「ロンドンの歴史」の版間の差分
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{{工事中|1週間程度}}{{翻訳中途|1=[[:en:History of London]] ([https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=History_of_London&oldid=1018023440 21:57, 15 April 2021・oldid=1018023440])|date=2021年4月21日 (水) 16:25 (UTC)}} |
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本項では'''[[ロンドン]]の[[歴史]]'''({{Lang-en|History of London}})について解説する。[[イギリス]]およびこれを構成する[[イングランド]]の首都であるロンドンの歴史は、およそ2,000年に及ぶ。 2000年前の[[ローマ帝国]]による[[ロンディニウム]]創建が、都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在の[[シティ・オブ・ロンドン]](シティ)にあたる地域にあった。現在シティの[[ロンドン・ウォール|市街壁]]内の面積は約1[[平方マイル]]あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。 |
本項では'''[[ロンドン]]の[[歴史]]'''({{Lang-en|History of London}})について解説する。[[イギリス]]およびこれを構成する[[イングランド]]の首都であるロンドンの歴史は、およそ2,000年に及ぶ。 2000年前の[[ローマ帝国]]による[[ロンディニウム]]創建が、都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在の[[シティ・オブ・ロンドン]](シティ)にあたる地域にあった。現在シティの[[ロンドン・ウォール|市街壁]]内の面積は約1[[平方マイル]]あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。 |
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ロンドンはローマと同様に、橋を架けるのに十分なほど狭い川がある都市であり、戦略の対象になりやすく、[[ヨーロッパ]]の多くの場所に行き来しやすい場所であった。当時のロンドンは、現在のハイド・パークとほぼ同等の面積で、非常に狭かった。そして |
ロンドンはローマと同様に、橋を架けるのに十分なほど狭い川がある都市であり、戦略の対象になりやすく、[[ヨーロッパ]]の多くの場所に行き来しやすい場所であった。当時のロンドンは、現在のハイド・パークとほぼ同等の面積で、非常に狭かった。そして61年ごろ、[[ブーディカ]]が率いる[[イケニ族]]によって強襲され焼き討ちされた<ref name="london_010">{{cite web |
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|url = http://www.bbc.co.uk/history/british/timeline/romanbritain_timeline_noflash.shtml |
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|title = British History Timeline —Roman Britain |
|title = British History Timeline —Roman Britain |
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3世紀後半、ロンディニウムはサクソンの海賊によって何度か襲撃された<ref>{{Cite web|url=http://www.romeacrosseurope.com/?p=2246|title=Londinium – Excavating London's Past|date=2015-07-30|website=Rome Across Europe|language=en-US|access-date=2019-07-15}}</ref>。これにより、約255年以降、川沿いの壁が次々と建設された。壁には門が備えられていたが、伝統的な7つの門のうち、6つはローマ起源であった。 |
3世紀後半、ロンディニウムはサクソンの海賊によって何度か襲撃された<ref>{{Cite web|url=http://www.romeacrosseurope.com/?p=2246|title=Londinium – Excavating London's Past|date=2015-07-30|website=Rome Across Europe|language=en-US|access-date=2019-07-15}}</ref>。これにより、約255年以降、川沿いの壁が次々と建設された。壁には門が備えられていたが、伝統的な7つの門のうち、6つはローマ起源であった。 |
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5世紀までに、ローマ帝国は急速に衰退し、西暦410年に、ブリタンニアのローマによる占領は終わった。その後、ローマの都市も急速に衰退し、ローマは5世紀 |
5世紀までに、ローマ帝国は急速に衰退し、西暦410年に、ブリタンニアのローマによる占領は終わった。その後、ローマの都市も急速に衰退し、ローマは5世紀の終わりまでに事実上ロンドンを放棄した。 |
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=== ルンデンヴィック (5世紀 |
=== ルンデンヴィック (5世紀〜1066年) === |
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[[File:Map of London, 1300.svg|thumb|250px|1300年頃、[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]の範囲は市街壁内に収まっていた。]] |
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[[File:Westminster Abbey by Canaletto, 1749.jpg|thumb|right|250px|世界遺産の[[ウエストミンスター寺院]]の絵画 (Canaletto, 1749 A.D.)]] |
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{{仮リンク|ルンデンヴィック|en|Anglo-Saxon London|label=}}とは、6世紀から[[アングロ・サクソン人]]がローマ人の古い街のわずかに西に築いた開拓地のことである。近年まで、[[アングロ・サクソン人]]はロンディニウム周辺を入植地とすることを避けていたと思われていた。しかし、2008年に[[コヴェント・ガーデン]]でアングロ・サクソン人の墓地が発見されたため、少なくとも6世紀(もしくは5世紀)にはそこに人が住み始めていたと考えられる。特に、ローマ時代の城壁の外側、現在の{{仮リンク|ストランド (ロンドン)|en|Strand, London|label=ストランド}}(オールドウィッチとトラファルガー広場の間)付近に人口が集中していた。つまり、ルンデンヴィックは現在のコヴェント・ガーデンおよびストランドに相当し、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。 |
