに上がれなくなったボクサーも出場した。また、当時JBC及びオサムジムとの軋轢を受けてJBCボクサー引退を余儀なくされていた[[西島洋介|西島洋介山]]にも[[石井和義]]代表時代の[[K-1]]と連携し声をかけていた<ref name=master>[http://ameblo.jp/stanbox7/entry-10918028211.html IBF日本創設者 池田久会長 逝く] BOXING MASTER</ref>。(その直前の1996年11月3日[[東京ベイNKホール]]での[[ジョージ・フォアマン]]の[[WBU]]世界ボクシング連合ヘビー級世界王座初防衛戦をメインとするJBC非公認興行で運営に協力) |
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2000年代初頭には[[女子ボクシング|女子部門]]も設置。IBF京都に所属した山木うの(当時別に存在した[[日本女子ボクシング協会|JWBC]]の実質トップだった[[山木ジム]]会長山木敏弘とは血縁及び師弟関係等なし。ただしIBF京都は後に京都野口に改めJWBC加盟)を看板選手として女子プロレスラーの[[藤田愛]]らと対戦させた。 |
2000年代初頭には[[女子ボクシング|女子部門]]も設置。IBF京都に所属した山木うの(当時別に存在した[[日本女子ボクシング協会|JWBC]]の実質トップだった[[山木ジム]]会長山木敏弘とは血縁及び師弟関係等なし。ただしIBF京都は後に京都野口に改めJWBC加盟)を看板選手として女子プロレスラーの[[藤田愛]]らと対戦させた。 |
2022年9月3日 (土) 19:03時点における版
日本IBF、別称「IBF JAPAN」は、かつて存在した日本のプロボクシングの団体。当初は国際ボクシング連盟(IBF)の日本支部として設立され後にIBF非公認となった。
発足当時は加盟ジムの少なさから空手家やキックボクサーをリングに上がらせた。IBF初代アジアコミッショナーは、亜細亜民族同盟初代会長柳川次郎(本名:梁元鍚、ヤン・ウォンソク)。
歴史
設立経緯
渡嘉敷勝男からルペ・マデラがWBA王者の時代、奈良池田ジムの新垣諭が、WBA世界ジュニアフライ級チャンピオンに挑戦する機会を待っていた。しかし、渡嘉敷vsマデラは微妙な判定の試合を繰り返し、結果4度の対戦をすることになり、挑戦の機会が与えられなかった。前世界王者の渡嘉敷のマッチメイクを優先する日本ボクシングコミッション(JBC)に対し、我慢の限界であった奈良池田ジム並びに新垣は、当時米国で設立されたばかりであり、JBCも公認するかどうか迷っていたIBFのチャンピオン決定戦に出場することにした。これに対しJBCが激怒、奈良池田ジムをJBCから除名し、以後日本での試合を組むことを認めない判断を下した。これを受け奈良池田ジムも、池田久会長自らがIBFから日本での興行主の認定を貰い、それと同時にUSBA/Iから改称したIBFが1983年8月26日大阪市内のホテルで日本支部設立を発表。前述の池田会長らが、日本IBFの役員に就任。JBCはIBFの動きに対し、「一国一コミッション」の原則を守るため日本IBFを認めず、日本IBFに参加した者はライセンス無期限停止(事実上の除名)などの処分を課すと発表する。
