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'''山脇 巌'''(やまわき いわお、[[1898年]][[4月29日]] - [[1987年]][[3月8日]])は、戦前から戦後にかけて活躍した[[日本]]の[[建築家]]、[[写真家]]。
'''山脇 巌'''(やまわき いわお、[[1898年]][[4月29日]] - [[1987年]][[3月8日]])は、戦前から戦後にかけて活躍した[[日本]]の[[建築家]]、[[写真家]]。[[日本大学]][[名誉教授]]。
[[バウハウス]]理論を日本へ紹介、バウハウスの造形理論を教育に導入。日本のデザイン教育の方向に重要な役割を果たした。


== 人物概要 ==
1898年4月29日、藤田家の三男として[[長崎県]]に生まれる。1926年、[[東京美術学校]] 図案科第二部([[建築科]])卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。
1898年4月29日、藤田家の三男として[[長崎県]]対馬で生まれる。

1926年、[[東京美術学校]] 図案科第二部([[建築科]])卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。


[[裏千家]]の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・[[お茶の水女子大学附属中学校・高等学校]])生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。
[[裏千家]]の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・[[お茶の水女子大学附属中学校・高等学校]])生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。


1930年、夫人とともに[[ドイツ]]の[[バウハウス]]に留学し、建築やフォトモンタージュなどを修得。バウハウス留学中に撮影したドイツ建築のモノクロ写真が現在も残されている。バウハウス閉鎖後の1932年帰国。バウハウスで学んだフォトコラージュ作品「バウハウスへの打撃」を日本で発表。1930年から1932年まで、[[川喜田煉七郎]]の[[新建築工芸学院]]に在籍。
1930年、夫人とともに[[ドイツ]]の[[バウハウス]]に留学し、ミース、カンデンスキーらに学んだ。
建築やフォトモンタージュなどを修得。バウハウス留学中に撮影したドイツ建築のモノクロ写真が現在も残されている。バウハウス閉鎖後の1932年帰国。バウハウスで学んだフォトコラージュ作品「バウハウスへの打撃」を日本で発表。
帰国後、[[川喜田煉七郎]]の[[新建築工芸学院]]に在籍。[[自由学園]]工芸研究所講師。建築設計監理事務所開設
その後も1939年のニューヨーク万国博覧会国際館日本部を手掛けるなど国際的な展示設計の場で活躍した。


その後帝国美術学校(現・[[武蔵野美術大学]])校長・造型美術学園学園長を経て、1947年、[[日本大学]][[教授]]。[[芸術学部]][[デザイン学科]]の基礎を築いた。
1940年、帝国美術学校(現・[[武蔵野美術大学]])校長・造型美術学園学園長を経て、1942年、国民生活科学文化協会常任理事。
1947年、[[日本大学]][[教授]]。[[日本大学芸術学部]][[デザイン学科]]の基礎を築いた。1977年から同大名誉教授


1947年、小杉二郎らと設計事務所「生産工芸研究所」設立。1951年、ハノーファーの世界建築博覧会で日本の展示設計を手がけた。
1947年、小杉二郎らと設計事務所「生産工芸研究所」設立。1951年、ハノーファーの世界建築博覧会で日本の展示設計を手がけた。


建築作品に、古材利用に努めたケヤキハウス(1954年に住宅、1960年に離れ)K邸‐樺太の丸太小屋、バウハウスの国際様式をとりいれた三岸好太郎美術館・旧三岸好太郎アトリエ([[三岸好太郎]]と。1934年)諸井邸(1954年に竣工)など。
建築作品に、古材利用に努めたケヤキハウス(1954年に住宅、1960年に離れ)K邸‐樺太の丸太小屋、バウハウスの国際様式をとりいれた三岸好太郎美術館・旧三岸好太郎アトリエ([[三岸好太郎]]と。1934年)諸井邸(1954年に竣工)、自邸「山脇邸」(1935年)などの住宅作品をはじめ、「旧俳優座劇場」(1953年)「日本大学芸術学部校舎」(1965, 1970年) [[桐朋学園大学]]音楽部校舎(1964年)など。

著書に、『バウハウスの人々 近代[[建築家]]7』(彰国社 昭和29年)『建築習作』
『オランダ新建築』(洪洋社 1933)『欅』(アトリエ社 1942)『欅統』(井上書院 1973)、など。