{{仮リンク|ルンデンヴィック|en|Anglo-Saxon London|label=}}とは、6世紀から[[アングロ・サクソン人]]がローマ人の古い街のわずかに西に築いた開拓地のことである。近年まで、[[アングロ・サクソン人]]はロンディニウム周辺を入植地とすることを避けていたと思われていた。しかし、2008年に[[コヴェント・ガーデン]]でアングロ・サクソン人の墓地が発見されたため、少なくとも6世紀(もしくは5世紀)にはそこに人が住み始めていたと考えられる。特に、ローマ時代の城壁の外側、現在の{{仮リンク|ストランド (ロンドン)|en|Strand, London|label=ストランド}}(オールドウィッチとトラファルガー広場の間)付近に人口が集中していた。つまり、ルンデンヴィックは現在のコヴェント・ガーデンおよびストランドに相当し、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。 |
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ただし、宗教的な中心地は[[カンタベリー]]であり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。[[フリート川]]の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、[[ヴァイキング]]からの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた<ref name="london_012">{{cite web|url=http://www.museumoflondon.org.uk/English/Collections/Onlineresources/RWWC/themes/1295/1288|title=Viking and Danish London|publisher=The [[:en:Museum of London|Museum of London]]|accessdate=6 June 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080519062500/http://www.museumoflondon.org.uk/English/Collections/Onlineresources/RWWC/themes/1295/1288|archivedate=2008年5月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。[[ヴァイキング]]の襲撃は増加の一途をたどり、[[886年]]に[[アルフレッド大王]]が[[デーン人]]の指導者である{{仮リンク|ガスラム|en|Guthrum}}と[[ウェドモーアの和議]]を締結するまで続いた<ref name="london_013">{{cite web|url=http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Permanent/medieval/Themes/1033/1035/default.htm|title=Medieval London —Vikings|publisher=The [[:en:Museum of London|Museum of London]]|accessdate=7 June 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080602225909/http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Permanent/medieval/Themes/1033/1035/default.htm|archivedate=2008年6月2日}}</ref>。アングロ・サクソン人の「ルンデンヴィック(Lundenwic)」は「旧市街」を意味する「エアルドヴィック(Ealdwic)」と改称され、現在の[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]の[[オールドウィッチ]]にその名を残している<ref name="George Hamilton Cunningham 1927 xiii">{{Cite journal|author=George Hamilton Cunningham|year=1927|title=London|url=http://books.google.com/?id=2fIgAAAAMAAJ|page=xiii|publisher=J. M. Dent & Sons|ref=harv}}</ref>。[[10世紀]]、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこのころ、[[ウェセックス]]の伝統的な中心地である[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]との競合にも直面した。 |
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[[11世紀]]、[[エドワード懺悔王]]は[[ウェストミンスター寺院]]を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる<ref name="london_014">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/edward_confessor.shtml|title=Edward the Confessor (c.1003–1066)|publisher=British Broadcasting Corporation|accessdate=27 September 2008|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0XKDXS?url=http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/edward_confessor.shtml|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 |
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=== 1066年-15世紀後半 === |
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[[1066年]]、[[ヘイスティングズの戦い]]で勝利し、イングランドを征服した[[ノルマンディ公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム2世]]は同年の[[クリスマス]]の日に、[[ウェストミンスター寺院]]で[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として即位した<ref name="london_015">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/normans/1066_06.shtml|title=History – 1066 – King William|publisher=BBC|accessdate=5 May 2008|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0Yen4R?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/normans/1066_06.shtml|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。ウィリアム1世はホワイト・タワー(のちの[[ロンドン塔]])をシティの南東に建設し、市民を威圧した<ref name="london_016">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/architecture_02.shtml|title=A History of British Architecture — White Tower|last=Tinniswood|first=Adrian|authorlink=w:Adrian Tinniswood|publisher=BBC|accessdate=5 May 2008|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0ZWxtH?