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'''フランツ・ブレンターノ'''({{Lang|it|Franz Clemens Honoratus Hermann Brentano}}、[[1838年]][[1月16日]] - [[1917年]][[3月17日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]の[[哲学者]]・[[心理学者]]。哲学の世界に[[志向性]]の概念を再導入し[[現象学]]の基盤を作った。作用心理学(Act Psychology)の祖<ref>[[#今田(1962)|今田(1962)]] p.226</ref>。論理学においては判断の理論を展開した。[[エドムント・フッサール]]、[[アレクシウス・マイノング]]などに多大な影響を与えた。 |
'''フランツ・ブレンターノ'''({{Lang|it|Franz Clemens Honoratus Hermann Brentano}}、[[1838年]][[1月16日]] - [[1917年]][[3月17日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]の[[哲学者]]・[[心理学者]]。哲学の世界に[[志向性]]の概念を再導入し[[現象学]]の基盤を作った。作用心理学(Act Psychology)の祖<ref>[[#今田(1962)|今田(1962)]] p.226</ref>。論理学においては判断の理論を展開した。[[エドムント・フッサール]]、[[アレクシウス・マイノング]]などに多大な影響を与えた。ブレンターノに指導を受けた、あるいは強い影響を受けた学者を[[ブレンターノ学派]]ということがある。 |
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2019年1月30日 (水) 15:58時点における版
フランツ・ブレンターノ | |
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1838年1月16日 バイエルン王国、アシャッフェンブルク |
死没 |
1917年3月17日(79歳没) スイス、チューリッヒ |
出身校 | ヴュルツブルク大学 |
学問 | |
影響を与えた人物 |
フランツ・ブレンターノ(Franz Clemens Honoratus Hermann Brentano、1838年1月16日 - 1917年3月17日)は、オーストリアの哲学者・心理学者。哲学の世界に志向性の概念を再導入し現象学の基盤を作った。作用心理学(Act Psychology)の祖[1]。論理学においては判断の理論を展開した。エドムント・フッサール、アレクシウス・マイノングなどに多大な影響を与えた。ブレンターノに指導を受けた、あるいは強い影響を受けた学者をブレンターノ学派ということがある。
生涯
フランツ・ブレンターノは、1838年バイエルン王国アシャフェンブルクのイタリア出身のドイツの名門ブレンターノ家に生まれた。ドイツ・ロマン主義の代表的な小説家クレメンス・ブレンターノは彼の伯父、有名な女流詩人ベッティーナ・フォン・アルニムは伯母である。また、彼の弟ルヨ・ブレンターノは経済学者としてその名を残している。彼の父クリスティアン・ブレンターノはカトリックの宗教的な著述家であったという。父は早くに死んだので、フランツはもっぱらその母エミリエによって、敬虔なカトリックの精神的雰囲気の内で育てられた[2]。
ミュンヘン・ヴュルツブルク・ベルリン・ミュンスターの各大学で哲学と神学を学び、1862年にテュービンゲン大学で学位取得した。1864年にカトリックの司祭に奉職し、1866年にヴュルツブルク大学で教授資格を取得する。しかし、司祭職に関しては、哲学的動機により、カトリックの教義に疑念を持つようになり、1873年に辞任した。これが波紋となり、ヴュルツブルク大学も去り、1874年にウィーン大学へ移る。この年に、「経験的立場からの心理学」を出版。1880年には、ウィーン大学の教授を辞し、同大の私講師になった。1884年から1886年にかけてはフッサールがブレンターノの講義を聞きに来ていた。しかし、1895年には教職を辞して[3]、フィレンツェに移住した。この年、ミュンヘンにおける第三回国際心理学会に出席し『感覚論について』という講演を行った。1914年に勃発した第一次世界大戦を避け、チューリッヒへ移住し、同地で1917年に没した。79歳だった。
思想
ブレンターノはドイツ観念論のような思弁による概念構成の哲学を退け、経験的立場からの哲学を主張した。 ブレンターノは人間の内部意識に中心を置き、内的心的現象を分析することを通して、哲学的体系を構築しようとしたことから、彼の哲学の基盤は「心的現象の学」としての心理学であった[4]。したがって、その心的現象と呼ばれるものを定義するために、経験的に得られる所与(data)としての現象を、心的現象とその対立概念である物的現象に分類する必要があった。
我々は内部になにか現象が発生するとき、すなわち所与(data)を得るときは、五感による外部知覚を介すか、もしくはその得た所与から引き起こされる内的現象を内部知覚を介して認識する。 ブレンターノは、色・音・暖・冷などの五感で知覚された所与、現象を物的現象と呼び、その物的現象を得ることで引き起こされる内部知覚でしか認識できない内的現象(感情など)のことを心的現象と呼んだ。さらに、そのような心的現象を引き起こすような外部知覚で知覚される対象は志向性(Intentionalität、指向性とも書く)を持つとした。
ふつう心理は、五感で知覚された所与の認識だけではなく、それらを原因とする内的に発生する現象の因果的連鎖からなると考えられるので、この志向性の概念は、心理学や現象学へ大きな影響を与えた。他にアリストテレス研究や哲学史、美学、形而上学、認識論などに業績を持つ。
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著作
- アリストテレスによる存在者のさまざまな意味について
- 経験的立場からの心理学 (Psychologie vom empirischen Standpunkt)
- 道徳的認識の源泉について (Vom Ursprung sittlicher Erkenntnis)[5]
- 心的現象の分類について (Von der klassifikationen der psychischen phänomene)
など
脚注
- ^ 今田(1962) p.226
- ^ 世界の名著51(1970)p.8
- ^ このときちょうど入れ替わるようにプラハ大学からウィーン大学哲学教授に就任したのが1885年刊行の『感覚の分析』で知られていたエルンスト・マッハであった。
- ^ 小倉(1986) p.52,72
- ^ 世界の名著51(1970)収録
関連項目
参考文献
- 小倉 貞秀『ブレンターノの哲学』以文社、1986年。
- 細谷 恒夫(編) 編『世界の名著』 51巻、中央公論社、1970年。
- 今田 恵『心理学史』岩波書店、1962年。
- マイケル・ダメット 著、野本 和幸(訳) 編『分析哲学の起源』勁草書房、1998年。
外部リンク
- 20世紀西洋人名事典『フランツ ブレンターノ』 - コトバンク