「泰緬鉄道」の版間の差分
m編集の要約なし |
|||
43行目: | 43行目: | ||
[[ファイル:Bridge over River Kwai.jpg|thumb|映画『[[戦場にかける橋]]』の舞台になったクウエー川鉄橋]] |
[[ファイル:Bridge over River Kwai.jpg|thumb|映画『[[戦場にかける橋]]』の舞台になったクウエー川鉄橋]] |
||
* '''[[JEATH戦争博物館]]'''(JEATH War Museum) - 寺院の一角に建設されており、連合国軍が収容されていた小屋や連合国軍捕虜による絵画作品などを多数展示している。JEATHとは鉄道建設に関連した国・Japan([[日本]])、England([[イギリス]])、America([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、Thailand(タイ)、Holland([[オランダ]])の頭文字を取ったもの。最初DEATHという案だったが、タイの国民性に合わぬということでこう名付けられた。 |
* '''[[JEATH戦争博物館]]'''(JEATH War Museum) - 寺院の一角に建設されており、連合国軍が収容されていた小屋や連合国軍捕虜による絵画作品などを多数展示している。JEATHとは鉄道建設に関連した国・Japan([[日本]])、England([[イギリス]])、America([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、Thailand(タイ)、Holland([[オランダ]])の頭文字を取ったもの。最初DEATHという案だったが、タイの国民性に合わぬということでこう名付けられた。 |
||
* '''第二次世界大戦博物館'''(World War Ⅱ Museum) - [[クウェー川鉄橋]]傍にある中国寺院。基本的にJEATHと同一内容の展示であるが、その他カーンチャナブリーの歴史に関する資料など、その他の博物も所蔵する。基本的に文物は雑然と並べられているが、コンクリート製・等身大の連合国捕虜の像など生々しいものが多い。クウェー川鉄橋を架ける前に作られた木橋の残骸もここで見ることができる。 |
* '''第二次世界大戦&JEATH戦争博物館'''(World War Ⅱ & JEATH War Museum) - タイ人家族経営の博物館。入館料40バーツ。[[クウェー川鉄橋]]傍にある中国寺院。基本的にJEATHと同一内容の展示であるが、その他カーンチャナブリーの歴史に関する資料など、その他の博物も所蔵する。基本的に文物は雑然と並べられているが、コンクリート製・等身大の連合国捕虜の像など生々しいものが多い。クウェー川鉄橋を架ける前に作られた木橋の残骸もここで見ることができる。 |
||
* ''' |
* '''死の鉄道博物館'''(Death Railway Museum) - 2003年にオーストラリア人が新設。入館料140バーツ。カーンチャナブリー駅近くの連合軍墓地横にある。[[インド洋]]に制海権のない日本軍がこの鉄道を必要としたことや、連合軍捕虜より劣悪な扱いを受けたアジア人労務者のほうがはるかに死亡率や死者が多いことなど、客観的な歴史に関する記述もある。セメントが湿気で自然硬化する環境のため、トンネルを切通しとしたジオラマ展示などがある。 |
||
* '''ヘルファイアー・パス博物館'''(Hellfire Pass Memorial) - この博物館はカーンチャナブリー市の北西80km、カーンチャナブリー県内の[[サイヨーク郡]]にある。新しい博物館で非常に清潔な感じがする一方で、展示品が少ない。入場料は取っておらず寄付制。博物館は崖に面しており、ヴェランダから当時のヘルファイアー・パスと呼ばれた切り通しの建設現場を見ることができる。ヘルファイアーとは、夜を徹して行われた突貫工事のかがり火を地獄の送り火に見立てたもの。レールや枕木が一部残されている。 |
* '''ヘルファイアー・パス博物館'''(Hellfire Pass Memorial) - この博物館はカーンチャナブリー市の北西80km、カーンチャナブリー県内の[[サイヨーク郡]]にある。新しい博物館で非常に清潔な感じがする一方で、展示品が少ない。入場料は取っておらず寄付制。博物館は崖に面しており、ヴェランダから当時のヘルファイアー・パスと呼ばれた切り通しの建設現場を見ることができる。ヘルファイアーとは、夜を徹して行われた突貫工事のかがり火を地獄の送り火に見立てたもの。レールや枕木が一部残されている。 |
||
* '''カンチャナブリー |
* '''カンチャナブリー戦争墓地'''(Kanchanaburi War Cemetery) - 主にイギリス3585人、オランダ1896人、オーストラリア1362人の兵士達の墓地。現在でも献花に来る人は多く、よく整備されている。 |
||
* '''チョンカイ連合軍共同墓地'''(Chongkai War Cemetery) - 上記より郊外にあるため、訪れる人は少ないが、規模は上記より大きい。 |