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/architecture_02.shtml|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。[[1097年]]、[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、[[ウェストミンスター宮殿]]の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した<ref name="london_017">{{cite web|url=http://www.parliament.uk/about/history/building.cfm|title=UK Parliament — Parliament: The building|date=9 November 2007|publisher=UK Parliament|accessdate=27 April 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080311032051/http://www.parliament.uk/about/history/building.cfm|archivedate=2008年3月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="london_018">{{cite web|url=http://www.parliament.uk/parliament/guide/palace.htm|title=Palace of Westminster|publisher=UK Parliament|accessdate=27 April 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080404171249/http://www.parliament.uk/parliament/guide/palace.htm|archivedate=2008年4月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 |
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[[12世紀]]、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12世紀-[[13世紀]]に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、[[14世紀]]半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は[[1100年]]に1万8,000人、[[1300年]]までには10万人ほどにまで成長していた<ref name="london_019">{{Cite book|last=Schofield|first=John|last2=Vince|first2=Alan|author2-link=w:Alan Vince|title=Medieval Towns: The Archaeology of British Towns in Their European Setting|publisher=Continuum International Publishing Group|year=2003|isbn=978-0-8264-6002-8|url=http://books.google.com/?id=Qu7QLC7g7VgC&pg=PA26&lpg=PA26&dq=london+population+1100+-+1300|page=26|ref=harv}}</ref>。 |
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14世紀半ばには[[ペスト]]が発生し、人口は3分の1程度減少した。[[1381年]]、[[ワット・タイラーの乱]]が発生した<ref name="london_020">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/richard_ii_king.shtml|title=Richard II (1367–1400)|publisher=BBC|accessdate=12 October 2008|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0aYnXz?url=http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/richard_ii_king.shtml|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 |
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== 近世・近現代 == |
== 近世・近現代 == |
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{{節スタブ}} |
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=== テューダー朝の時代 (1485年–1603年) === |
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[[テューダー朝]]の時代、[[宗教改革]]にともなう[[プロテスタント]]への移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ<ref name="pevsner">Nikolaus Pevsner, ''London I: The Cities of London and Westminster'' rev. edition,1962, Introduction p 48.</ref>。[[ネーデルラント]]周辺地域へは未加工の[[ウール]]生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、[[大陸ヨーロッパ]]の富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。[[イタリア]]や[[地中海]]への商業ルートは、通常[[アントウェルペン]]または[[アルプス山脈]]経由であった。海上輸送ではイタリアや[[ドゥブロヴニク]]の貿易商と同様、[[ジブラルタル海峡]]を経由した。[[1565年]]の[[オランダ]]とイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした<ref>The Queen's Merchants and the Revolt of the Netherlands: The End of the Antwerp Mart, Volume 2, pages 1 and 62-63, George Daniel Ramsay, Manchester University Press ND, 1986. ISBN 978-0-7190-1849-7</ref>。[[1566年]]、[[:en:Royal Exchange, London|王立取引所]]が設立された。[[重商主義]]は進展し、[[イギリス東インド会社]]をはじめとする[[勅許会社]]が設立され、貿易は[[新世界]]へと拡大した。ロンドン港は[[北海]]において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。[[1530年]]の人口は推計で5万人、[[1605年]]には22万5,000人に上昇した。 |
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[[16世紀]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]や同時代に生きたロンドンの劇作家は、[[イギリス・ルネサンス演劇]]をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる[[1603年]]まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。 |
