「原甚之丞」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
80行目: | 80行目: | ||
*母 - テル([[1885年]][[2月]]生まれ。[[正木美術館]]を設立した正木家・正木米太郎の二女)<ref name="人事興信録" /> |
*母 - テル([[1885年]][[2月]]生まれ。[[正木美術館]]を設立した正木家・正木米太郎の二女)<ref name="人事興信録" /> |
||
*妻 - マサ ([[1910年]][[1月]]生まれ。西居鴫雲二女)<ref name="人事興信録" /> |
*妻 - マサ ([[1910年]][[1月]]生まれ。西居鴫雲二女)<ref name="人事興信録" /> |
||
*[[婿養子]] - [[原乙彦|乙彦(旧姓・矢橋)]]([[1925年]][[1月]]生まれ。元[[ユニチカ通商]]社長。「[http://layla.webcrow.jp/yabashi-06.html 先祖は嵯峨天皇の第 |
*[[婿養子]] - [[原乙彦|乙彦(旧姓・矢橋)]]([[1925年]][[1月]]生まれ。元[[ユニチカ通商]]社長。「[http://layla.webcrow.jp/yabashi-06.html 先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の有力実在モデルである源融(みなもとのとおる)にまで遡る矢橋家]」・[[矢橋次郎]]の三男。由比子の夫)<ref>人事興信所編『人事興信録 第32版 下』は159頁(原乙彦の項目)、人事興信所、1983年</ref><ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-22890/image 矢橋次郎 | 人事興信録(第8版)]</ref><ref>[https://tripnote.jp/m/osaka/umeda-taiyuji-hikarugenji 光源氏のモデル~源融公ゆかりの寺~淀殿も眠る【大阪・梅田】太融寺]</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/清凉寺-843078#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク]</ref>{{efn|[[お茶屋屋敷#現在|矢橋家]]は、甚之丞と同業([[大日本紡績]])の[[小寺源吾|小寺家]]と同郷(いずれも現・[[大垣市]])という縁。{{See|矢橋次郎|矢橋敬吉|小寺成蔵}}}} |
||
*二女 - 由比子([[1933年]][[10月]]生まれ)<ref name="人事興信録" /> |
*二女 - 由比子([[1933年]][[10月]]生まれ)<ref name="人事興信録" /> |
||
*三女 - [[中井三郎兵衛 (3代)#系譜|博子(中井)]]([[1936年]][[9月]]生まれ)<ref name="人事興信録" /> |
*三女 - [[中井三郎兵衛 (3代)#系譜|博子(中井)]]([[1936年]][[9月]]生まれ)<ref name="人事興信録" /> |
2021年8月26日 (木) 09:21時点における版
はら じんのじょう 原 甚之丞 | |
---|---|
第8代原甚之丞 | |
生誕 |
原 治[1] 1907年2月3日 日本 |
死没 | 不詳 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 実業家 |
団体 | 日本綿業倶楽部 |
活動拠点 | 日本 |
純資産 | 素封家 |
肩書き | 和泉織物株式会社・社長 |
前任者 | 白井治平 |
配偶者 | 原マサ[1] |
子供 |
原乙彦(旧姓・矢橋)(養子) 原由比子(二女)[1] 中井博子(三女)[1] |
親 | 第7代原甚之丞 |
親戚 |
中井家 矢橋家 正木家 |
原 甚之丞(はら じんのじょう、1907年2月3日 - 没年不詳)は、日本の実業家。和泉織物株式会社社長[2]。第8代・原甚之丞。大地主、素封家、近代数寄者。号に大寒、無可有。
略歴
1907年、実業家の第7代・原甚之丞とその妻テル(旧姓・正木)の長男として生まれ、治と名付けられる[1]。1925年5月3日第7代・原甚之丞が死去[3]、同年家督を相続、甚之丞を襲名する[1]。1932年に最盛期に入り1933年イギリスを抜いて綿織物輸出世界一を達成し「近代日本をけん引する主要産業」であった繊維産業[4]が、1937年7月の日中戦争勃発を契機に本格的に戦時経済統制を受けていく中、1939年商工省発表の「繊維対策要綱」に基づいた第一次企業整備(第二次近衛内閣)に沿って、全国の綿紡績76社が任意に集まって形成した14ブロックのうちの第1ブロックを共に形成していた[5]東洋紡績との合併の時(全国の紡績業を14ブロックに統合完了した年でもある1941年)まで、原は先代より引き継いだ和泉織物株式会社[3][注釈 1]の経営に携わる[1][10][11]。