1968年、勲五等双光旭日章受章。1987年心不全のため東京·三田の自宅で逝去。享年八十八。
著書に、『バウハウスの人々 近代[[建築家]]7』(彰国社 昭和29年)『建築習作』、など。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* 山脇 巌写真集 Steidl出版 1999年
* 山脇 巌写真集 Steidl出版 1999年
* 山脇巌 『バウハウスの人々』 近代[[建築家]]7 [[彰国社]] 1954年
* 山脇巌 『バウハウスの人々』 近代[[建築家]]7 [[彰国社]] 1954年
* 山脇巌の受けた建築教育「建築雑誌」1975年12月 
* 佐々木宏「山脇巌1930-1933, 近代建築の目撃者」新建築社1977
* 勝村謙一「パウハウスと日本のデザイン教育」大月短大論集」14 1983.3
* 苫名直子「白いアトリエ-三岸好太郎のアトリエをめぐって 銀座モダンと都市意匠」資生堂企業文化部 1993
* 山脇氏に聞く「建築士」1980.12. 1981.1(聞き手平島二郎)
* 如く信ず バウハウス理論を日本へ紹介 日大名誉教授山脇巌氏逝去「新建築」1987年4月号


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2018年10月30日 (火) 10:24時点における版

山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 1987年3月8日)は、戦前から戦後にかけて活躍した日本建築家写真家日本大学名誉教授バウハウス理論を日本へ紹介、バウハウスの造形理論を教育に導入。日本のデザイン教育の方向に重要な役割を果たした。

人物概要

1898年4月29日、藤田家の三男として長崎県対馬で生まれる。

1926年、東京美術学校 図案科第二部(建築科)卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。

裏千家の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。

1930年、夫人とともにドイツバウハウスに留学し、ミース、カンデンスキーらに学んだ。 建築やフォトモンタージュなどを修得。バウハウス留学中に撮影したドイツ建築のモノクロ写真が現在も残されている。バウハウス閉鎖後の1932年帰国。バウハウスで学んだフォトコラージュ作品「バウハウスへの打撃」を日本で発表。 帰国後、川喜田煉七郎新建築工芸学院に在籍。自由学園工芸研究所講師。建築設計監理事務所開設。 その後も1939年のニューヨーク万国博覧会国際館日本部を手掛けるなど国際的な展示設計の場で活躍した。

1940年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)校長・造型美術学園学園長を経て、1942年、国民生活科学文化協会常任理事。

1947年、日本大学教授日本大学芸術学部デザイン学科の基礎を築いた。1977年から同大名誉教授。

1947年、小杉二郎らと設計事務所「生産工芸研究所」設立。1951年、ハノーファーの世界建築博覧会で日本の展示設計を手がけた。

建築作品に、古材利用に努めたケヤキハウス(1954年に住宅、1960年に離れ)K邸‐樺太の丸太小屋、バウハウスの国際様式をとりいれた三岸好太郎美術館・旧三岸好太郎アトリエ(三岸好太郎と。1934年)諸井邸(1954年に竣工)、自邸「山脇邸」(1935年)などの住宅作品をはじめ、「旧俳優座劇場」(1953年)「日本大学芸術学部校舎」(1965, 1970年) 桐朋学園大学音楽部校舎(1964年)など。

著書に、『バウハウスの人々 近代建築家7』(彰国社 昭和29年)『建築習作』 『オランダ新建築』(洪洋社 1933)『欅』(アトリエ社 1942)『欅統』(井上書院 1973)、など。

1968年、勲五等双光旭日章受章。1987年心不全のため東京·三田の自宅で逝去。享年八十八。

関連項目

参考文献 

  • 山脇 巌写真集 Steidl出版 1999年
  • 山脇巌 『バウハウスの人々』 近代建築家7 彰国社 1954年
  • 山脇巌の受けた建築教育「建築雑誌」1975年12月 
  • 佐々木宏「山脇巌1930-1933, 近代建築の目撃者」新建築社1977
  • 勝村謙一「パウハウスと日本のデザイン教育」大月短大論集」14 1983.3
  • 苫名直子「白いアトリエ-三岸好太郎のアトリエをめぐって 銀座モダンと都市意匠」資生堂企業文化部 1993
  • 山脇氏に聞く「建築士」1980.12. 1981.1(聞き手平島二郎)
  • 如く信ず バウハウス理論を日本へ紹介 日大名誉教授山脇巌氏逝去「新建築」1987年4月号
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