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=== 1603年-21世紀 === |
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[[File:Great Fire London.jpg|thumb|250px|[[ロンドン大火]]]] |
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[[1605年]]、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の暗殺計画を企てた[[火薬陰謀事件]]が発生した<ref name="london_023">{{Cite book|title=James I|last=Durston|first=Christopher|year=1993|publisher=Routledge|location=London|isbn=978-0-415-07779-8|page=59|ref=harv}}</ref>。[[17世紀]]初頭や[[1665年|1665]] - [[1666年]]にはペストが流行し<ref name="london_024">{{cite web|url=http://urbanrim.org.uk/plague%20list.htm|title=A List of National Epidemics of Plague in England 1348–1665|publisher=Urbanrim.org.uk|date=4 December 2009|accessdate=3 May 2010|archiveurl=https://www.webcitation.org/5gVUqcycW?url=http://urbanrim.org.uk/plague%20list.htm|archivedate=2009年5月4日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、10万人または人口の5分の1が死亡した<ref name="london_025">{{cite web|url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/plague/story.html|title=Story of the plague|publisher=Channel 4.|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0bPVKk?url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/plague/story.html|archivedate=2011年5月19日|accessdate=24 October 2011|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。[[1666年]]、シティのプディング・レーンにて[[ロンドン大火]]が発生し、市内の家屋の約85%が焼失した<ref name="Samuel Pepys' Diary">{{Cite book|last=Pepys|first=Samuel|authorlink=w:Samuel Pepys|title=The Diary of Samuel Pepys|volume=45: August/September 1666|date=2 September 1666|origyear=1893|editor1=[[Mynors Bright]] (decipherer)|editor2=[[Henry B. Wheatley]]|url=http://www.gutenberg.org/cache/epub/4167/pg4167.html|ref=harv|isbn=978-0-520-22167-3|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0bzHYi?url=http://www.gutenberg.org/cache/epub/4167/pg4167.html|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。建築家[[ロバート・フック]]指揮のもと<ref name="london_026">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/after_fire_02.shtml|title=London After the Great Fire: Civil War and Revolution|last=Schofield J|month=January|year=2001|publisher=BBC|accessdate=28 April 2008|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0ckJxq?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/after_fire_02.shtml|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="london_027">{{cite web|url=http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Special/LondonsBurning/Themes/1405/|title=Museum of London — Rebuilding after the fire|publisher=Museum of London|accessdate=27 April 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080201204641/http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Special/LondonsBurning/Themes/1405/|archivedate=2008年2月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="london_028">{{cite book|url=http://books.google.com/?id=jX8ZAAAAIAAJ&q=rebuilding+of+london&dq=rebuilding+of+london|title=The Rebuilding of London After the Great Fire|publisher=Thomas Fiddian|year=1940|accessdate=27 April 2008}}</ref>、ロンドン再建に10年の歳月を要した。 |
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[[1708年]]、[[クリストファー・レン]]の最高傑作である[[セント・ポール大聖堂]]が完成した。[[ハノーヴァー朝]]の時代には、[[メイフェア]]をはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流の[[ドックランズ]]に向かって拡張された。 |