すなわちJBCの認定なくしては日本で「プロボクシング」のあらゆる試合は成立しない、とJBCは主張しているがルール第1条「日本ボクシングコミッション・コミッショナーは(財)日本ボクシングコミッション(以下JAPAN BOXING COMMISSION=JBC)管轄下で行われる日本での全てのプロフェッショナル・ボクシング(以下プロボクシング)試合公式試合場におけるスパーリング及び慈善試合を含む)を指揮及び監督する権能を有する。」の「JBC管轄下で行われる」の文言は1989年6月23日、IBF日本は公正取引委員会に対し、JBCは独占禁止法に違反していると訴えた。その後、JBCルール(現在の正式名称は「一般財団法人日本ボクシングコミッションルール」)が定めるその指揮監督権限の適用範囲は、JBCおよび日本プロボクシング協会の前身全日本ボクシング協会が1991年4月30日付の公正取引委員会公審第26号により独占禁止法に違反することのないようにとの注意を受けたことから、1992年に「日本国内の全ての試合」を改め、「日本国内においてJBCの管轄の下でおこなわれるすべてのプロボクシング」とされている。(参照:日本ボクシングコミッション事件)
設立後
1983年12月10日、大阪城ホールで初めての興行を開催。ジュニアフライ級とジュニアバンタム級の世界王座決定戦を行う。日本から出場した新垣諭、春日井健の両選手は揃ってKO負け。新垣は脳挫傷で病院送りとなる。初期の興行は、毎日放送がテレビ中継。
1984年4月16日、新垣がエルマー・マガリャーノを8RKOで下し、IBF認定の初代世界バンタム級王者となる。当初は引退したばかりの村田英次郎に出場オファーがあったとの噂もある。1986年7月1日 亀田昭雄がテリー・マーシュの持つIBF世界ジュニアウェルター級王座に挑戦するが、6R TKOで敗退。
その一方で、JBCが当時の協会長・木村七郎の要請を受け頭部のCT検査を具現化し、義務付けられた同検査で異常が見つかった場合、JBCが該当者に対し引退勧告を行うこととなった。これをきっかけに、同じく引退勧告の対象となる網膜剥離を患ったケースも含めたボクサーが参戦した。
1985年に名古屋で行われたIBF日本の興行でバトル川上(川上正治・奈良池田ジム所属)がバトルホーク風間ジムの元日本ジュニアフライ級4位 (JBC) のライオン丸門口(神田吉昭、元トーアFジム所属)と対戦したが、川上が形勢不利になると試合中でありながら突如エキシビションマッチに変更になった。
1986年6月には、当時のIBF会長ロバート・リー立会いのもとに新日本プロレスと業務提携。その提携第2戦目として、1987年3月26日に新日本プロレスが大阪城ホールで開催した「INOKI闘魂LIVE PART2」では、南浩文に塚田敬が挑戦したIBF日本ライト級タイトルマッチ(10R)が行われた(3R2分40秒KO勝ちで、王者・南が防衛)[1]。
1987年4月28日、レオン・スピンクスを招へいして、名古屋・愛知県体育館でIBF中部日本協会設立3周年を記念した興行を開催。スピンクスはWBC全米大陸ヘビー級王座(第5代)の初防衛戦(12R)を行い、ジェフ・ジョーダン・同級8位(米国)を2-1の判定で下し初防衛に成功した[2]。
同年には韓国でマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟(MA日本)兼業の松田利彦(士道館)が崔漸煥の保持するIBF世界ジュニアフライ級王座挑戦も4RKO負け。MA日本以外にも中川二郎率いる日本格闘技キック連盟(JKF)とも協力関係にあった。
一時期、活動休止が続いていたが1997年夏、活動再開。飯泉健二や安田勉のように網膜剥離でJBCのリングに上がれなくなったボクサーも出場した。また、当時JBC及びオサムジムとの軋轢を受けてJBCボクサー引退を余儀なくされていた西島洋介山にも石井和義代表時代のK-1と連携し声をかけていた[3]。(その直前の1996年11月3日東京ベイNKホールでのジョージ・フォアマンのWBU世界ボクシング連合ヘビー級世界王座初防衛戦をメインとするJBC非公認興行で運営に協力)
2000年代初頭には女子部門も設置。IBF京都に所属した山木うの(当時別に存在したJWBCの実質トップだった山木ジム会長山木敏弘とは血縁及び師弟関係等なし。ただしIBF京都は後に京都野口に改めJWBC加盟)を看板選手として女子プロレスラーの藤田愛らと対戦させた。
