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=== プロ入り後 ===
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=== 阪神時代 ===
=== 阪神時代 ===
{{by|2001年}}は主中継ぎで起用された。6月17日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦ではプロ初先発で5回2失点の内容で初勝利をあげ、チームとしては1984年の[[池田親興]]以来、17年ぶりに阪神の新人のプロ初先発初勝利となった。最終的に28試合登板先発では7試合に登板した。4勝3敗、防御率3.75の成績を残した。


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阪神では、ルーキーイヤーの[[2001年]]から先発リリーフに活躍同年6月17日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦ではプロ初先発で5回2失点の内容で初勝利をあげ、チームとしては1984年の[[池田親興]]以来、17年ぶりに阪神の新人のプロ初先発初勝利となった。同年は28試合登板し、先発では7試合に登板した。4勝3敗、防御率3.75の成績を残した。

[[2002年]]中継ぎとして41試合に登板し、防御率3.32の成績を残した。シーズンオフ[[下柳剛]]、[[中村豊 (野球)|中村豊]]との2対2の交換[[トレード]]で[[山田勝彦]]と共に[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]へ移籍。


=== 日本ハム時代 ===
=== 日本ハム時代 ===
{{by|2003年}}は開幕戦でプロ初セーブをあげるなど春先は抑えとして登板したが、故障のためシーズン途中で戦線離脱。その間に抑えには[[建山義紀]]が起用されたため復帰後は中継ぎに回った。最終的に51試合に登板しプロ入り初の防御率2点台をマークした。


{{by|2004年}}は防御率1点台を記録したものの横浜ベイスターズから移籍してきた[[横山道哉]]が抑えで起用され、開幕戦で救援失敗し、二軍落ちした建山が一軍復帰後に中継ぎに回るなど新しい必勝リレーが確立したこともあり19試合の登板に終わった。
移籍1年目の[[2003年]]開幕戦でプロ初セーブをあげるなど春先は抑えとして活躍したが、故障のシーズン途中で戦線離脱。その間に抑えには[[建山義紀]]が起用され復帰後は中継ぎに回った。最終的に51試合に登板しプロ入り初の防御率2点台をマークした。


{{by|2005年}}[[3月30日]]に金銭トレードでリリーフ陣強化を目指した[[読売ジャイアンツ]]へ移籍<ref>2005年3月31日 日刊スポーツ大阪版 11版 6面</ref>。
[[2004年]]は防御率1点台を記録したものの横浜ベイスターズから移籍してきた[[横山道哉]]が抑えで起用され、開幕戦で救援失敗し、二軍落ちした建山が一軍復帰後に中継ぎに回るなど新しい必勝リレーが確立したこともあり19試合の登板に終わった。

[[2005年]][[3月30日]]に金銭トレードでリリーフ陣強化を目指した[[読売ジャイアンツ]]へ移籍<ref>2005年3月31日 日刊スポーツ大阪版 11版 6面</ref>。


=== 巨人時代 ===
=== 巨人時代 ===
{{by|2005年}}はわずか7試合の登板に終わり、リリーフ陣の駒不足を解消できなかった。


{{by|2006年}}5月には[[原辰徳]]監督が伊達と縁のある[[野村克也]]が監督を務める[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に対し譲渡を打診するものの、楽天側はこれを拒否した上、野村の元には話が届いていなかった。この年はプロ入り初の一軍登板なしに終わり、オフに[[戦力外通告]]を受けて現役を引退。
[[2005年]]はわずか7試合の登板に終わり、リリーフ陣の駒不足を解消できなかった。

[[2006年]]5月には[[原辰徳]]監督が伊達と縁のある[[野村克也]]が監督を務める[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に対し譲渡を打診するものの、楽天側はこれを拒否した上、野村の元には話が届いていなかった。この年はプロ入り初の一軍登板なしに終わり、オフに[[戦力外通告]]を受けて現役を引退。


=== 引退後 ===
=== 引退後 ===
その後、[[教員免許]]取得のため母校の法政大学へ通学、晴れて東京都の教員採用試験に合格<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。神奈川県で1年間臨時講師を務め、2010年4月1日より[[東京都立江戸川高等学校]]で教壇に立っている(担当教科は社会科)<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。また教員免許取得と並行して[[パソコン検定試験]]準2級と[[Microsoft Office Specialist|マイクロソフトオフィススペシャリスト]]のオフィスマスターの資格を取得した<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。教員を目指していた2008年度は臨時で巨人の寮監を勤めていた<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。
引退後、[[教員免許]]取得のため母校の法政大学へ通学、晴れて東京都の教員採用試験に合格<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。神奈川県で1年間臨時講師を務め、2010年4月1日より[[東京都立江戸川高等学校]]で教壇に立っている(担当教科は社会科)<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。また教員免許取得と並行して[[パソコン検定試験]]準2級と[[Microsoft Office Specialist|マイクロソフトオフィススペシャリスト]]のオフィスマスターの資格を取得した<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。教員を目指していた2008年度は臨時で巨人の寮監を勤めていた<ref name="shuube">ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利</ref>。


[[2011年]]、[[日本学生野球協会]]の適性審査を受け、4月1日付で[[高校野球]]の指導者として認定された。元プロ野球選手が高校野球の指導者になるには教諭として通算2年以上の在職が必要だったが、2011年2月に条件が緩和され、臨時講師の経験も教諭に準じる扱いとなり、伊達が適用第1号となった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/04/05/kiji/K20110405000567400.html 元阪神投手“緩和”で適用1号] スポニチ Sponichi Annex</ref>。
[[2011年]]、[[日本学生野球協会]]の適性審査を受け、4月1日付で[[高校野球]]の指導者として認定された。元プロ野球選手が高校野球の指導者になるには教諭として通算2年以上の在職が必要だったが、2011年2月に条件が緩和され、臨時講師の経験も教諭に準じる扱いとなり、伊達が適用第1号となった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/04/05/kiji/K20110405000567400.html 元阪神投手“緩和”で適用1号] スポニチ Sponichi Annex</ref>。

