「大神氏 (豊後国)」の版間の差分
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2021年8月22日 (日) 22:53時点における版
大神氏 | |
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左三つ巴 | |
本姓 | 大神朝臣 |
家祖 | 大神惟基 |
種別 | 武家 |
主な根拠地 | 豊後国国東郡、大野郡、直入郡、大分郡、速見郡、日向国高千穂 |
著名な人物 |
大神惟基 緒方惟栄 |
支流、分家 |
緒方氏(武家) 賀来氏(武家) 臼杵氏(武家)等々 37家(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
大神氏(おおがし)は、古墳時代から平安時代の豊国(豊日別)、豊後国の氏族。武士の大神惟基を家祖とする。豊後大神氏とも呼ばれる。
概要
大神氏の家祖の祖は、古墳時代568年(欽明天皇29年)に豊国(豊日別)に入って宇佐神宮前身の鷹居社を建立した大神比義命(おおがの ひぎの みこと)であるという説があり、また、平安時代886年の令制国豊後国に国司として入った大和大神氏分流の三輪子首玄孫で大神良臣(おおみわの よしおみ)であるという説があり、また大神氏は宇佐神宮に大宮司・祝・禰宜などとして奉仕していたが、摂関政治が始まって劣勢となり、速見郡大神郷に移住したとか、さらに豊前国大野郡に移住したなどの説があり、また宇佐氏に座を明け渡した結果、1053年(天喜元年)頃に、武士であり家祖の大神惟基が現れた、という説もあり[1]、様々である。
ただ事物からすれば、家祖の惟基は、7世紀前半に豊後国・豊前国で神社興しや開拓を行っていたことが伺える(後述)。
中世期には豊後における有力な在地武士の一族であったが、鎌倉時代には、代官として大友氏初代当主能直の弟である古庄重能が豊後国に下向し守護に任じられたため、大神氏系の一族はこの入国の際に激しく抵抗した。しかし、第3代大友氏当主の頼泰以降は大友氏との養子縁組等により、大友氏の土着化が進み、大神氏の勢力は衰退し、次第に大友氏家臣団に組み込まれた。
その後の戦国時代には、御紋衆の大友氏と国衆(土着)の大神氏庶家との間で、賀来の騒動などの紛争も生じている[注釈 1]。
地域
かつて豊後国速見郡大神郷の大神村に大神比義館跡や大神八幡があり、同郷の深江村浜口には深江城があったとされている[2]。大野川及び大分川の流域の大野郡や直入郡も本拠地のひとつであったとされている。
建武(1334年 - 1336年)のころに大神仙介が築城した日出城(速見郡日出町)も居城のひとつであったが、この城は1586年の天正の戦で落城したという[3]。
家祖の祖
大神比義命説
大神比義が568年(欽明天皇29年)に勅命を受けて豊前国に入り、神社を建立したり祈祷につとめ[4]、その子孫は宇佐神宮の創祀や宮司職に関わっていたとするものである。のちの710年(和銅3年)には勅定を得て宇佐神宮を建立し、その子孫は祝部、小山田の2氏を始めとして数百の家に繁栄したという、中野幡能の説。
宇佐郡
大神比義(敬神祟祖)
欽明天皇廿九年應神天皇の神霊八幡大神の御名を顕し奉りて朝廷に奏聞し 神主と成りて常に奉仕し後 復元明天皇和銅三年 鷹居山にて神勅を受け 辛島勝乙目と共に朝廷に奏聞し 勅定を得て 始て八幡大神の宮殿を建て奉仕せり 此即ち大神氏の祖にして 子孫祝部 小山田の両家を始め数百家に繁栄せり—大分県教育会『修身科郷土資料集成』[5]
養老4年(720年)の隼人の乱の逸話に、宇佐八幡に神託を仰いだ朝廷に対し八幡神が「我ゆきて降しおろすべし」と自ら征討に赴いたというものがあるが、このことにも祭司であり武家であった大神氏の関与がありうる。
豊後大神氏は禰宜職、及び後には大宮司職を継ぎ、769年の道鏡事件の頃に宇佐氏と争ったという逸話もある。ただし小山田氏は宇佐神宮を離れていない[注釈 2][注釈 3]。
家祖の惟基もまた神社興しを行っている。
大神良臣説