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[[1762年]]、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]は[[バッキンガム宮殿|バッキンガム・ハウス]]を手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。[[18世紀]]、ロンドンの犯罪率は高く、[[1750年]]にはロンドン最初の専業の警察として{{仮リンク|バウストリートランナーズ|en|Bow Street Runners}}<ref>"[http://www.pbs.org/kqed/demonbarber/madding/thieftaker.html Thief Taker, Constable, Police]". Public Broadcasting Service (PBS).</ref>が設立された。総計で200件以上の犯罪に[[死刑]]判決が下され<ref>{{cite news|last=Jackson|first=Peter|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8181192.stm|title=Rough justice – Victorian style|publisher=BBC News|date=3 August 2009|accessdate=13 December 2011}}</ref>、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが[[絞首刑]]に処された<ref>{{cite news|author=Monday, 21 Mar. 1960|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,894775,00.html|title=National Affairs: Capital punishment: a fading practice|work=Time|date=21 March 1960|accessdate=13 December 2011}}</ref>。ロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/victorians/foundling_01.shtml|title=BBC – History – The Foundling Hospital|publisher=BBC|date=17 February 2011|accessdate=13 December 2011}}</ref>。[[コーヒー・ハウス]]が意見を交わす社交場として流行したのにともない、[[リテラシー]]の向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、[[フリート・ストリート]]は報道機関の中心地となっていた。 |
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[[1777年]]、[[サミュエル・ジョンソン]]は「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」という言葉を残した<ref name="london_022">{{cite web|url=http://www.samueljohnson.com/tiredlon.html|title=When a man is tired of London, he is tired of life: Samuel Johnson|ref=harv|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0fwREG?url=http://www.samueljohnson.com/tiredlon.html|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|accessdate=2019-01-04|language=en|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 |
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[[1831年|1831]] - [[1925年]]ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった<ref name="autogenerated1">{{cite web|url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/i-m/london4.html|title=London: The greatest city|publisher=Channel4.com|accessdate=12 October 2008|ref=harv|archiveurl=https://www.webcitation.org/5yo0g3KOn?url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/i-m/london4.html|archivedate=2011年5月19日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。著しく高い[[人口密度]]により[[コレラ]]が大流行し<ref>{{cite web|url=http://www.sciencemuseum.org.uk/broughttolife/themes/publichealth/cholera.aspx|title=Hidden extras: cholera comes to Victorian London|publisher=Sciencemuseum.org.uk|accessdate=13 December 2011}}</ref>、[[1848年]]に1万4,000人が死亡、[[1866年]]には6,000人が死亡した。特に、[[1854年]]8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。[[1855年]]に、{{仮リンク|首都建設委員会|en|Metropolitan Board of Works}}が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークである[[ロンドン地下鉄]]が開通している。首都建設委員会は[[1889年]]に{{仮リンク|ロンドン郡議会|en|London County Council}}になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。 |
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[[ファイル:LondonBombedWWII_full.jpg|サムネイル|250px|第二次世界大戦時、ドイツによる空襲を受けたロンドン]] |
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[[第二次世界大戦]]時、[[ザ・ブリッツ]]をはじめとする[[ドイツ空軍]]による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の[[1948年]]、[[ロンドンオリンピック (1948年)|ロンドンオリンピック]]が初代[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]にて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。 |
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[[1951年]]、{{仮リンク|フェスティバル・オブ・ブリテン|en|Festival of Britain}}が[[サウス・バンク (ロンドン)|サウス・バンク]]にて開催された。[[1952年]]、[[ロンドンスモッグ]]の対応策として{{仮リンク|大気浄化法 (1956年)|en|Clean Air Act 1956|label=大気浄化法}}が掲げられ、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている<ref>[http://www.telegraph.co.uk/health/healthnews/9427191/London-2012-pollution-alert-as-hot-sunny-weather-brings-asthma-risk.html London 2012: pollution alert as hot sunny weather brings asthma risk]5:02PM BST 25 Jul 2012 telegraph.co.uk</ref>。[[1940年代]]以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くは[[イギリス連邦]]加盟国の出身者である。内訳としては[[ジャマイカ]]、[[インド]]、[[バングラデシュ]]および[[パキスタン]]出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。 |