巨人と阪神の両球団でプレー経験のある投手は伊達が最後である。(2018年時点)


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2018年2月4日 (日) 04:48時点における版

伊達 昌司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県川崎市高津区
生年月日 (1975-08-23) 1975年8月23日(49歳)
身長
体重
179 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト2位
初出場 2001年5月25日
最終出場 2005年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

伊達 昌司(だて まさし、1975年8月23日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手投手)。

現在は、東京都の教員。父は、元プロ野球選手の伊達泰司

来歴・人物

プロ入り前

法政大学第二高から父と同じく法政大学に進み、同期の真木将樹らとともに投手陣を支えた。 当時は父がロッテスカウトとして活躍を見守っていた。 大学卒業後はプリンスホテルに進み、廃部になった2000年に同僚の大沼幸二長崎伸一と共にプロ入りを表明。2000年度ドラフト会議にて阪神タイガースから2巡目指名を受けて入団。社会人出身で2位指名ながら逆指名制度を利用せずに指名された唯一の選手である。

プロ入り後

阪神時代

2001年は主に中継ぎで起用された。6月17日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ初先発で5回2失点の内容で初勝利をあげ、チームとしては1984年の池田親興以来、17年ぶりに阪神の新人のプロ初先発初勝利となった。最終的に28試合の登板で先発では7試合に登板した。4勝3敗、防御率3.75の成績を残した。

2002年は新監督に星野仙一が就任。中継ぎとして41試合に登板し、防御率3.32の成績を残した。オフに星野監督のチーム内大幅刷新に伴い下柳剛中村豊との2対2の交換トレード山田勝彦と共に日本ハムファイターズへ移籍した。

日本ハム時代

2003年は開幕戦でプロ初セーブをあげるなど春先は抑えとして登板したが、故障のためシーズン途中で戦線離脱。その間に抑えには建山義紀が起用されたため復帰後は中継ぎに回った。最終的に51試合に登板しプロ入り初の防御率2点台をマークした。

2004年は防御率1点台を記録したものの横浜ベイスターズから移籍してきた横山道哉が抑えで起用され、開幕戦で救援失敗し、二軍落ちした建山が一軍復帰後に中継ぎに回るなど新しい必勝リレーが確立したこともあり19試合の登板に終わった。

2005年3月30日に金銭トレードでリリーフ陣強化を目指した読売ジャイアンツへ移籍[1]

巨人時代

2005年はわずか7試合の登板に終わり、リリーフ陣の駒不足を解消できなかった。

2006年5月には原辰徳監督が伊達と縁のある野村克也が監督を務める東北楽天ゴールデンイーグルスに対し譲渡を打診するものの、楽天側はこれを拒否した上、野村の元には話が届いていなかった。この年はプロ入り初の一軍登板なしに終わり、オフに戦力外通告を受けて現役を引退。

引退後

引退後、教員免許取得のため母校の法政大学へ通学、晴れて東京都の教員採用試験に合格[2]。神奈川県で1年間臨時講師を務め、2010年4月1日より東京都立江戸川高等学校で教壇に立っている(担当教科は社会科)[2]。また教員免許取得と並行してパソコン検定試験準2級とマイクロソフトオフィススペシャリストのオフィスマスターの資格を取得した[2]。教員を目指していた2008年度は臨時で巨人の寮監を勤めていた[2]

2011年日本学生野球協会の適性審査を受け、4月1日付で高校野球の指導者として認定された。元プロ野球選手が高校野球の指導者になるには教諭として通算2年以上の在職が必要だったが、2011年2月に条件が緩和され、臨時講師の経験も教諭に準じる扱いとなり、伊達が適用第1号となった[3]

巨人と阪神の両球団でプレー経験のある投手は伊達が最後である。(2018年時点)

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2001 阪神 28 7 0 0 0 4 3 0 -- .571 293 69.2 59 8 31 1 5 49 2 0 30 29 3.75 1.29
2002 41 0 0 0 0 2 3 0 -- .400 234 57.0 49 5 14 0 5 40 3 0 25 21 3.32 1.11
2003 日本ハム 51 0 0 0 0 5 1 9 -- .833 235 55.1 49 3 29 0 5 16 1 0 17 16 2.60 1.41
2004 19 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 95 21.2 22 2 7 0 2 7 1 0 6 4 1.66 1.34
2005 巨人 7 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 37 7.1 15 1 1 0 0 5 0 0 8 8 9.82 2.18
通算:5年 146 7 0 0 0 12 7 9 0 .632 894 211.0 194 19 82 1 17 117 7 0 86 78 3.33 1.31

記録

投手記録
打撃記録

背番号

  • 49 (2001年 - 2002年)
  • 17 (2003年 - 2005年途中)
  • 59 (2005年途中 - 2006年)

脚注

  1. ^ 2005年3月31日 日刊スポーツ大阪版 11版 6面
  2. ^ a b c d ベースボールマガジン社発行、週刊ベースボール2010年3月29日号隔週連載コーナー『野球は幸せか!』P96-97より、著者・清武英利
  3. ^ 元阪神投手“緩和”で適用1号 スポニチ Sponichi Annex

関連項目

外部リンク

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