ファイル:Https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:Hidari mitsudomoe.svg 仁和2年(886年)に豊後介に大神良臣(おおみわよしおみ)が入り、その子庶幾が大野郡領としてとどめられ、さらにその子の惟基(おおが これもと)が豊後大神氏の始祖となったとするものである。
おおみわ側の『大神家系図』によれば、大神吉成 (筑後介、従六位下)から九州へ移住しており、また『日本三代実録』(仁和3年3月)によれば、大神朝臣良臣 (豊後介、従五位下)の官位請求の史実とそれを朝廷が認めたとあり、実在が証明されている。
1975年、大分県地方史研究会『大分縣地方史』第79号(昭和50年10月)は、「左大史外従五位下豊後介貞観四年改賜大神朝臣姓寛平四年三月再任豊後介既満期任當去其職百姓惜慕請留其子庶幾」(大神朝臣良臣の時に農民から懇願され寛平四年(892年)三月に豊後介(豊後守)に再任された)との記述を指摘し、史実として大神が豊後の主となり、領民から懇願され留まったとした。これをもって現在は、大和大神氏からの出自は決定的とされ、奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)でも大神氏を末裔としている。
大神良臣説をとる儒学者の三浦安貞(三浦晋、三浦晋安貞、三浦梅園とも)によれば、家紋は鱗型である。ただし大神の名が「大神部」などの職業を意味する場合には注意が必要である。松岡実も大神良臣説をとる[6]。
著名な人物
続柄不明の大神姓の人物も含め主な人物を挙げる。各庶家の著名な人物は各記事を参考。
大神比義命
霊媒(神道者)。568年(欽明天皇29年)豊国に入り、宇佐郡馬城嶺に大菩薩として出現した応神天皇の魂を祀るために鷹居八幡神社(宇佐神宮の前身、鷹居社)を建立した。571年(欽明32年)には託宣により誉田天皇広幡八幡麻呂(八幡神)を奉斎した。
子に春麻呂、孫に諸男。曾孫の田麻呂と杜女は大神朝臣を賜った[7]。
大神惟基(家祖)
大神惟基の文献資料は比較的後世のものに限られており、一見矛盾する多くの説がある。
のちの『平家物語』や『源平盛衰記』には、惟基は山岳信仰の祖母岳大明神のご神体である大蛇と人間の娘との交わりから誕生したという旨の伝説がある。また、そのご神体がましたという洞窟には、651年(白雉2年)に健男霜凝日子神社(たけお しもごおりひこ じんじゃ、穴森神社)が建立されているので、惟基の出生はそれよりも前であると推測される[注釈 4]。
養老年間(717年 - 724年)、豊後国に六所権現(現・阿南神社)が建立されているが、ここは惟基二男の惟季が在した阿南荘のひとつなので、これも惟基か惟季(阿南次郎)の代までに、大神氏によって開拓された地域であると思われる[注釈 5]。
また、青井阿蘇神社は、阿蘇神社の神主の尾方権助大神惟基が神託により、806年(大同元年9月9日に阿蘇三社に分祀したものとされている。茅葺屋根をもつ神社であるが[注釈 6]、奈良では607年に瓦屋根の法隆寺などが建立されているから、茅葺の神社を建立した惟基をおおみわの族とすることはやや不自然でもある。
また惟基は、812年(弘仁壬辰)に日向国の天岩戸神社の再興に関わったとされている[9]。
年代的に見れば上記の神社興しを惟基が1代で扱ったとは考えにくいが、古来のヒメヒコ文化により惟基を祖とする族が建立を行っていたとすれば、可能性はある[注釈 7]。
子については男子5人説、男子9人説があり、娘については記録されていないか存在していない。また三浦安貞『豊後事蹟考』などによれば、子は男子7人で、庶家は大神氏含め37氏族となった[10][11]。
大神道国
877年(元禄元年)、豊後国速見郡内成にはオオヤマツミを祀る神社があったが、比義の後裔であるという大神道国が八幡神を勧請して大神峰神社(おおがみねじんじゃ、別府市内成)を建立した旨が、おそらく江戸時代に作成された文書にあるという[12][13]。[注釈 8]
緒方惟栄