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主として[[1960年代]]半ば以降、ロンドンは世界的な[[ユースカルチャー]]の中心地となっていった。[[キングス・ロード]]、[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]、{{仮リンク|カーナービーストリート|en|Carnaby Street}}といった地域では{{仮リンク|スウィングロンドン|en|Swinging London}}といったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割は[[パンク・ロック]]の時代に復活し、[[1965年]]、ロンドンの[[都市的地域]]の拡大にともない、管轄範囲を拡大した[[グレーター・ロンドン・カウンシル]]が設立された。[[北アイルランド問題]]に関連し、ロンドンでは[[IRA暫定派]]による爆破事件が発生した。[[1981年]]の{{仮リンク|ブリクストン暴動|en|1981 Brixton riot}}では、[[人種差別]]問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、[[グレーター・ロンドン]]の人口は次第に減少していった。ピーク時の[[1939年]]の推計人口が861万5,245人だったのに対し、[[1980年代]]では約680万人に減少していた。[[ドックランズ]]の[[カナリー・ワーフ]]再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置する{{仮リンク|フェリクストウ港|en|Port of Felixstowe}}や{{仮リンク|ティンバリー港|en|Port of Tilbury}}に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な[[金融センター]]としての役割は増加の一途をたどった。[[1980年代]]、高潮による[[北海]]からの海水の流入をせき止め、洪水を防止する{{仮リンク|テムズバリア|en|Thames Barrier}}が完成した。[[1986年]]、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。 |
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[[2000年]]、グレーター・ロンドンを管轄する[[グレーター・ロンドン・オーソリティー]]が設立された。ミレニアム記念事業の一環として、[[ミレニアム・ドーム]]、[[ロンドン・アイ]]、[[ミレニアム・ブリッジ (ロンドン)|ミレニアム・ブリッジ]]が建設された。[[2005年]]、[[ロンドン同時爆破事件]]が発生し地下鉄車両とバスが爆破された<ref name="london_031">{{Cite journal|title=7 July Bombings: Overview|url=http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/uk/05/london_blasts/what_happened/html/default.stm|publisher=BBC News|location=London|accessdate=28 April 2008|ref=harv|archiveurl=https://www.webcitation.org/5MchR94le?url=http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/uk/05/london_blasts/what_happened/html/default.stm|archivedate=2007年2月13日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。[[2012年]]、[[ロンドンオリンピック (2012年)|第30回オリンピック]]が開催された。[[ロンドンオリンピック (1908年)|1908年]]や[[ロンドンオリンピック (1948年)|1948年]]に次ぐ3度目の[[近代オリンピック|オリンピック]]開催であり、同一都市としては史上最多となる。2016年に行われた、[[イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票]]では、結果的にイギリス全体では離脱派が残留派を上回ったものの、ロンドンだけを見ると残留派が離脱派よりも多かった<ref>{{Cite web|title=Thousands call on Sadiq Khan to declare London's independence|url=https://www.standard.co.uk/news/london/wouldn-t-you-prefer-to-be-president-sadiq-thousands-back-campaign-for-sadiq-khan-to-declare-london-s-independence-and-join-eu-a3280141.html|website=www.standard.co.uk|date=2016-06-24|accessdate=2021-04-21|language=en|first=Mark|last=Chandler}}</ref>。 |
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ロンドンは、アメリカの[[シンクタンク]]が[[2017年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、世界1位の都市と評価されたほか<ref>[http://www.joneslanglasalle.co.jp/japan/ja-jp/Documents/New%20Release/20171023-JLL-DecodingCityPerformance.pdf JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表] JLL 2017年10月25日閲覧。</ref>、[[2020年]]には[[フランス]]の[[エマニュエル・マクロン]]大統領より、[[レジオンドヌール勲章]]を授与された<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3289183 ロンドン市に仏最高勲章=「ドゴール演説」80周年]AFPBB News 2020年6月19日</ref>。 |
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2021年4月22日 (木) 16:19時点における版
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本項ではロンドンの歴史(英語: History of London)について解説する。イギリスおよびこれを構成するイングランドの首都であるロンドンの歴史は、およそ2,000年に及ぶ。 2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が、都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)にあたる地域にあった。現在シティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。
現在ロンドンは世界的な大都市に成長しているが、現在に至るまで、ペストや大火、内戦、空襲、テロなど、様々な事件や災害などを経験している。シティ・オブ・ロンドンは、都市全体を見れば小さめのエリアであるが、ロンドンの歴史の中でも重要な存在であり、なおかつ重要な経済地域である。
