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[[File:文学の小径 - 前田夕暮句碑.jpg|thumb|前田夕暮句碑(文学の小径・山中湖村)]]
'''前田 夕暮'''(まえだ ゆうぐれ、[[1883年]]([[明治16年]])[[7月27日]] - [[1951年]]([[昭和26年]])[[4月20日]])は、[[日本]]の[[歌人]]。[[明治]]から[[昭和]]期にかけて活動した。本名:'''前田 洋造'''('''洋三'''とも)。
'''前田 夕暮'''(まえだ ゆうぐれ、[[1883年]]([[明治16年]])[[7月27日]] - [[1951年]]([[昭和26年]])[[4月20日]])は、[[日本]]の[[歌人]]。[[明治]]から[[昭和]]期にかけて活動した。本名:'''前田 洋造'''('''洋三'''とも)。



2016年12月5日 (月) 11:20時点における版

前田夕暮句碑(文学の小径・山中湖村)

前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年明治16年7月27日 - 1951年昭和26年4月20日)は、日本歌人明治から昭和期にかけて活動した。本名:前田 洋造洋三とも)。

門下には宮崎信義香川進などがいる。長男の前田透も歌人であり、歌誌『詩歌』を引き継いだ。

経歴

神奈川県大住郡南矢名村(現・秦野市)の豪農の家に生まれる。

1898年中郡共立学校(現・神奈川県立平塚農業高校秦野高等学校)に入学。

1899年、家族に無断で上京したことを厳格な父親に咎められ、自殺を図る。同年秋、中学を退学し、近畿地方へ放浪の旅に出る。

1902年東北地方を徒歩で旅行。この頃より『夕暮』の号を名乗り、文学に目覚め投稿を開始する。

1904年、上京し尾上柴舟に師事。同時期に若山牧水も入門し、以後、交友が続いた。この頃、漢学私塾二松學舍(現・二松學舍大学)に学ぶ。

1906年白日社を創立。同年、洗礼を受けクリスチャンとなる。

1907年、雑誌『向日葵』を発刊するが資金難より2号で廃刊する。

1909年文光堂へ就職し『秀才文壇』の編集者となる。その頃、竹久夢二と知り合う。

1910年、若山牧水の歌誌『創作』の創刊に編集同人として参加。また、同年に栢野繁子と結婚。

1911年、雑誌『詩歌』を白日社より創刊。

1916年、第4歌集『深林』を刊行した際に、島木赤彦が『アララギ』にて夕暮を批判、赤彦と激しく対立した。

1918年、『詩歌』休刊。

1919年、前々年に死去した父親の経営していた関東木材合名会社山林事業を引き継ぐ。

1921年、牧水と互いの歌選集を出す。

1923年東海道線小田原付近で北原白秋と再会し、そのまま2人で三浦半島へ吟行の旅に出る。以後、白秋との交友が続いた。

1928年、『詩歌』復刊、口語自由律短歌を提唱。のちに『新短歌』を創刊する宮崎信義が参加。

1942年、定型歌に復帰。太平洋戦争中は日本文学報国会短歌部会の幹事長を務めるなど、戦争協力的な活動があった。

1945年の終戦後、経営する関東木材は秩父兵器木材株式会社に吸収され、秩父兵器の株券を得る。太平洋戦争終結と共に秩父兵器の株は無価値となり、奥秩父の資産を失う。

1948年、亡き友人・白秋を偲び『白秋追憶』を刊行。この頃より斎藤茂吉との交友が始まる。

1949年、持病の糖尿病が悪化。1951年年初より重篤となる。4月20日11:30、結核性脳膜炎にて死去。享年69歳。多磨霊園に葬られる。法号は青天院靜観夕暮居士。

代表歌

  • 木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな(『収穫』)
  • 向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ(『生くる日に』)
小中学校の教科書に採用されることも多い作品。
  • 自然がずんずん体のなかを通過するーー山、山、山(『水源地帯』)
初めて飛行機に乗った時の感慨を詠んだ歌。口語自由律期を代表する作品。

著書

外部リンク

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