* '''チョンカイ連合軍共同墓地'''(Chongkai War Cemetery) - イギリス人1,373、オランダ人 314 人、英国領インド人6人の墓地。上記より郊外にあるため、訪れる人は少ないが、規模は上記より大きい。 |
||
* '''[[クウェー川鉄橋]]''' - [[戦場にかける橋]]で有名な橋。現在再建されている。 |
* '''[[クウェー川鉄橋]]''' - [[戦場にかける橋]]で有名な橋。現在再建されている。 |
||
*[[ファイル:泰緬鉄道建設犠牲者慰霊碑.jpg|サムネイル|'''泰緬鉄道建設犠牲者慰霊碑''']]'''日本軍の慰霊碑''' - 泰緬鉄道が完成した[[1944年]]2月に日本軍鉄道隊によって建てられた。慰霊碑は鉄道建設に従事して死亡した連合国兵士と東南アジアからの[[労務者(太平洋戦争)|労務者]]を慰霊している。 |
*[[ファイル:泰緬鉄道建設犠牲者慰霊碑.jpg|サムネイル|'''泰緬鉄道建設犠牲者慰霊碑''']]'''日本軍の慰霊碑''' - 泰緬鉄道が完成した[[1944年]]2月に日本軍鉄道隊によって建てられた。慰霊碑は鉄道建設に従事して死亡した連合国兵士と東南アジアからの[[労務者(太平洋戦争)|労務者]]を慰霊している。 |
2018年6月13日 (水) 01:17時点における版
泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、大東亜戦争中にタイとミャンマーを結んでいた鉄道。旧日本陸軍によって建設・運行されたが、戦後英国軍が日本軍捕虜に命じて部分的に撤去され、現在はナムトックサイヨークノイ停車場で途切れている[1]。日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名称は「Thai-Burma Railway(またはBurma Railway)」だが、大量の死者を出した過酷な建設労働から英語圏ではむしろ「死の鉄道(Death Railway)」の名で知られる[2]。存置部分は、タイ国有鉄道南本線ナムトック支線として運行されている。深い自然の中を通っているため風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」や「タム・クラセー桟道橋(アルヒル桟道橋)」など見所も多いため、観光客に人気の路線となっている。
ルート
バンコクのトンブリー駅(旧バンコクノーイ駅)を始発駅とし西部へ進みナコーンパトム県、ラーチャブリー県、カーンチャナブリー県を通り、ミャンマー・ヤンゴンへ至る。現在では泰緬(タイ・ミャンマー)両国の国境付近の鉄道はイギリスによって撤去させられたため、タイ側ではトンブリー駅(旧バンコクノーイ駅)からナムトック駅(臨時列車がナムトックサイヨークノーイ停車場まで運行されることもある)まで1日2往復の列車が運行されている。
歴史
この鉄道の建設は20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギリスが検討していたが、地形が複雑で建設を断念した。戦時中の1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するために建設を開始した。建設計画はイギリスが検討した5つの案(チェンマイ - トングー、ピッサヌローク・ターク - モールメン、現在のルート、カンチャナブリー - タボイ、チュンポン - メルグイ)[3]の内の1つを踏襲している。背景としては当時のビルマとタイの間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートが少なく、その海上輸送路もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になったため、海上輸送路とは別に陸上輸送路が求められた。
建設は迅速さを要求されたためビルマ側・タイ側両方から開始した。ビルマ・タイにはすでに多少の鉄道が建設されており、タイ側は1942年7月5日に南本線のノーンプラードゥック駅から、ビルマ側からは1942年6月28日にタンビュザヤより建設を開始した。建設の作業員には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人(うちイギリス人6904人、オーストラリア人2802人、オランダ人2782人、アメリカ人133人の合計1万2621人が死亡)のほか、募集や強制連行[4]による「ロウムシャ」と呼ばれた労働者 ➖ タイ人数万(正確な数は不明)、ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人が使役された。建設現場の環境は劣悪でいわゆるタコ部屋労働であり、特に工事の後半の1943年には翌年のインパール作戦に向けての準備に加え敵潜水艦によって海上輸送が困難になったため雨季にもかかわらずさらなる迅速さが要求され、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上り、戦後に問題となった。犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出るが、総数の約半分と言われる。特に、巨大な一枚岩を掘り下げるなどしたヘルファイアー・パスと呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿わせるように木橋を建設したアルヒル桟道橋など未開発の地帯では、工作機械不足と突貫工事による人海戦術のため死者が多かったという。また現場の作業を監督した鉄道隊には国際法を理解したものが少なかったためしばしば私的制裁が横行した。こうした労働者の多大な犠牲のもと、当初5年は掛かると言われた建設が1943年10月に完成した。
完成後、1943年11月6日の大東亜会議共同宣言に続き、1944年3月に開始されたインド国民軍と日本軍協同のインパール作戦に重要な役割を担った。
戦時中、完成後は連合軍の爆撃機により空爆が行われ、橋は破壊されては復旧されることを繰り返していた。それにも関わらず、連合軍は鉄道の輸送を完全に止めさせることができなかった。これは「枕木一本、死者一人。」と言われる一因となる。捕虜収容所は橋から近かったため、連合軍の爆撃で外れた爆弾が多々落ちてきて、多数の死者が出た。
当初の予定では一日の輸送量3,000tの予定であったが工期短縮のため1,000tになったが雨期の豪雨や空襲によりそれさえ達成できなくなった。突貫工事による欠陥により脱線事故が多発し沿線のあちこちに機関車や貨車の残骸が放置されていたという。
その後必要性の低さ(英国はこの鉄道をシンガポール港の重要性を下げる要因になると考えた)、維持費の高さなどから、ミャンマー側の全線とタイ側の国境から3分の2にあたる区間が廃止となった。また、タイ側の一部はダムに沈んでいる。戦後、泰緬鉄道建設を担った鉄道連隊に所属する兵士や連合軍捕虜を取り扱った俘虜収容所の関係者らが、BC級戦犯として「捕虜虐待」などの戦争犯罪に問われ、処刑された(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件を参照)。「ロウムシャ」の徴集には銃剣をつきつけ脅かして強制連行した例が見られるという[5]。捕虜の動員については保養地に行くと聞かされたので騙されたと感じたという捕虜の証言がある[6]
また捕虜の輸送には赤十字の標識がされていない輸送船(いわゆるヘルシップ)が使用されたため、こちらも連合国軍の潜水艦の襲撃により大きな死者が出た。
現在建設の中心部となったカーンチャナブリー市内には連合国捕虜の共同墓地や戦争博物館が建設されている。
現在、ミャンマー政府は泰緬鉄道の廃線部分に新たな鉄道と幹線道路を建設する計画を進めている[7]。
1946年1月16日、 イギリス軍司令部は、ニーケ~ソンクライ間4kmのレールの撤去を地区担当の日本軍鉄道隊に命じた。以後、ビルマ側の泰緬鉄道は順次取り外され、レールはモーラミャインに集結されて、路盤は元のジャングルに返された。[8]
イギリス政府はタイ政府に対して、この撤去分断された泰緬鉄道を5千万バーツで売りつけた。[9]
泰緬鉄道関連施設
- JEATH戦争博物館(JEATH War Museum) - 寺院の一角に建設されており、連合国軍が収容されていた小屋や連合国軍捕虜による絵画作品などを多数展示している。JEATHとは鉄道建設に関連した国・Japan(日本)、England(イギリス)、America(アメリカ)、Thailand(タイ)、Holland(オランダ)の頭文字を取ったもの。最初DEATHという案だったが、タイの国民性に合わぬということでこう名付けられた。
- 第二次世界大戦&JEATH戦争博物館(World War Ⅱ & JEATH War Museum) - タイ人家族経営の博物館。入館料40バーツ。クウェー川鉄橋傍にある中国寺院。基本的にJEATHと同一内容の展示であるが、その他カーンチャナブリーの歴史に関する資料など、その他の博物も所蔵する。基本的に文物は雑然と並べられているが、コンクリート製・等身大の連合国捕虜の像など生々しいものが多い。クウェー川鉄橋を架ける前に作られた木橋の残骸もここで見ることができる。
- 死の鉄道博物館(Death Railway Museum) - 2003年にオーストラリア人が新設。入館料140バーツ。カーンチャナブリー駅近くの連合軍墓地横にある。インド洋に制海権のない日本軍がこの鉄道を必要としたことや、連合軍捕虜より劣悪な扱いを受けたアジア人労務者のほうがはるかに死亡率や死者が多いことなど、客観的な歴史に関する記述もある。セメントが湿気で自然硬化する環境のため、トンネルを切通しとしたジオラマ展示などがある。
- ヘルファイアー・パス博物館(Hellfire Pass Memorial) - この博物館はカーンチャナブリー市の北西80km、カーンチャナブリー県内のサイヨーク郡にある。新しい博物館で非常に清潔な感じがする一方で、展示品が少ない。入場料は取っておらず寄付制。博物館は崖に面しており、ヴェランダから当時のヘルファイアー・パスと呼ばれた切り通しの建設現場を見ることができる。ヘルファイアーとは、夜を徹して行われた突貫工事のかがり火を地獄の送り火に見立てたもの。レールや枕木が一部残されている。