惟基の5代の孫で緒方氏の祖である緒方惟栄は平安末期、源頼朝が以仁王の命に応じ平家に対して挙兵したあと(治承・寿永の乱、源平合戦)、養和元年(1181年)に豊後国目代を追放されて源氏につき、元暦元年(1184年)には平家についた宇佐神宮を焼き討ちにしたり葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍し、従来の支配階級に代わり武士勢力の存在感と支配力を強めた。
鎮西九党
有力武士団である鎮西九党の惟住氏や惟任氏もまた大神氏が祖であるとされている。
明智光秀の関係者
戦国時代には織田信長は家臣であった明智光秀に惟任、丹羽長秀に惟住を称させたが、これは九州平定の後に封ずるためであるとされた[15]。
庶家
- 大神氏
- 高知尾氏
- (高千穂氏)
- 稙田氏 - 大分郡稙田
- 田尻氏 - 大分郡東稙田
- 田吹氏 - 大分郡西稙田
光吉氏、幸弘氏、吉籐氏、十時氏、由布(油布)氏、三重氏、野津原氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏、板井氏、釘宮氏、上野氏、早稲田氏などが大神氏族であるという説[要出典]もある。
脚注
- 注釈
- ^ もっとも1568年の一萬田鑑実(大友氏庶家)の伯父高橋鑑種の謀反など、大友氏同士の紛争もあった。
- ^ 近年に宇佐神宮隣の屋敷跡地を自治体に寄付しており、大神比義命の祠もその小山田記念公園に祀られている。
- ^ 菊池武房を始祖とする肥後の甲斐氏が家督争いに敗れ日向高千穂に土着した例がある。
- ^ 同神社は、国津神トヨタマヒメの子のウガヤフキアエズの子で紀国出征の際に死亡した彦五瀬命(神武天皇兄)に、豊玉姫が配祀されている。
- ^ この時期からのみで考えれば、710年(和銅3年)建立の豊前国の宇佐神宮、718年(養老2年)建立の亀都起神社(きつきじんじゃ/きどきじんじゃ、亀都起古墳隣、大分県玖珠町)にも惟基かその先祖か子孫が関与した可能性がある。
- ^ 亀都起神社も茅葺であり、天照大神神話のウガヤフキアエズの出生伝説などの引用が伺える。
- ^ 天岩戸神社は天照大神伝承に基づく神社であり、祖母山信仰等を含む山岳信仰の色合いがある一方、おおみわの族の本貫である奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)はご神体は山ではあるが、社の屋根は茅葺や板葺ではない。神仏習合の山岳信仰をもつおおがの族とおおみわの族の信仰にはやや相異があることが伺え、比較的清淑な山岳信仰が変形して奈良に伝わったり、信仰の相異による勅定の問題があったこともありうる。
- ^ なお、近い時代の神社として神御子美牟須比命神社(みわの みこ みむすひめ じんじゃ、奈良県宇陀郡菟田野町大神、式内社、893年建立)があるが、同神社在所のかつての地名は大和国宇陀郡大神村(おおがみむら)なので、奈良でも「おおみわ」、「おおが」、「おおがみ」の読みの別があったと思われる。[14]。
- 出典
- ^ 中野幡能『諸説の多い氏族』(大分放送)。
- ^ 佐藤蔵太郎 1905.
- ^ 唐橋世済 1803.
- ^ 宇佐市『大神比義命』
- ^ 大分県教育会 1936.
- ^ 『日羅の研究 : 「宇佐大神氏進出説」批判(3)』(1984年)。
- ^ 大分放送。
- ^ 第2巻86頁。
- ^ 天岩戸神社。
- ^ #賀来惟達、p.31.
- ^ #唐橋世済
- ^ 岡部富久市 2007.
- ^ 別府市『別府の文化財 神社縁起』(1988年)。
- ^ 国立歴史民俗博物館『旧高旧領取調帳データベース』。
- ^ 太田亮 1934, p. 2421.
参考文献
- 賀来惟達『大神姓系譜(1-13巻)』1933年12月 。
- 大分県教育会『修身科郷土資料集成』大分県教育会、大分県、1936年、73頁。
- 太田亮『姓氏家系大辞典』姓氏家系大辞典刊行会、1934年 。2017年9月25日閲覧。
- 太田亮「 13.豊後速見の大神族 14.豊後大野の大神氏」(復刻版『姓氏家系大辞典』第2巻)国民社、1944年
- 『大神姓系図』
- 大分放送『大分歴史事典』 「豊後大神氏豊後をきりひらく武士団 」
関連項目
外部リンク
- 大神神社 - 奈良市