先史時代・古代・中世
近年の2つの発見によると、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。現在のテムズ川付近に最初期の入植地があったとされる。1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている[1]。この橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。樹木学では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された[2]。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。
とある考古学者は「考古学的な大規模調査が行われているにも関わらず、鉄器時代の人々の居住の形跡はロンドンでは発見されていないため、既に発見されているロンドンという都市の基礎は、ローマ時代以降のものであると認められる。」としている[3]。
ローマ時代
ロンディニウム(羅:Londinium)は、西暦43年の侵略から約4年後にローマ人によって設立された古代ローマ帝国の都市である[4]。 民族が多様な都市で、ブリテン島南部の商業の中心地となり、後のシティ・オブ・ロンドンの原型となった。このロンディニウムの創建が、ロンドンという都市の起源である。
ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認されるが、ロンディニウムは最初の大きな開拓地としてローマ帝国によって創建されたのである(この開拓は17年間続いた)[5]。
ロンドンはローマと同様に、橋を架けるのに十分なほど狭い川がある都市であり、戦略の対象になりやすく、ヨーロッパの多くの場所に行き来しやすい場所であった。当時のロンドンは、現在のハイド・パークとほぼ同等の面積で、非常に狭かった。そして61年ごろ、ブーディカが率いるイケニ族によって強襲され焼き討ちされた[6]。しかし都市は、ローマの都市として計画通りにすぐに再建され、10年後に復旧した。都市はその後数十年で急速に成長した。
なお、紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住し、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという説もある[7]。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。
2世紀の間、ロンディニウムは高度成長の頂点に達し、紀元100年にコルチェスターに代わってブリタンニアの州都となった。当時(2世紀のローマ支配のロンドン)の人口は約60,000人であった。アルプスの北にある大聖堂や、寺院、浴場、円形劇場、都市の駐屯地などがあった。 3世紀以降は景気などが悪化し、都市が徐々に衰退した。
西暦180年から西暦225年にかけての間に、ローマ人はロンディニウムの周辺に「ロンドン・ウォール」という防御壁を建設した。防御壁は全長約3km、高さ6m、厚さ2.5mであった。
3世紀後半、ロンディニウムはサクソンの海賊によって何度か襲撃された[8]。これにより、約255年以降、川沿いの壁が次々と建設された。壁には門が備えられていたが、伝統的な7つの門のうち、6つはローマ起源であった。
5世紀までに、ローマ帝国は急速に衰退し、西暦410年に、ブリタンニアのローマによる占領は終わった。その後、ローマの都市も急速に衰退し、ローマは5世紀の終わりまでに事実上ロンドンを放棄した。
ルンデンヴィック (5世紀〜1066年)
ルンデンヴィックとは、6世紀からアングロ・サクソン人がローマ人の古い街のわずかに西に築いた開拓地のことである。近年まで、アングロ・サクソン人はロンディニウム周辺を入植地とすることを避けていたと思われていた。しかし、2008年にコヴェント・ガーデンでアングロ・サクソン人の墓地が発見されたため、少なくとも6世紀(もしくは5世紀)にはそこに人が住み始めていたと考えられる。特に、ローマ時代の城壁の外側、現在のストランド(オールドウィッチとトラファルガー広場の間)付近に人口が集中していた。つまり、ルンデンヴィックは現在のコヴェント・ガーデンおよびストランドに相当し、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。
近世・近現代
この節の加筆が望まれています。 |
人口の推移
年 | 人口 | |
---|---|---|
1 | 1–A few farmers | |
50 | 50–100 | |
140 | 45–60,000 | |
300 | 10–20,000 | |
800 | 10–12,000 | |
1000 | 20–25,000 | |
1100 | 10–20,000 | |
1200 | 20–25,000 | |
1300 | 80–100,000 | |
1350 | 25–50,000 | |
1500 | 50–100,000 | |
1550 | 120,000 | |
1600 | 200,000 | |
1650 | 350,000-400,000 | |
1700 | 550,000-600,000 | |
1750 | 700,000 | |
1801 | 959,300 | |
1831 | 1,655,000 | |
1851 | 2,363,000 | |
1891 | 5,572,012 | |
1901 | 6,506,954 | |
1911 | 7,160,525 | |
1921 | 7,386,848 | |
1931 | 8,110,480 | |
1939 | 8,615,245 | |
1951 | 8,196,978 | |
1961 | 7,992,616 | |
1971 | 7,452,520 | |
1981 | 6,805,000 | |
1991 | 6,829,300 | |
2001 | 7,322,400 | |
2006 | 7,657,300 | |
2011 | 8,174,100 | |
2015 | 8,615,246 |
脚注
- ^ Denison, Simon (July 1999). “First 'London Bridge' in River Thames at Vauxhall”. British Archaeology (46). オリジナルの2011年5月19日時点におけるアーカイブ。 15 April 2011閲覧。.
- ^ Milne, Gustav. “London's Oldest Foreshore Structure!”. Frog Blog. Thames Discovery Programme. 2011年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。15 April 2011閲覧。
- ^ Wallace, Leslie『Late pre-Roman Iron Age (LPRIA)』Cambridge University Press、2015年、9頁。ISBN 978-1107047570。
- ^ Number 1 Poultry (ONE 94), Museum of London Archaeology, 2013. Archaeology Data Service, The University of York.
- ^ Perring, Dominic (1991). Roman London. London: Routledge. p. 1ref = harv. ISBN 978-0-203-23133-3
- ^ “British History Timeline —Roman Britain”. British Broadcasting Corporation. 2011年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。7 June 2008閲覧。
- ^ 縄文日本文明一万五千年史序論. 東京: 成甲書房. (2003). p. 301. ISBN 4-88086-149-9
- ^ “Londinium – Excavating London's Past” (英語). Rome Across Europe (2015年7月30日). 2019年7月15日閲覧。