- カンチャナブリー戦争墓地(Kanchanaburi War Cemetery) - 主にイギリス3585人、オランダ1896人、オーストラリア1362人の兵士達の墓地。現在でも献花に来る人は多く、よく整備されている。
- チョンカイ連合軍共同墓地(Chongkai War Cemetery) - イギリス人1,373、オランダ人 314 人、英国領インド人6人の墓地。上記より郊外にあるため、訪れる人は少ないが、規模は上記より大きい。
- クウェー川鉄橋 - 戦場にかける橋で有名な橋。現在再建されている。
- 日本軍の慰霊碑 - 泰緬鉄道が完成した1944年2月に日本軍鉄道隊によって建てられた。慰霊碑は鉄道建設に従事して死亡した連合国兵士と東南アジアからの労務者を慰霊している。
- サイヨークノーイ
- クウェー川平和寺院 - 当時捕虜の尋問などに当たった憲兵隊の元陸軍通訳永瀬隆が、連合国捕虜及び戦病死した日本兵の慰霊と平和祈願のために1985年2月に建設した寺院。
現存車両
1979年に2両のC56形蒸気機関車が帰還を果たし、日本国内で保存されている。31号機が東京・九段の靖国神社内の遊就館に静態で、もう一両は大井川鐵道の動態保存機44号機である。
44号機は当初静岡県の大井川鐵道で日本仕様に復元(切り詰められた運転台屋根や炭水車の後端部形状等にタイ時代の仕様が残る)の上、動態保存されていたが、老朽化が激しく2003年12月に一旦休車、同鉄道の千頭駅で静態保存とされたものを再度同鉄道が復活修繕し外観もタイ国鉄時代の姿に戻され、2007年9月に復活火入れ式を行い、2007年10月7日より運用に復帰している[10]。2010年12月に再び国鉄仕様に復元され、翌1月から運用に復帰している。
またタイ国内にも車両が多少残されており、クワイ川鉄橋近くには蒸気機関車719号機(旧C56 23 1935年汽車製造製、製造番号1352[11])及び蒸気機関車804号機(1915年Kitson製、製造番号5162[12])が静態保存されている。
ナムトックサイヨークノーイには蒸気機関車702号機(旧C56 4 1935年三菱重工製、製造番号156[13])が静態保存されている[14]。
JEATH戦争博物館には蒸気機関車175号機(1919年N.B.L.Co.,Hyde Park製、製造番号21758[15])また、捕虜を運ぶのに使った貨車C.G.1460がそれぞれ静態保存されている。
泰緬鉄道を題材とした作品
- 戦場にかける橋 - 第30回アカデミー賞作品賞
- エンド・オブ・オール・ウォーズ
- レイルウェイ 運命の旅路
- ザ・ナロー・ロード・トゥー・ザ・ディープ・ノース - リチャード・フラナガンの小説。2014年のブッカー賞を受賞。
脚注
- ^ 『王国の鉄路 タイ鉄道の歴史』 p.209
- ^ 小牟田哲彦『世界の鉄道紀行』講談社、2014年、220頁。ISBN 978-4-06-288275-0。
- ^ http://www8.plala.or.jp/taimen/note.htm
- ^ “Rōmusha recruitment The Workers The Thai-Burma Railway and Hellfire Pass”. 2015年8月19日閲覧。
- ^ 森武麿『集英社版日本の歴史 アジア・太平洋戦争』p259、集英社、1993
- ^ 吉川利治『泰緬鉄道』 同文館出版 1994年 p132
- ^ “「戦場にかける橋」泰緬鉄道ミャンマーで再生へ”. 読売新聞. (2013年1月1日) 2013年1月3日閲覧。
- ^ “メクロンの永久橋-実録-戦場にかける橋-塚本和也-鉄道ファン1981年11月号”. Google Docs p.18. JEATH 戦争博物館展示物. 2018年6月10日閲覧。
- ^ myonlinetour.com. “The Bridge Over The River Kwae, Bridge over the River Kwai by myonlinetour.com”. www.myonlinetour.com. 2018年6月12日閲覧。
- ^ 泰緬鉄道ノート
- ^ 『タイ国の蒸気機関車』 p.22
- ^ 『タイ国の蒸気機関車』 p.23
- ^ 『タイ国の蒸気機関車』 p.22
- ^ 『王国の鉄路 タイ鉄道の歴史』 p.208
- ^ 『タイ国の蒸気機関車』 p.16
参考文献
- 塚本和也「激闘! 駈上り勾配 −泰緬鉄道 過酷な輸送の実相−」 その1~3
- 交友社『鉄道ファン』2005年11月号 - 2006年1月号 No.535 - 537
- 永瀬隆『「戦場にかける橋」のウソと真実』:岩波ブックレット 岩波書店
- 吉川利治『泰緬鉄道』 同文館出版 1994年
- Eric Lomax『 The Railway Man』1995年