→「日本紡績協会 § 沿革」、および「和泉織物 § 商工省の政策と合併」を参照
代々の地
系譜
- 父 - 第7代・原甚之丞[1](実業家、和泉織物株式会社社長)[12][3]
- 母 - テル(1885年2月生まれ。正木美術館を設立した正木家・正木米太郎の二女)[1]
- 妻 - マサ (1910年1月生まれ。西居鴫雲二女)[1]
- 婿養子 - 乙彦(旧姓・矢橋)(1925年1月生まれ。元ユニチカ通商社長。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の有力実在モデルである源融(みなもとのとおる)にまで遡る矢橋家」・矢橋次郎の三男。由比子の夫)[13][14][15][16][注釈 2]
- 二女 - 由比子(1933年10月生まれ)[1]
- 三女 - 博子(中井)(1936年9月生まれ)[1]
- 孫 - 秀六(滋賀大学教授)[17]
- 孫 - 吉弘[18]
関連項目
脚注
注釈
- ^ 1912年9月設立、資本金250万円、本社は南掃守村大字尾生2618(現・岸和田市尾生町)。貝塚町澤、南掃守村福田および尾生、山直下村新在家(現・岸和田市岡山町)、和泉町府中(現・和泉市府中町)の計5工場を操業し、綿糸、綿布などの製造をしていた[6]。商工省「繊維対策要綱」(1939年10月)を受けた第一次企業整備(第2次近衛内閣)の実施に基づいて、1941年5月の東洋紡績と合併[7]。公開の記録上、本記事の原甚之丞は、1934年(昭和9年)頃より、監査役[8]として、さらには専務取締役[9]、そして社長[2]として、経営に携わっている。
- ^ 矢橋家は、甚之丞と同業(大日本紡績)の小寺家と同郷(いずれも現・大垣市)という縁。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録』 第13版下巻、人事興信所、1941年、ハ-114頁頁。NDLJP:3430444/468。
- ^ a b 『紡織要覧』昭和16年版2021年6月閲覧
- ^ a b c 内外綿業年間 昭和6年版2021年6月閲覧
- ^ 橋口勝利「近代日本紡績業と労働者―近代的な「女工」育成と労働運動」17、19頁(表1)、20頁2021年7月3日閲覧
- ^ 渡辺純子「戦時期日本の産業統制の特質 : 繊維産業における企業整備と「10大紡」体制の成立」『土地制度史学』第38巻第2号、土地制度史学会(現 政治経済学・経済史学会)、1996年、6/17頁、doi:10.20633/tochiseido.38.2_1、ISSN 0493-3567、NAID 110007019744、2021年7月3日閲覧。
- ^ 『紡織要覧』 昭和16年版、紡織雑誌社、1940年、会社・工場編12-13頁頁。NDLJP:1146024/149。
- ^ “東洋紡績(株)『東洋紡績七十年史』(1953.05)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団. 2020年5月12日閲覧。
- ^ 日本全国諸会社役員録』第42回 昭和9年2021年6月閲覧
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第46回 昭和13年2021年6月閲覧
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第46回 昭和13年
- ^ 『紡織要覧』昭和16年版
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第28回 大正9年2021年6月閲覧
- ^ 人事興信所編『人事興信録 第32版 下』は159頁(原乙彦の項目)、人事興信所、1983年
- ^ 矢橋次郎 | 人事興信録(第8版)
- ^ 光源氏のモデル~源融公ゆかりの寺~淀殿も眠る【大阪・梅田】太融寺
- ^ …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク
- ^ 人事興信所編『人事興信録 第32版 下』は159頁(原乙彦の項目)、人事興信所、1983年
- ^ 人事興信所編『人事興信録 第32版 下』は159頁(原乙彦の項目)、人事興信所、1983年