2004年11月、IBFプロボクシング協会、IBF日本国際ボクシング協会を新たに発足。従来のジム加盟制に加え、欧米式マネージャー加盟制を採用。田村栄敏は大光ライトスポーツジムのプレイイングマネージャーとして携わった。
渡久地隆人、八尋史朗、ロッキー・リンに代表されるJBCトップ選手がIBF世界ランキングに名を連ねたことがあるが、彼等は日本IBFと無関係である。このようにIBFでは世界ランキングに、未加盟のはずのJBCのトップ選手の名前を無断で使っていた。
なお、2003年9月6日に京都府亀岡市(ガレリアかめおか・コンベンションホール)において開催した「IBF日本チャリティーKOボクシング」(IBF京都主催・ノンタイトル5試合)を最後に関連の興行は行われなくなった。
2011年6月8日、池田久逝去[3]。
2013年4月にJBCがIBFに加盟するに至ったため、自然消滅の格好になった。新垣はJBCへ申請すれば公式にJBC管轄下の歴代世界王者の一人として認められるようになり、また元IBF日本関係者・大場綜が上記の山木のジム所属で33歳の年齢制限ギリギリでJBC・C級テスト記念受験しJBCセコンドライセンス取得に至った例もある(大場は再びJBC管轄外で活動し資格取消に)。
後継団体
後継団体的な形で現役日本ランカーでありながら大阪帝拳ジムと契約解除しJBC引退届提出したWBOアジア太平洋暫定王者山口賢一が世界戦を調整中の2010年6月13日、大阪・守口市内のホテルにおいてJBC管轄外の試合として、ヘッドギア不使用の試合形式でタイ人選手と10回戦を行い、試合役員の技量が明瞭でないことなどからJBC関西事務局長の中山喜治は「競技の価値を低下させかねない」との発言を残した。
- WBF世界ボクシング連盟のタイトルマッチが日本国内で開催
(IBF日本が活動していた時期から2002年8月18日、大阪で「WBFパンアジアタイトルマッチ」と銘打った興行が行われた。開催前にはデイリースポーツ(大阪本社版)の紙面に、広告も掲載された。当日はパンアジア王座決定戦2試合が行われ、日本から出場したスーパーフライ級の柳山甚介とスーパーバンタム級の大西聖一が、共にタイ人を破って各級の王座に就いた。しかし、当時JBC非公認の興行もフォローしていた『ワールド・ボクシング』誌は、巻末のコラムで「ひどい興行」と評した以外は、なぜかこの興行に関して全く触れなかった。2002年12月15日に大阪府池田市の五月山体育館で行われた興行で、野上真司が日本人として初めてWBOアジアパシフィックタイトルに挑戦。ホセ・マルティネス(メキシコ)と王座決定戦を争い、4R47秒KOで勝利し同スーパーフェザー級王座を獲得。ワールドボクシング2003年1月号に掲載。なお同じ日に、同じく大阪府内の大阪府立体育会館でのJBC管轄興行では、一時期網膜剥離でJBCでの復帰が危ぶまれた際に日本IBF参加も検討した大阪帝拳ジムの先輩辰吉丈一郎が3年余のブランクからの復帰戦プロ25戦目を行っている。2003年1月から2004年2月までWBO世界スーパーフェザー級のランキングに名を連ねた。最高位は11位・2003年10月。高山勝成は2009年JBC引退届提出でJBC非公認王座時代のIBF世界王座を目指した時期は日本国内でJBC管轄外の興行に出場しなかったが、上記の山口賢一と盟友だった)
IBF日本旗揚げ記者会見から35周年の前日の2018年8月25日新宿FACEにおける野良犬祭3で上記の大場がPATタイ国プロボクシング協会インターナショナル初代スーパーフェザー級チャンピオンとなりABCOランキング15位に名を連ねた上で出場した「プロボクシングABCOランキング査定試合」実施(レフェリー兼インスペクターは松田利彦)。